国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|塚田誠之

壮族社会文化史研究の要点

 

4.研究の要点

4.4 整理と展望
 

以上に概要を記してきたがいささか冗長になった感があるので、ここでさらに整理をしよう。概して壮族は漢化過程をたどった。明代において、とくに直轄地で一定の武装力を保持し寨老を中心とする独自の村落・村落内社会体制が見られたが、それが変動、解体していくのを余儀なくされた。清代には壮族は漢人地主の佃農となる傾向が強まるとともに、その村落が解体し漢人村落へ吸収されていった。そのような変化はとくに明末清初の時期に生起しはじめた。しかし、壮族の社会変動には地域差があった。龍勝県のように社会が変化しながらも村落の解体にまでは至らなかった場合もあった。そもそも壮族の社会には寨老を結集軸とする人々の緩やかで流動的な連帯という特徴が見られた。しかし民国期になると龍勝でも寨老制の衰退とともにそうした特徴が変化するのを余儀なくされた。


文化の面でも漢文化を受容した。歴史上、壮族は漢文化を受容したが、しかし、壮族文化を全て漢文化に置き換えたのではなく、壮族文化の特徴をも維持した。土官によって領民の有する壮族の文化伝統それ自体を否定するような政策はとられなかった。壮族の年中行事においては壮族的・漢族的両要素が並存していることが判明した。年中行事の一つ、莫一大王祭は壮族的・漢族的両要素の複合的な祭祀形態であることが判明した。


莫一大王が中国皇帝への服従と反抗とを基軸に語られるように、漢族の強い影響力を不断に受容し続け、漢文化を導入吸収する文化形成の過程において、壮族なりの自己主張がなされてきたのである。不落夫家婚に見られるように、漢文化を導入しても自らの文化的特徴を残すことのできる方式が維持されてきたのであって、それゆえに壮族の側においてそれが習俗として維持されてきたのである。


このような社会変動・文化変容をもたらした要因として、壮族を弾圧し編籍し文化を漢文化に変えていこうとする統治権力の政策の方向性、壮族を佃農化せんとする漢族地主の経済的圧力、商人・工匠・農民など様々な漢族移民との様々な局面における接触の頻度の高さと壮族のアイデンティティの変化を生み出すような接触のあり方、という壮族をめぐる民族間関係の特徴が指摘されるであろう。


最後に地域差の存在についてふれる必要がある。来歴の多元性や漢族との社会関係の濃淡、政治組織の相違、さらには自然環境などの要因が複雑に絡みあって形成されきたった地域差が見られた。莫一大王信仰は北部や西北部の山岳地帯などの地域に残されたものであって他地域には見られない。土官地域の場合、漢文化の受容方式において直轄地との相異があった。年中行事について広西各地で行事内容に相違が見られた。民族間関係について地域によっては壮漢関係のあり方に相異が見られた。


地域差といえば県内でも環境によって異なっていた。龍勝県では村落(寨)によって行事に相違が見られた。このことから、「壮族」とは一定程度共通する文化を共有しながらも、多くの集団、個々の村落にまで行き着くような多くのレベルの異なる下位集団が結集して形成された民族集団だということが確認されよう。来歴を異にし政治的に自立的であり文化的にも必ずしも等質的ではない多くの下位集団が、歴史的展開にともなって結集・融合して「壮」なる特定の名称で分類される種族範疇を形成したものと考えられる。文化における漢文化受容と自己主張の歴史には、こうした「壮族」の民族的な特徴が映し出されているのである。「壮族」とは一枚岩的存在ではないのである。


これまでのところで立ち入った分析をすることができなかった重要な課題は少なくない。筆者は壮族の社会変動・文化変容とその要因について検討を行い歴史的潮流を把握し、その流れのなかにさまざまな事象の位置付けを試みたが、それらの事象は多様である。たとえば明代に壮族が起こした蜂起もその一つである。蜂起の要因、統治権力による蜂起の弾圧と事後の具体的措置の検討をも行った。しかし、個々の蜂起に関する検討を十分に行うことができなかった。それは一見、個別的な事件史に過ぎないかのようであるが、しかし、その検討を手懸りとして別の角度から壮族の社会の動態や中国王朝の対壮族政策の解明に迫る可能性をもつと思われる。蜂起は一例に過ぎない。要は個別の歴史的事象の見直しが必要なのである。


次いで、本研究では従来等閑視されてきた直轄地に主に焦点を当てた。土官地域の場合も検討したが、どちらかといえば副次的な扱いをした。しかし土官地域については従来あまり研究されていない課題が少なくないのである。土官と中国王朝との関係史はそれなりに研究の蓄積があるが、土官領の社会の実態については従来ほとんど研究がない問題である。土官領内の行政組織の最末端に位置する村寨の内部の人々の切り結ぶ社会関係は第4章でふれたところの直轄地の場合と大きな相異がないように予測されるが、この点について、史料的な制約が予測されるところではあるが、掘り下げた検討を行う必要がある。


なお、本研究で扱った時期は明清時代をメインとしたが、今後、社会・文化の諸方面において中華人民共和国成立前後の時期を掘り下げて検討する餘地が多分にある。その場合、中華人民共和国成立後といってもその直後から激動の時代を経て近年の改革開放の時代に至る時期を含んでおり、それらの時期について政治の動向とも関わらせて丹念に検討する余地がある。また、中華人民共和国成立前、とくに民国期の動向の検討もまだ不十分である。今日の壮族の一部に当たるものが「獞話あるいは土話を話す漢人」と言われた時代において、漢族中心主義的な思潮のなかに埋没しかねなかった壮族の動向をあらためて掘り起こしてみる必要がある。


これらの検討作業が一定程度の進展を見て、はじめて壮族史に関する全面的理解を得ることが可能となるであろう。今後の課題として後日を期すこととしたい。

 
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