国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|横山廣子

雲南を行く:プーラン(布朗)族の村

 
【1】心に残る表情
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調査で各地を歩いていると、後々まで強く印象に残る表情と出逢うことがしばしばある。その中で、個人の表情ではなく、ある村の人々のさまざまな表情が全体として、何か心を引きつけるという場合がある。そういう意味で最近の雲南調査の中で思い出されるのは、1989年春に訪れたプーラン(布朗)族の村である。それは私が初めて行ったプーラン族の村であったからとも考えられる。しかし、その他の私にとって印象深い村々と重ね合わせてみると、一番の理由は村人の側にあるように思える。それが人々にとって、外国人を見るほとんど初めての機会であるような場合、彼らの表情が逆に私に強烈なインパクトを与えることがあるのではなかろうか。


そのプーラン族の村は、西双版納(シーサンバンナ)タイ族自治州モンハイ県モンフン郷のノンヤン(弄養)村で、私たちは、外国人に初めてプーラン族の村の調査許可が下りたのだと聞かされた。「最初」というのは、往々にして公式的な意味だけであったり、時には何かの勘違いでそう伝えられることもあるのだが、ノンヤン村に関しては本当にそうであったのかもしれない。私たち自身、あるいは私たちが向けたカメラに対する反応が、他の村とは違っていた。私たちはその後、1990年9月にもノンヤン村を訪れている。その時も村人の取り繕わない表情はあまり変わっていなかった。しかし、彼らは前よりはずっと静かに私たちを迎えた。州の国際旅行社がすでに何組かの団体を村に案内したと聞いた。

 
【2】荷を背負う少女
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ノンヤン村の人々とは、最初の出逢いからしてちょっと変わっていた。モンフン郷の中心の町を通過したマイクロバスが脇道に入り、いよいよ村に近づいたらしいと私が思っていた時、左手前方に三人のプーラン族の女性らしき姿が見えてきた。それが初めて出逢った村人であった。案内役の州外事辧公室の魏さんが少し前から道に自信をなくしていたところだったので、車は彼女らに追いついて止まり、彼がタイ語で道を聞いた。一番小さなまだ幼なそうな娘がはきはきと答えた。


その子ともう一人の娘は、大きな麻の穀物袋を背負っていた。幅広の輪になった紐を額に渡す、頭部支持とでも言ったらよい運搬法で、中国西南部から東南アジア北部の山地の民族でよく見られるものである。起伏のある道で重い荷を運ぶのに適しており、女性でも50キロ以上を軽く背負う者が少なくない。雲南西部では、平地に住む白族や、場合によっては少なくとも現在は漢族である人々の間でも目にする(これは彼らの民族的出自を考えるヒントになるかと思う)。 一方、西双版納(シーサンバンナ)の多数民族であるタイ族は、根っからの平地の民と言うべきか、運搬は天秤棒を使ったり、頭に載せたり、肩で籠を背負ったりで、頭部支持は見たことがない。ノンヤン村は盆地から少し上がった高台の交通の最も便利なプーラン族の村で、とても山地の村とは言えない。しかし、娘たちのその様子は、プーラン族が山地民であることを改めて感じさせた。


道を教え終わったらしい少女は、一呼吸おいて話しかけてきた。目が輝いている。魏さんがドアを開けるように言うので、私は一緒に乗って行くのだと了解した。ところが、乗り込んできた娘たちは、荷物だけ置くと車から降りていってしまった。少し詰めれば座れないわけではなかった。しかし彼女たちは、見ず知らずではあるが、きれいなマイクロバスで村へ向かおうとする私たちに、荷物だけ託すことを選んだ。娘三人は、嬉しそうな顔で車を見送ってくれた。

 
【3】寺のある村
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私たちは村へ通じる細い道の入口で車を降り、村まで歩いていった。斜面を上り詰めると、まず、寺らしい建物とその前にたたずむ僧の姿が見えた。予想していた通り、そこのプーラン族は上座部仏教徒であった。

