国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|塚田誠之

壮族社会文化史研究の要点

 

1.「壮族」の概要

 

まず、壮族の概要についてふれておこう。壮族は人口約1550万人(1990年統計)を擁する、中国最大の「少数民族」である。人口の90%以上が広西壮族自治区の地に集居する。少数のものが雲南(101万人)・広東(14.9万人)・貴州(3.8万人)・湖南(2万人)などの周囲の各省に居住する。少数民族としての認定は解放直後のことである。すなわち、1951年の中央訪問団による調査を経て1民族として統合することに着手され、1952年12月の桂西僮族自治区の設立とともにそれが進行し、1953年の第一次センサスを経て1954年には確定した、といわれる(※1)。それは「ブー・ヨイ(イェイ)」(布雅伊、布越伊)、「ブー・ノン」(布儂)、「ブー・トゥー」(布土)、「ガン・ヤン」(講央)等、20種を超える異なる自称を持つ諸集団が国家の政策によって1つの民族として統合されたものである。


その言語はタイ系諸言語の北方群に属し、南北の二大方言区に大別される。語彙のうち60-70%は共通するとされるが、実際には両方言の差異は大きい。さらに両方言区のなかにも局地的な相違がある(※2)。壮族とは言語や習俗などに一定程度の共通性が見られるものの、地域によって異なる諸集団が解放後に国家の政策によって統合され「誕生」した民族なのである。その先民(の多く)は史料用語では「撞」(南宋~元)、「てへんに童」(明~民国)、「狼」(明清時代。土官地域=間接統治地域における称謂)等と表記された。唐代の「西原蛮」(のうちの多くのもの)・「黄洞蛮」、北宋時代の「広源州蛮」等も儂・黄といった姓から見て壮族と関係があるとみられる。したがって壮族は唐宋時代以来の長期的な歴史を持つのである(※3)(なお中華人民共和国成立後「僮族」と表記され(※4)、1965年同音で「強壮」を意味する「壮族」に表記が変えられた)。


その居住地について、壮族は主に広西の西部・北部の山地や丘陵地に居住する。しかし広西中部の丘陵地にも、東部の平野地帯にも分布する。そのおおよその居住状況は壮族が広西西部に、漢族が東部に集中しており、その中間の中部で両者が接している。しかし西部でも珠江水系に沿う平地には漢族が居住している。このような居住状況から漢族の広西への進出とその結果、壮族・漢族間に歴史上密接な関係が生じたであろうことが想定される。また壮族集居地、壮漢接触地、漢族集居地など居住状況の相異から壮族・漢族間関係の地域的相異が生じたであろうことも想像される。壮族の民族形成史の輪郭を明らかにするためには、漢族との諸般にわたる関係史を押さえた研究が必要であるのである。

 
[註1]

(※1)このとき、すでに公認されていたモンゴル・回・チベットなど9民族に加えて、チワン・プイ・トン・ペー・タイなど29民族、計38民族が確定された[黄(主編)・施(副主編)1995:148]。


(※2)北部方言に7つの「土語」が、南部方言に5つの「土語」がある[中国社会科学院民 族研究所・国家民族事務委員会文化宣伝司(主編)1994:838-842]。筆者の知る限りでは、それら「土語」がさらにいくつかの方言を含む場合もある。


(※3)壮族が中華人民共和国成立後に統一的な名称を付与された民族だとすると、中華人民共和国成立前の「壮族の先民」との範囲のズレに問題があろう。しかし、ここでは煩を避けるため壮族の先民を「壮族」として括ることをあらかじめ断っておきたい。「少数民族」「民族」という概念・用語も中華人民共和国成立後の民族政策のもとで生まれた。本書では歴史的な叙述においてもそうした用語を使用するが、それは行論の便宜上であって、単純に現状を過去に投影しようとするものではない。


(※4)中華人民共和国成立前において1940年以降は国民党政府の「行政院訓令」により「僮」に改められたが、実際には「獞童」も併用されていた。

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