国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|塚田誠之

壮族社会文化史研究の要点

 

2.中国南部民族史の先行研究における壮族の研究

 

ところで、壮族に関する研究、とくに明代以降の時期における研究については、従来空白の部分が多かった。


日本における中国南部民族史研究の開拓者として白鳥芳郎氏の研究が挙げられる。その研究(※5)は、中国南部地域のなかでも西南部(雲南・貴州・四川)に比重が置かれた。すなわち西南部の非漢族諸集団の種族系統・生業・社会・文化等の幅広い領域において、集団間の接触にともなって生じた複合的な要素を掘り起こし検証していく作業を通して、民族史を見直すことに光が当てられていた。そして広い地域・長期的な時代が取り扱われ、雲南の青銅器文化における中央アジア遊牧文化の影響、中国南部諸民族の生業形態を基準とした分類等、スケールの大きいユニークな構想のもとに多くの歴史的事実が明らかにされた。しかし、壮族については専門的に研究されたわけではなかった。すなわち広西の諸土官(※6)の姓を手懸りに種族系統を推定した研究[白鳥1964]において広西の土官に、生業形態を基準に諸民族を分類した研究[白鳥1965]において壮族にふれられているが、それらは壮族史の専論ではない。広西壮族に関して史料を博捜して綿密な分析をする作業は課題として後代に残されたのである。


史料を駆使して中国南部民族史研究を行ったもう一人の開拓者として挙げられるのが歴史学者河原正博氏である。中国南部地域が対象とされ、白鳥氏の研究ではあまりふれられなかった広西・広東地域も取り上げられた(※7)。明代広西土官の系譜の真偽について綿密な考証を経て検討した名著[河原1944]が今も歴史学・人類学を問わず中国研究者必見の業績となっている。また、宋代の儂智高の蜂起を当時の中国・ベトナム間国際関係のなかに位置付けて検討した研究[河原1959]も高い評価がなされよう。しかし、概して南北朝・唐宋時代というふるい時代が中心とされ、明代以降の広西の壮族については研究がほとんどなされなかった。


土官は研究者の注目を惹き、谷口房男氏によって専門的な研究もなされた。氏の研究では、後漢から明代まで長期にわたる時期について漢族・非漢族の接触地帯が広く扱われた(※8)。漢族・非漢族の接触地は漢族の側から見るとフロンティア地域であり、それは時代とともに南下していった。フロンティア地域のうち明代の広西では土官の動向が中心とされ、とりわけその政治史に光が当てられた。これにより諸土官間の関係の動態、土官と中国王朝との関係について多くの知見を得ることができる。しかし、問題点として、当時の壮族土官の領内の社会の実態は不鮮明のままであり、また、そもそも土官地域以外の直轄地に居住する壮族の姿はそこには見えない。


直轄地の壮族にも目配りをした研究として、竹村卓二氏による研究が挙げられる[竹村 1967]。氏は民族学、社会人類学の立場から、中国南部および東南アジア大陸部のタイ北部に居住するヤオ族の支系「過山ヤオ」に焦点を当てて、実地調査と歴史文献とを組み合わせた研究を行った[竹村1981]。それは、ヤオ族の適応様式の独自性と多様性、生業・儀礼・世界観・命名法・起源神話等広い範囲にわたり、いわば過山ヤオ族の民族誌ともいうべき本格的な研究であった。しかし、氏にとっての主要な関心事はヤオ族の文化的特徴の解明にあった。したがって、氏の研究において壮族は主体ではなく、ヤオ族の比較の対象であったのである。かくして日本では壮族の本格的な研究が待たれていたのである。


ここで年代が多少前後するが中国人による壮族史研究にふれる。ふるくは劉錫藩(劉介)氏による研究[劉1934]、徐松石氏による研究[徐1935]がある。中華人民共和国成立後は黄蔵蘇氏による研究[黄1958]、『壮族簡史』[『壮族簡史』編写組(編)1980]、覃国生・梁庭望・韋星朗氏による研究[覃・梁・韋 1984]、梁庭望氏による研究[梁(編)1987]、黄現播・黄増慶・張一民氏による研究[黄・黄・張(編)1988]等がある。なお、研究書でなく調査資料集であるが、1950年代後期から1960年代初期に行われた調査に基づいて編集され(1980年代半以降公開出版され)た『広西壮族社会歴史調査』(中国少数民族社会歴史調査資料叢刊、全7冊)がある。


劉錫藩氏の研究は壮族史の専論ではなく、瑤族やトン族など広西に居住するほかの民族も扱われているが、実地調査による資料と文献資料を併用する方法によって、壮族の移住史・社会・物質文化・儀礼・言語等多くの事実が明らかにされた。それは広西諸民族の記述を旧来の「地方志」のレベルから脱却して民族学研究のレベルに高めた先駆的な研究である。今日、前記の「壮族社会歴史調査」の膨大な資料のまえにその業績が薄らぎがちだが、壮族史研究の先駆として正当な評価がなされるべきである(※9)。