プーラン族はオーストロ・アジア諸語、モン・クメール語系の言語を話す民族である。現在、オーストロ・アジア諸語の民族は、ヴェトナムやカンボジアの西は、インドまで飛び地のように分布している。これらは元来、より広範であったその分布が、後にチベット・ビルマ語系やタイ語系の諸民族の進出で縮小、分断されたためだと言われる。プーラン族についても歴史文献や口頭伝承が、彼らの歴史の古さを物語っている。 大局的に捉えるならば、民族固有の文字をいまだに持たないプーラン族は、彼らより遅れてやって来た文字を持つ二つの民族のいずれかの影響を強く受けてきたと言えるであろう。それはタイ族と漢族である。プーラン族の居住地域は雲南の西南部にあるが、居住地の集中の度合いにより、ほぼ二分することができる。集中して居住しているのは、西双版納タイ族自治州モンハイ県の国境寄りの布朗山を中心とする山地である(ノンヤン村はその最周辺部に位置する)。その他の居住地は、保山地区から臨滄地区、さらには思茅地区にかけて分散している。


昨年の調査では、雲南省のプーラン族は81,768人に上る。前述の分散して居住する地域には、5万人近くが住んでいる。一部にはタイ族の影響が色濃く存在するが、彼らは全体としては漢族の影響を強く受けている。上層には漢字を解する者もいる。他方、プーラン族が比較的集中して居住するモンハイ県は、解放前までタイ族の王侯の支配下にあった。当然タイ族の影響が強く、そこに住むプーラン族は上座部仏教徒である。モンハイ県のプーラン族の上座部仏教は、今から200年ほど前、タイ族から伝わったという説がある。しかし、また、ミャンマーのケントゥンから直接伝わったという説もある。


ノンヤン村の寺は、一般のタイ族の寺より簡素で小規模であった。本堂の前にいた二人の青年僧の顔を見て、私はハッとした。タイ族の僧とはどこか違う雰囲気の、深い宗教的な静けさが漂っていたからである。それは寺の建物の雰囲気とよく調和していた。庫裡の外に置かれた黒板にはタイ文字が記され、中からは読経の声が響いていた。寺はタイ族の場合と同様、文化大革命で1966年から閉鎖状態にあったが、83年頃から復活したという。


プーラン族の僧の位階は、タイ族のものと名称が異なる部分があるが、基本的には変わりがない。数年間の修行をして20歳になると「ドゥ」と呼ばれる。中国語では「仏爺」と訳される段階で、ここまでいって還俗すると、「カンラン(漢字では康朗の二字を当てる)」という称号を与えられる。タイ文字や仏教の教義に精通した者として皆から尊敬される立場である。八五世帯、人口470人余りのノンヤン村にはカンランと呼ばれる者が10人余りもいると聞いた。これはかなり高い割合と言えよう。

 
【4】ノンヤン村の情景
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寺は、村はずれの小高いところにあり、そこから私たちは村人の住居のある方へと近づいていった 。まず、道の片側に穀倉がずらりと並び、その向う側に住居が続いている。穀倉は住居と同様に高床式だが、ずっと小さく、粗末な造りである。チョロチョロと子豚が走り回っている。これは平地の村ではあまり見かけない。平地民においては、豚を繁殖させる家は限られている。多くの家は子豚を買ってきて太らせ、食べたり売ったりするだけで、豚は成長の過程で去勢される。しかし、平地の村の中にも繁殖を専門に行なう村があり、そこでは母豚や子豚の姿を頻繁に見かける。一方、山地民の場合、豚を繁殖させながら飼う家が一般に多いようで、イ(彝)族やハニ(哈尼)族の村でも豚の親子をよく見かけたものであった。


ノンヤン村の家屋が立ち並ぶ中、私たち一行は写真や8ミリビデオを撮りながら進んでいった。すると、見る見るうちに子どもたちが集まってきて、私たちを取り囲んだ。来る途中で出逢った娘たちも、車に残った運転手から荷物を受け取ったのであろう、荷物を再び背負って戻ってきた。子どもや女性たちの表情は、非常に生き生きとしていた。


村長宅で話を聞くことになり、私たちは階段を上り、ヴェランダにお邪魔した。高床式住居では、ヴェランダの庇で被われている部分が気持ちのよい居間となる。ヴェランダの庇のない方は、洗い場となったり、干し場となったりする。庇のあるヴェランダに置かれた瓶の横に、直径15センチ以上もあろうかという竹筒が立て掛けてあった。何を入れてあるのかと尋ねると、お茶の葉を漬けてあるという答えが返ってきた。これは飲むのではなく、食べる茶である。発酵茶を食べる習慣は、ミャンマーのそれがよく知られているが、プーラン族にも広く見られるのである。


