国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|塚田誠之

壮族社会文化史研究の要点

 

4.研究の要点

4.1 壮族の社会変動
 

4.1.1)壮族の社会変動として、まず、明代における壮族の広西への移住と定住史について、移住の歴史的事実関係、移住の要因を押さえたうえで来住初期における壮族の生態と社会について検討した。中華人民共和国成立後の中国では一種の郷土意識のためか、壮族が広西の「土著民」であることが前提とされ、移住は問題にもされてこなかった。が、移住は壮族という民族の形成史を考える際に避けては通ることができない重要な問題なのである。


検討を通じて、壮族のかなりの部分は明代に貴州や湖北湖南・広西西北部辺境地域等の各地から小規模集団の波状的移動という形で広西へと来住したこと、移住の要因として、明初に統治権力が敢行した貴州遠征をはじめとする漢民族の貴州への進出が、更には広西への定住の契機として漢人による招佃があることが判明した。


そして広西来住の初期における壮族の生態として、山間の村落に居住し、焼畑耕作や狩猟採集を主な生計手段としていた。「#老」を統率者とする各村落は政治的自律性が高く、その社会は非階級的色彩が濃厚で、また村落のレベルを超える恒久的政治的統合は形成され難かった。しかし同時に承佃を開始し定着農民化しつつあった。


4.1.2)上記の明清時代における漢族地主による壮族の招佃の開始・進行、それにともなう壮族・漢族対立の発生と壮族の蜂起、統治権力の弾圧の過程、さらにその結果、清代において壮族の佃農化が一層進行し、独自の社会が崩壊していくという大きな歴史的潮流は広西の直轄地で見られた現象で、それゆえに従来の土官地域に重点を置いた研究では見過ごされてきた。ここでこうした点について検討を行った。


壮族の承佃は永楽年間から開始されたが、その背景として、漢人地主の側には農地の開墾と防衛のための労働力・武装力の獲得という事情が、他方、壮族の側には生産活動の安定化、統治権力との接触の回避という事情が存した(壮族は文字・言語・習俗等の文化が漢人のそれと異なるがゆえに、統治権力との接触を極度に恐れていた)。承佃は村落単位で行なわれ、漢人地主が彼らを招いた。武装力を保有する壮族に対して、他方、漢人地主もまた、「土豪」的傾向を有していたようである。漢人里長・地主は、各種の手段を籠して壮族に対して恣意的非法搾取を行った。そのことが導火線となって漢・壮の主佃関係の尖鋭化を招いた。


明中期以降、漢人地主と壮族との主佃関係が尖鋭化して行き、明末にかけて壮族の武装蜂起が発生した。このような状況下に統治権力が介入し、蜂起を弾圧し壮族を編籍するとともに、他方、漢人地主に対しても招佃等に関する規制を行った。しかしそれは、壮族の佃農化の大勢を全面的に阻止するものではなく、清代に入ると壮族の佃農化は一段と進行した。それにともなって居住形態や文化の面においても変化が発生した。平野部において漢人と同一の村落に雑居するようになり、壮族の村落が解体し、壮族は漢人村落へ吸収されて行った。壮族独自の社会体制もやはり変化して行ったものと推測される。階層分化が発生し、独自の村落と社会体制とが解体し、壮族は漢人社会へ吸収同化されて行き、文化面での独自性をも喪失して行ったように考えられる。


4.1.3)明末清初は中国史における大きな変革期であるとともに壮族の社会変動においても大きな転機となる時期であった。この時期の壮族の動向について、当時の民族誌とも言うべき内容を持つ史料、王士性と黄之雋の著作において壮族がどのように描かれているのかという切り口から検討を行った。当時の壮族の社会・文化の実態を史料の分析を通じて明らかにした。


