MINDAS 南アジア地域研究 国立民族学博物館拠点
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◆研究会報告 2012

研究会報告
「MINDAS 2012年度第5回合同研究会」報告

日 時: 2013年2月16日(土)、17日(日)
場 所: 国立民族学博物館2階 第3セミナー室
発表者: 発表1.小日向英俊(国立音楽大学)
「インド音楽・舞踊の日本における受容」
発表2.小尾淳(大東文化大学大学院博士課程)
「タミル地方におけるマラーティー歌謡の受容 ―ナーマ・サンキールタナの現代的様相をめぐって―」
発表3.松尾瑞穂(新潟国際情報大学)
「代理出産の文化論」
発表4.田中鉄也(関西大学博士課程後期課程)
「商業集団マールワーリーによるヒンドゥー寺院運営 ―二つのサティー寺院を事例として―」
概 要: 発表1.小日向英俊
 本発表では、1. 主に戦後日本におけるインド音楽・舞踊の受容を歴史的に考察し、2.これを音楽多様性と音楽ハイブリディズムの観点から考察し、3.日本における南アジア音楽受容を、公的受容、私的受容、ネットワーク型受容の概念を用いてモデル化した。
 日本のインド音楽・舞踊の受容は、1950年代より始まる主に学術分野での受容(公的受容)、1980年代より始まる個人の興味に基づく受容(私的受容)、1990年代より見られ始めた混合型受容(ネットワーク的受容)とその結果であるハイブリディズムの進行への流れとして捉えられる。
 まず、通史的に日本人と外来音楽との接触を概観した後、インド音楽・舞踊の公的受容の例として、東京芸術大学で教えた音楽研究者、小泉文夫[1927-1983]の民族音楽学とインド音楽研究、および楽理科での教え子である表現者小杉武久[1938-]について報告した。1957-58年の南北インドへの留学で直接インド音楽に触れた小泉の業績と、その教え子が展開した音楽活動をタージマハル旅行団の例から紹介した。
 '80年代頃からの私的受容の例として、個人の資格でインドに赴き、インド音楽を学習した人々を紹介した。初期には北インドの伝統に限定されたが音楽ジャンルが広がったこと、伝統的様式の学習を長年にわたり継続する傾向があったことに触れ、音源も提示して考察した。彼らのインドとの出会いには、1960年代後半から1970年代初期におけるいわゆるカウンター・カルチャーと、公的受容から提示されるインド音楽情報の影響があった。90年代から、こうしたインド音楽受容者がさまざまな音楽ジャンルとの協働を進行させ、越境による他国の表現者とのハイブリディズムを進行させている。 本研究に関連するサイト
(http://kaken.musinglobe.com/kakentop/TOP.html)も参照のこと。
発表2.小尾淳
 本報告は、近年、南インドのタミル地方で西インドのマラーティー歌謡の受容が顕著であることを受け、その歴史的受容過程を明示すると共に、受容要因を探るものであった。インドには神々の名を唱え、より大きな帰依の道に至るという信仰形態「ナーマ・サンキールタナ」がある。特にマハーラーシュトラ地方では、13-17世紀の宗教詩人たちによってヴィッタル神を讃えるアバング形式の詩が多く書かれ、キールタン様式が確立した。17-18世紀にタンジャーヴール・マラーターの成立に伴い、王権と結びついたキールタン歌手も多く南下した。キールタンはタミル地方の文化と融合し、現地のバラモンを担い手とする宗教芸能が成立した。今日まで、タミル地方におけるマラーティー歌謡の受容は宗教芸能の実践を通じて蓄積されてきたといえる。現代に目を転じると、特に90年代半ばから、2つの領域においてアバングの単独流行が顕著である。一つ目は宗教芸能で、これまで主流であったサンスクリット語やテルグ語の歌曲に代わり、アバングが積極的に導入され、盛大な「アバング祭」が開催されるまでになった。カリスマ的聖者とその弟子によってマハーラーシュトラ様式の寺院が次々にタミル地方に建立されるなど、宗教的な意図に基づく普及が推測される。二つ目は音楽界で、マハーラーシュトラ地方出身の古典音楽家によるアバング実践、テレビ番組の宗教歌謡コンテストなどを事例として挙げた。これらに共通しているのは手拍子や踊りなど、参加者の能動的な身体動作であり、アバングが他の歌曲形式に卓越して音楽的空間における「ノリ」を生み出しやすく、参加者を熱狂させやすい性格を有していることを指摘した。アバングの定義や構造の明確化、事例ごとの文脈の位置づけ直しなどを今後の課題とした。
発表3.松尾瑞穂
 今日、インドは商業的代理出産を求める生殖ツーリズムの中心地となりつつある。本報告は、インドにおける代理出産を、政治経済や倫理という点からだけでなく、インドにおける生命や科学、身体をめぐる文化現象の一つとしてとらえ、その受容の背景にある社会的、歴史的要因を考察する事を目的とする。
