国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

旅・いろいろ地球人

河西回廊・石窟寺紀行

(2)張掖・金塔寺石窟  2019年9月14日刊行

末森薫(国立民族学博物館機関研究員)


崖面にこつ然と姿をあらわす金塔寺石窟=中国甘粛省で2016年8月、筆者撮影

河西(かせい)回廊の中ほどに位置する張掖(ちょうえき)は、河西四郡の東から二つ目にあたる。その名は、前漢の武帝が匈奴(きょうど)を駆逐し、国の勢力が掖(腋(わき))を張ったように広がったことを意味するという。水と土に恵まれ、産物が豊富に採れることから「金の張掖」とも呼ばれ、唐代には現在の甘粛(かんしゅく)省の由来となる「甘州(かんしゅう)」と称された。

張掖の南にはテュルク系・モンゴル系の少数民族ユグル(裕固(ゆうこ))族が居住する自治県があり、県境には七カ所の史跡で構成される馬蹄(ばてい)寺石窟群が位置する。そのうちのひとつである金塔寺(きんとうじ)石窟は、地上より60メートルの崖面につくられた。山中を進み、崖面を登って、ようやくたどり着くことができる。周辺には、石窟以外に人工物は見当たらない。

金塔寺石窟を構成する二つの窟は、ともに空間の中心に方形の柱を設け、そこに仏や菩薩(ぼさつ)の像を配している。中心柱窟と呼ばれるこの窟形は、中国の南北朝時代に多く登場した。もともとは構造物の中心にストゥーパを配したインドのチャイティア(塔廟(とうびょう))窟を起源とする。礼拝をおこなうものは、その周囲を回ることで功徳を積んだ。人里離れた山中の崖面に窟をつくるには、相当な時間や労力を要したに違いない。礼拝をおこなう空間が、当時の人びとにとっていかに特別なものであったかを考えさせられる。

シリーズの他のコラムを読む
(1)武威・天梯山石窟
(2)張掖・金塔寺石窟
(3)酒泉・文殊山石窟
(4)敦煌・莫高窟