国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|塚田誠之

チワン(壮)族の春を告げる祭り─搶花炮(シン・バウアー)

 
  1. 国境の村、新興村
  2. 搶花炮の現場から

搶花炮の現場から

 
定期市の露店 玩具を売っている
定期市の露店 玩具を売っている

さて、当日、朝から市街地のメインストリートに露店が並び、祭りの準備がはじまる。定期市の日でもあり、祭りの見物客もあいまって例年1万人以上もの人々が集まるという。搶花炮(シン・バウアー)行事のほか、バスケットボール大会、歌掛け大会が行われる。この祭りをチワン語で「ハンダン」と言い、歌や搶花炮など各種の娯楽が複合的に組合わされた春祭りである。

歌掛けはチワン族の民族芸能の一つで、男女が即興で歌を作り掛け合う行事である。今はテレビやCDが普及し若者は流行音楽に走り、伝統的な歌は中年以上の人でないと歌えない。市街地のメインストリートの一角に即席のステージを作り、イス・机を並べて、男女がそれぞれ2人ずつ分かれて座り、歌を掛け合う。中央に数名の審査員がすわり、歌の表現のうまさ・受け答えの即妙さ・押韻の仕方などを基準に判定をする。上位3位まで賞金が出る。歌手は県内の各地から10組以上集まるようだ。

 
獅子舞
獅子舞

メインストリートに並ぶ露店を見ると、洋服・靴・農具(クワ・スキ先・シャベル等)・陶器・日用品・音楽テープやCDから、豚肉・鶏・アヒル・淡水魚、さらにビーフンや鶏肉・牛肉やホルモンの串焼き、蜜豆のようなデザートを食べさせる店まで、ありとあらゆるものが売られている。子供相手の店も多い。子供たちが小遣いをもらって連れ立って玩具を買ったり、アイスキャンディーを食べている。大人も子供も今日はお祭りだ。人々の中にはベトナム人も少なくない。ヌンとチワンとは同系民族だが、服装で区別がつくこともある。その場合、ヌンの男性がかぶる緑色のヘルメットのような格好の帽子、ヌンの女性の三角形の竹笠や頭巾などが目印になる。

 
神祇が画かれた飾り鏡
神祇が画かれた飾り鏡

昼食後、はでな爆竹の音がそこかしこで聞こえはじめる。獅子舞チームが各家の前で踊り、家の人が2階から垂らした連発式の爆竹に点火する。市街地のメインストリートに面した家は50軒以上もあり、そのすべての家ごとにするのだからずいぶん時間がかかる。獅子舞は中国のそれは2人が中に入り、とてもダイナミックな動きをする。操る人の指揮や太鼓・シンバルの音に合わせて寝転がったり、跳ねたりする。ふるくは災害を取り除く意味があったが、今では縁起物として正月や祝い事に欠かせない。今日は県内のほかの村から30人ほどの獅子舞隊を招いたという。獅子舞をしている時に、民族衣装を身につけた少女10人が、台に据えられた飾り鏡2台、土地公の像を持って家の前に向き合う。飾り鏡には長寿の神である寿星神、財神である関帝、観音菩薩などの神の絵が画かれている。

 

搶花炮の歴史について、光緒『貴県志』5、紀人「節令」には次の記事がある。
「旧暦2月2日に、人々が社の前に集り、火炮を放つ。火炮は彩色模様入りの紙を貼り付けた筒を用いて、「草」を結わえて環としそれを炮頭として打ち上げる(回数は3発)。炮頭を得た者には会主から飾り鏡が贈呈される(鼓楽の伴奏が贈呈儀礼にともなわれる)。炮頭を得た者は飾り鏡を家の中堂(客間や祖先祭祀を行う空間で家の中心部)に供奉する。翌年の火炮のときになるとその者が火炮・ブタの丸焼き・飾り鏡を用意し、鼓楽の伴奏にともなわれて社前に持参する。」


火炮の打ち上げ
火炮の打ち上げ

「社」とは広西では土地神と同様にみなされ、土地や村人の繁栄・平安をつかさどる神であり、春は旧暦2月2日に秋は旧暦8月2日に祭られる。春の祭りは農作物の順調な生長・豊作の予祝が目的である。先の記事は広東から移住した漢族居民のもとで19世紀末に広西東部の貴県で行われていた祭りだが、実は新興の搶花炮の過程はほぼこの記事と同じである。