徐松石氏の研究は、タイ系言語に特有の「倒装詞」をもつ地名の分布を検討し、それらの地の住民(の多く)を壮族ないし壮語を話す人々に求めるというユニークなものである。しかし強引な論法が目立つうえ、その研究によって明らかになったのは壮族のふるい分布地域に関する可能性のみであって、壮族史自体が明らかにされたわけではない。


ほかの解放後における研究にも言えることだが、(『壮族簡史』など本としてのスタイルも関係があるが)中国における壮族研究は総じて概説的で、史料や調査資料の分析の緻密さに関しては問題が残る(※10)。なお、中国人研究者によって書かれた論文に基づき中国少数民族を網羅的に解説した村松一弥氏の研究においても、壮族は概説的な記述にとどまっている[村松1973]。


日本で壮族史を扱った研究として、松本光太郎氏[松本1990]や菊池秀明氏による研究[菊池1998]が近年上梓された。松本氏の研究では中華人民共和国成立後の壮族の民族としての「再組織」過程について、移住伝説やアイデンティティ、さらには国家政策との関連において論じられている。そこでは現代の壮族のエスニシティを考えるときに不可欠な問題が提起されている(※11)。菊池氏の研究は本格的な歴史研究である。すなわち、土官地域・直轄地の枠組みを超えた近代の広西における諸民族集団の動向が新発見の史料を網羅的に駆使して鮮明にされており、そのなかで壮族も扱われている。それは壮族史の専論ではなく、広西の移民社会の形成と特質を解明するという大きな構想の下に関係諸集団が検討されており、壮族はその一つとして扱われている。とくに壮族の漢化の内容と意義が、土官とその後裔を対象に検討されている。ほかに、稲田清一氏による近代における壮族の蜂起の社会経済的背景を検討した研究[稲田1988]が、筆者による壮族の佃農化に関する研究(本書第2章)の問題点に迫る研究として見逃せない。 稲田氏は主体を壮族側に置いて、「漢化」が壮族の人々による選択の結果であることを指摘された。解放後の「少数民族」と解放前の非漢族との連続性・不連続性に問題が残るものの、非漢族の側に近づいた視点の転換は壮族史の研究史において重要である。


このように、近年の新しい研究があるものの、総じて言えば、従来、この民族集団に関しては研究がなされることが少なかったのである。壮族は歴史上漢族からの影響を受けながら社会を形成してきたのであるが、社会・文化を静態的にとらえがちな旧来の民族学=文化人類学では民族的な特徴が突出してみられる集団のみが対象とされがちだった。また歴史学では経済・政治的な中心地に研究が集中し周縁地には(大規模な変革運動や反乱を除いては)さしたる関心が注がれなかった。そもそも一つの民族集団の歴史を長期的かつ体系的に研究するという方法自体がほとんど用いられなかったのである。壮族史研究は旧来の民族学・歴史学の空白部分であったのである。

 
[註2]

(※5)その主な業績は[白鳥1985]を参照のこと。


(※6)元~清朝が中国南部辺境地域で実施した土司制度と総称される間接的統治制度につい て、その行政的な系統上、広西には土司よりも土官が多かった。それゆえ本書では「土官」とし、土司土官が設置された地を「土官地域」と表記することとする。


(※7)その主な業績は[河原1984]に収録されている。


(※8)その主な業績は[谷口1996]に収録されている。


(※9)壮族研究の回顧が范宏貴氏によってなされている[范1989]。それによると、劉錫 藩氏の研究は内容の豊富さ、論述の多面性において評価がなされているが、他方で族称 にケモノ偏を用いたことなどにおいて「統治者の少数民族に対する偏見から脱け出せず」、「少数民族を蔑視する内容」が見られることが指摘されている。確かに時代の思潮を反映した漢族中心的な叙述ではあるが、しかし、黄文山[黄1936]・凌純声[凌1936]・唐兆民[唐1948]ら同時代の民族学研究者と比較したときにとくに劉氏の姿勢のみに問題が多かったとは思われない。


(※10)明清時代における直轄地の壮族を扱った研究として蘇建霊氏の研究がある。壮族・漢族の接触の諸現象とその結果としての両者の「融合」、および広西東部に置かれた土官に関する制度史に力点を置いて検討されている。壮族の佃農化や中国王朝の壮族統治体制といった、本書でも扱う問題にふれているが、同氏も述べているように、それらは筆者の研究に多くを拠っており、その点では研究のオリジナリティに問題が残る[蘇1993]。


(※11)松本氏には中国語による論文[松本1989]もある。壮族の民族意識が歴史上、漢人後裔意識によって薄れるが、中華人民共和国成立後に再生していくことが指摘されている。

 
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