国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|塚田誠之

壮族社会文化史研究の要点

 

4.研究の要点

4.3 壮族と漢族との民族間関係
 

壮族の社会変動の引き金となった要因として、漢族との接触にともなう現象、とりわけ経済的な支配・従属の関係が挙げられる。そこで、壮族と漢族との民族間関係について全面的な検討を行った。


4.3.1)中国王朝の対壮族政策という側面に焦点を当てて、明代における壮族の蜂起の弾圧と辺防体制、明末清初における壮族の編籍と徴税の政策、明末清初における対壮族文教政策を具体的に検討した。そこでは統治権力による文教政策に関連して、壮族による漢文化の受容の問題にも論及した。


明清時代における中国王朝の対壮族政策について、まず明代中期~末期の壮族の蜂起を弾圧した(その際に狼兵、さらには「(熟)獞戸」として編籍された壮族をも徴発した)。蜂起の弾圧後、残党が聚居する地域には土司を創設して間接統治を行った。他方、服従した壮族に対しては、「獞戸」として編籍し税役納入の義務を課した。壮族の税役納入については暫くは特別措置が実施された(税役催徴に当たっては村落の既成の指導者「獞老」を利用して徴税・徴発機構に編入した)。この面で壮族は「生獞」→「熟獞戸」→「民戸」という過程を辿ったものと考えられる。


明末清初において壮族の就学と習俗の改革の政策が並行して実施された。府県学や社学(明代)・義学(清代)への就学の普及と範囲限定的、漸進的に実施された習俗の改革とを通じて壮族の文化が変化して行ったように考えられる。


4.3.2)壮族と漢族との民族間関係の動態について、地主・商工業者・一般農民など社会階層の相違に応じた全面的な検討を行った。漢族の広西への移住の大勢と移民の存在形態を押さえたうえで、漢族移民と壮族との関係を対象として、自然環境・社会環境の異なるいくつかの代表的な地域を選び、それらの間の差異をふまえながら検討を行った。地域は、広西東南部平地、北部山地、およびそれらの中間的な地域が対象とされた。検討はさらに土官地域にも及んだが、検討を通じて次のことが判明した。


明清時代に漢族の広西への移住が進行したが、それは明末に開始され清代初期から中期にかけて本格化した(特に商人の進出の過程においては珠江水系が重要な役割を果たした)。移住民の中、広東・湖南出身者とが多数を占め、広西における両省出身者の勢力範囲は、広東人が広西南部、湖南人が広西北部であった。移住の背景として、析出地と移住先との社会経済的事情が存したが、広西について言えば商業専従人口の少なさ、農地開発における後進性等の事情が存した。移住民のうち特に広東商人は巨利を得て広西の経済権を掌握して行った。また、移住農民(「客家」も多く含まれた)には広西で成功して土地を獲得する者が少なくなかった。なお、工匠、特に湖南出身者が来住したが、概ね小規模経営であったため、技術を伝える役割を果たしたものの広西の経済権を掌握するまでには至らなかった。


移住民は広西全域に及び、平地のみならず山間部へも進出したが、しかし移住民と壮族との関係については地域差が見られた。すなわち、諸要素を考慮して大別すれば、次の3つの場合が見られた。(ア) 広西の中でも経済的先進地帯であり、地主制・商品経済が発達し漢族人口の多い東南部・珠江流域では、壮族は漢族地主の経済的支配を受けるとともに、その独自の社会体制が解体する傾向にあり、また内部でも階層的分化が発生した。 (イ) 経済的後進地で民族集団間の接触も多くない広西北部山岳地帯の龍勝では、壮族は独自の社会体制下にあり、集団としての統合が比較的強かった。 そこでは移住民が大地主となり壮族を佃農とするような事態は生じ難かった。(ウ) 先の2つの地域の中間的な様相を呈する地域である広西中部の柳城県・宜山県では、清末以降民国期にかけて壮族が客家に土地を奪われて佃農化するという事態や族内での階層分化が発生しつつあったが、しかし東南部よりは移住民と壮族との集団間の社会的矛盾はかなり遅れて発生し、またその程度も比較的小さかった。これらの外、土官地域、特に珠江水系に沿った土官領にも移住民が進出したが、直轄地の場合と比較すると土官の独自の支配体制による制約もあって、量的にはさほど多くなかったように思われる。


4.3.3)民族間関係はさまざまな側面を持つが、次に壮族と漢族との通婚という点に光を当てて検討を行った。漢族移住民と壮族との関係のあり方とその地域差について、壮族と漢族との通婚史の面から、17世紀以前は壮族と漢族との通婚は発生し難かった。17世紀末~18世紀初(清代康煕・雍正年間)において壮族と漢族との間に、とりわけ壮族の女性と漢族男性との配偶を中心として通婚が行なわれるようになった。19世紀末~20世紀初(清末から民国にかけての時期)になると壮族と漢族との通婚、とくに壮族女性の漢族男性のもとへの嫁出が広範に見られるようになった(その場合、言語を含む習俗は漢族のそれが用いられた)。こうした推移から、壮族の「漢化」が進行したことが窺い知られるとともに、両族間の通婚が壮族の「漢化」を促進する要素の一つとなったであろうことが指摘される。

 
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