ただし炮頭(=鉄の輪)を得たものが子ブタの丸焼き(広東の名物料理)を翌年に贈る行為は1960代以降、文化大革命の発生でこの祭りが中断された頃からされなくなったという。以前には鉄の輪を得たものが近隣や親戚友人にご馳走振る舞いをする慣習があったが、それもしなくなった。飾り鏡を贈るのも数年前からしなくなったという。参加できるのは女性のみである。以前にケンカ沙汰が絶えなかったころがあるらしい。これらよりすると儀礼的側面よりも娯楽的活動としての側面がつよくなっていると言える。ただし、獅子舞隊が土地公廟にまず参る行為において、また搶花炮を行うことでその年の豊作がもたらされるという観念も人々のもとに残っており、もとの意味が忘れられたわけではない。

 

なお、豊作祈願から発展して後に子授けの意味をももつようになったが、観音菩薩は子授けと関係が深い神祇である。なお、観音菩薩や関帝など祀られる神祇は漢族のものであり、期日・目的・祭りのやり方も漢族に由来するものである。新興では今は簡便化して2発しか打ち上げないが、かつては3発打ち上げていたという。

 
鉄輪をえた人が神祇を拝む
鉄輪をえた人が神祇を拝む

新興村の人々はチワン語を話すが、しかしもう一種の言語も話す。それは広東語である。
祖先が広東から広西の漢族地域を経て来住したという人が少なくない。それらの人々もおもに1980年代以降、民族識別政策でチワン族と申告するようになったという。さて、午後5時をまわってようやく火炮の打ち上げ開始である。市街地のはずれにある草地に、丸木を組んで打ち上げ台が築かれている。その上に小さな(1尺ほどの)鉄製の打ち上げ筒を据えて火薬を詰めて点火するのである。ひとしきり打ち上げ台のまわりで獅子舞が行われ、ついで搶花炮のルールの説明が関係者によってなされる。人がとった炮頭を力づくで奪ったり、ケンカをしないようにという主旨である。そしていよいよ点火、10秒、20秒、30秒・・・、突如大きな爆音がして鉄の輪が遠くに飛んでゆくのがかすかに見える。

 
獅子のパフォーマンス
獅子のパフォーマンス

集まった人々がそれを奪い合ってとる。とった者は打ち上げ台の近くに据えられた観音菩薩や関帝の絵が描かれた飾り鏡の台、土地公像を据えた台のところに鉄輪を持って来て神祇を拝む。2発続けて打ち上げられる。賞金もあり、第1発は現金200元、2発目は150元が与えられる。祭りのクライマックスの搶花炮はあっけないほどすぐに終わってしまった。余韻の残る中、再び獅子舞が始まり、獅子が打ち上げ台によじのぼってパフォーマンスをする。こうして搶花炮が終わり、人々が三々五々帰途につく。わたしたちも新興村の人々に別れを告げ県庁所在地へと向けて帰途についた。

この行事は今やチワン族の民族行事として定着している。民族伝統の行事としてさかんに報道もされる。この日も地元のテレビ局や新聞社の人が重いビデオカメラを構えていた。しかし行事の起源は漢族にある。新興村の場合、それを担う人々自体が「もと漢族」で民族識別政策によってチワン族になったのであり、直接的に漢族に起源する行事であることが明白である。しかし、ほかの壮族地区でもこの行事が行われていることからすれば、また歌掛けなどチワン族伝来の行事、現代的なバスケットボール大会などと組合わされて春の祭りになっていることからすれば、人々が外来の漢文化や現代文化を選択し自らの文化に主体的に組み入れて発展させてきたチワン族文化の成り立ちがそこに示されていると言えるであろう。

 
【参考文献】

搶花炮行事に関する参考文献として塚田誠之「広西西部靖西県における壮族の文化変化の一側面」『壮族文化史研究』、2000年、第一書房、273-292頁、を参照されたい。そこではチワン族をめぐる最近の経済・社会変動と文化変容の実態について、三月三日の歌祭り行事を中心に論じている。その中で1996年に靖西県大道郷で観察した搶花炮行事に言及している。また、塚田誠之「チワン族の「三月三歌節」にみられる文化変容とその背景」佐々木信彰編『現代中国の民族と経済』世界思想社、2001年、90-106頁、はチワン族の文化変容のうち「歌祭り」に焦点を当てたもので、最新のデータと知見が示されている。

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