ノンヤン村の家々はタイ族の一般の家より少し小さいが、高床式の基本構造は、ほぼ同じである。タイ族の家は内部に寝室が間仕切られていることが多いのに対し、村長宅の内部は間仕切りのない広い空間になっていた。写真を撮ってもよいと言われてシャッターをきったところ、フラッシュの中で部屋の隅に布団が敷かれ、誰かが休んでいる姿が浮かび上がった。その人たちも驚いたようであったが、私の方もびっくりした。入口から差し込む光も届かず、奥の方は真っ暗だったのである。

 
【5】プーラン族にとっての発展
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村長は30代半ばのアイチャオルさん。60を過ぎたその父、アイグァンさんもかつて村長を務めた。アイチャオルさんは村ではただ一人、17歳から4年間、解放軍に参加していたため、非常に流暢な中国語を話す。父の元村長の方は中国語はほとんど解さない。解放前、ノンヤン村の人々が中国語に触れる機会は非常に少なかったことであろう。


ノンヤン村の人は誰でもタイ語ができ、そんなところにもタイ族との密接な関係を感じたが、お二人の名前を聞き、またその感を強くした。モンハイ県のプーラン族は、タイ族式の名前を持っているのである。かつての王侯を除き、一般のタイ族は伝統的に姓を持たなかった。それぞれの名前を、男性は「アイ」、女性は「イュー」の後につけて呼ぶ。アイチャオルさんという名前の中で、後ろのチャオルという部分がその人固有の名前というわけである。漢字で表記する場合、一般にアイには「岩」を、イューには「玉」の字を当てる。西双版納に初めてやって来た漢族がタイ族にはアイという姓がやたらに多いと驚いたなどという笑い話がよく語られる。


プーラン族の生活のあちらこちらにタイ族の影響を受けたと思われる部分が見出される。特にノンヤン村は山地の村とは異なり、平地の市場から歩いても二時間程度の距離にあり、また自然環境の面でも平地とかなり近い条件を備えている。たとえば主食である米はノンヤン村では焼畑ではなく、水田で栽培する。その大半が灌漑設備のない天水田であるが、八一年末の生産責任制導入時に各世帯に割当てられた1人当り1.5ムー(約10アール)の水田は、自給用食料の生産には十分である。山の斜面には果樹と野菜を植えることができるし、茶畑、サトウキビ畑もある。


しかし、周囲のタイ族の村に比べると、ノンヤン村の経済はあまり豊かだとは言えない。タイ族の家は堂々とした構えの瓦ぶきが多く、煉瓦造りもあり、町に近いところでは大半の屋根からアンテナが伸びていた。自転車が2台以上ある家も珍しくはなく、カセットコーダーやミシンはどの家にもあった。一方、ノンヤン村は77年、79年、86年と不注意による火災に見舞われ、屋根は瓦ぶきにすべきだというのが皆の認識であるにもかかわらず、私が目にしたのは草ぶきと瓦ぶきが半々ぐらいという状況であった。村長は全村で自転車が5台、カセットコーダーが2台、ラジオが1台あると説明した。以前あった電動精米機と主に輸送用に使ったトラクター各1台は売り払ってしまった。精米はタイ族の村で精米機を借りるか、家の床下の踏み臼でついて間に合わせ、町まで遠出する時は、外から木材や瓦などを売りにくるトラクターに乗せててもらうか、徒歩で行くしかないということであった。


確かに火事には草ぶきより瓦ぶきの方が強いであろが、気候風土など全てを考慮しても瓦ぶきの方がよいかどうか、これはそれほど簡単な問題ではない。しかしノンヤン村の人々の心には、そのような問題は存在せず、タイ族のように瓦ぶきにしたいが、なかなかできない、という思いだけがあるようであった。幸いにも火災の後、国家の援助を受けて新たに茶畑が開墾され、サトウキビ畑も拡大し、それらが現金収入の増大として結実しつつあるようではある。しかし、その一方で、気がかりな点がいくつもある。たとえば、村では20年余り前から綿花を栽培しなくなり、糸紡ぎも機織りも消えてしまった。民族衣装を新調する時、今では市販の布を買い、タイ族にミシンで縫ってもらう。服や頭飾りを自分で作れる者は村にはいないということであった。解放後、村に小学校ができた。度重なる火災で、村人はこれまでに8回も学校を建ててきた。合計11人の先生が教えたが、長続きする先生はいなかった。そして86年の火災の後、90年秋にも学校はまだ再建されていなかった。男子は寺でタイ文字を習うことができたが、女子には文字を習うすべがないという状態であった。


(大修館書店『月刊言語』1991年11月号より転載。一部表記変更あり)