直轄地の壮族は、政治・社会・文化の各方面で伝統的な要素を保持しながらも、同時に漢族の影響によりそれに変化が発生しつつあった。すなわち、独自の村落に居住し独自の政治・社会体制の下で一定の武装力を保持していたが、次第にその村落が平地に漢族の村落と錯綜して形成され、壮・漢族が同一村落に共住することが行われるようになりつつあったと考えられる。また統治権力によって編籍され始めるとともに漢族地主への佃農化が方向付けられた。なお、その親族組織は必ずしも父系的な原理によって一元的に組織される性質のものではなく、母方の親族も重要な役割を担っていたようである。さらに衣服・住居・婚姻習俗等の方面でも伝統を維持していたものの、漢族との接触の増加にともない、それに変化が生じつつあった。壮族のもとへの商品経済の浸透は本格化してはいなかったが、広東商人の進出が行われ始め、また広東商人をも含む漢族男性と壮族女性との通婚が開始されるようになった。


他方、土官地域では、まだ土官が領内で強権を誇り住民の生殺与奪の権を掌握・行使しており、この点で直轄地のものと政治・社会体制上の顕著な相異が見られた。漢文化の移入も土官の主導の下に行われていた。別の面からすると壮族の伝統文化が土官地域により多く保存される結果となったであろうと思われる。


高床住居が密集する壮族の棚田の景観(龍勝各族自治県)
龍背の棚田(龍勝各族自治県)
 

4.1.4)壮族の社会がどのような特徴をもち、清代中期以降においてどのように変化していくのかという点について、広西北部山岳地帯の龍勝県龍脊地域の村落と村落群を舞台として検討した。これまでのところでは広西の直轄地を広く扱い大きな歴史的潮流を把握してきたが、ここでは特定の狭い地域に光を当てて、民族学的調査の資料をも活かして検討した。また、対象時期は清代から民国期にかけてである。


先述のように明清時代に広西の多くの地域で壮族の佃農化が進行し独自の社会体制が解体して行ったが、しかし、そうした潮流において、広西のなかでも、社会経済的環境の相異によって社会変化の時期について地域差が見られた。広西北部山岳地帯龍勝各族自治県の「龍脊十三寨」では、壮族の非階級的な統率者「寨老」が、1933年以前は、寨、同姓集団、十三寨、十三寨を越える範囲、のさまざまなレベルにおけるもめごとの処理を行っていた。


高床住居が密集する壮族の寨の景観(龍勝各族自治県)
高床住居が密集する壮族の寨の景観(龍勝各族自治県)
イロリを禍根での食事風景(龍勝各族自治県)
イロリを禍根での食事風景(龍勝各族自治県)

壮族の社会は寨(山間集落)を基本単位として、寨老の調停を通して人々が緩やかに結びついていた。人々の連帯の範囲は伸縮性に富んでおり、そして多様であった。寨老は人々の結集の中心に位置していたが、あくまで寨老と当事者とは二者間の個人的信頼関係に基づく緩やかな関係にあった。


寨老は他方で、「頭人」として行政機構の末端に位置し、統治権力は彼を通じて村民を間接的に統治した。当初は統治権力の力が村民にまで及んでいなかった。清末の郷約が制定された時期には、外来移民の移住とともに治安が悪化し危機的状況に陥った時期において十三寨の一体化が強まった。寨老たちによる郷約の制定・修改のための「大会」が開催されたが、それはタイトな組織ではなかった。寨老といっても、当初から流動的な存在であったのである。


1933年、広西北部の瑶民蜂起への弾圧を契機に新行政システムが実施され、習俗の漢化政策ともあいまって、寨老の機能は弱体化し、統治権力の力が浸透した。以降、寨老は行政面での力、社会の磁源としての作用を喪失した。すなわち寨老を中心とする人々の緩やかな連帯から、統治権力の浸透によって寨老の役割が大幅に制限された。村落の解体には至らなかったが、少なくとも独自の社会体制が変貌を遂げた。


なお、十三寨は外界から孤立していたわけではない。先に統治権力との関係についてふれたが、ほかにも、たとえば土地をめぐるもめごとが生じた場合、隣接する漢族村落群の長をまじえて調停が行われたし、墓参の際には隣県の同姓の壮族と共同で行った。婚姻も十三寨を越える範囲で行われたし、鉄製品や陶器など日用品は漢族行商人によってもたらされたのである。

 
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