 インドでは商業的代理出産や提供配偶子を用いた体外受精など、他国では規制されている技術が比較的自由に、現場の医師の裁量で実施されており、これまでに25000人以上の子が代理出産で生まれているとされている。人身売買だ、女性の搾取につながるという社会的な論争はあるものの、報告者の調査では、おおむね技術は広く受容されており、宗教的かつ倫理的葛藤は現在のところそれほど顕在化していない。こうした現状を理解する一つのキーワードとして、「ヴェーダ科学」というものがある。
 「ヴェーダ科学」とは、近代科学の発見はヴェーダの時代にすでに存在していたとする、ヒンドゥーナショナリズムと結びついた思想である。例えば、古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』には、王や英雄の生命の誕生にまつわる多くの逸話が登場するが、それらのいくつかは代理出産や体外受精を意味していると解釈されている。したがって、生殖医療規制法案の作成委員会のメンバーや、生殖医療にたずさわる産婦人科医師らによっても、しばしばこうした技術はインド人にとって新しいものではなく、古代から存在していたゆえに、否定されるものではないという論理が導き出されることがある。
 また、30~35%という体外受精の成功率は、医療技術の不確実性を示しており、最終的には神の領域に属するものだと考えられている。いかなる科学技術も、最後に決定するのは「神」であるならば、自然に反したものだとはみなされないという点で、科学を内包した広い自然観、世界観が見いだされるのである。本報告では、代理出産に反対するファトワを出しているイスラームと比較して、より近代的で科学的なヒンドゥーという自己像を構築するヒンドゥーナショナリズムと連動する政治的プロセスのなかに生殖医療の展開を位置づけて理解する必要があると指摘し、インドの「伝統」が現代の科学を正当化する社会的装置となっていることを示した。
発表4.田中鉄也
 本発表では、ラージャスターン州シェーカーワーティー地方を出自とする商業集団マ-ルワーリーによる二つのサティーマーター(サティー女神)寺院の比較検討を通して、植民地期に胎動し100年に及ぶそれら寺院運営の意義を報告した。調査対象の寺院は、ラージャスターン州ジュンジュヌー県ジュンジュヌー市にあるラーニー・サティー寺院(Śrī Rāṇī Satījī Mandir)と、同県ケール村に存するケーリヤー・サティー寺院(Śrī Śakti Dhām Keḍ)である。前者はマールワーリーの代表的カースト、アグラワールのジャーラーン・リネージの女神(Kul Devī)を祀った寺院であり、後者にはアグラワールのケーリヤー・リネージの女神が祀られている。ともにリネージ出身の篤志家たちを中心に組織された公益法人が運営している。
 まず本発表では両法人の組織化の端緒である1910年代に注目した。それは英領インドにおいてカースト(またはリネージ)を単位にした社会改革運動が隆盛を迎え、各コミュニティで結集が始まった時期である。特にマールワーリーは積極的に「カースト族譜」を編纂し、再定義されたコミュニティの「歴史」を発信していた。この族譜編纂とコミュニティの「発現地」におけるクル・デーヴィー寺院の建立事業は相関的に実施されている。例えばラーニー・サティー寺院では、1912年に寺院建立のための基金が募られ、17年に建築が開始された一方で、60年代にはジャーラーン家の族譜が編纂された。他方でケーリヤーでは、まず20年代は族譜編纂など結集のための事業が優先され、寺院建立は94年まで据え置かれた。
 興味深いことに90年代前後には、同じくラーニー・サティーを祀った寺院が、同女神の発現に関わる二つの地(ハリヤーナー州ビワーニー県内)で建立されている。90年代からのクル・デーヴィー寺院の建立は何を意味するのだろうか。発表者は、「故郷」から移住してすでに3-4世代目を迎えようとするマールワーリー内で進む世代間の差異に着目した。彼らは、コルカタなど「移住先」で生まれた新世代であり、「故郷」で生まれた第1-2世代のようにそれとの身体的関係性を持たない。従って、彼らと「故郷」との関係性を「再創造」するために、その拠点となるクル・デーヴィー寺院の建立が喫緊の課題となったのではないだろうか。マールワーリーのコミュニティ・アイデンティティを再鋳造し、精錬する場として、近年建立されたこれらの寺院は、その意味で重要な役割を担っている。

調査報告
植民地期インドにおける商家建築の装飾様式に関する調査 ―東南アジアの植民地都市との比較から―

期 間: 2013年1月28日~2月20日
国 名: シンガポール(中央地区)、ベトナム(ホーチミン中央直轄市、ティエンザン省ミトー市)、インド(タミル・ナードゥ州シヴァガンガイ県、西ベンガル州コルカタ県コルカタ市、ラージャスターン州ジュンジュヌー県およびシーカル県)
報告者: 豊山亜希(国立民族学博物館・外来研究員)
概 要:  マールワーリーと呼ばれる商業集団は、19世紀半頃からカルカッタなどの植民地都市で外国企業のブローカーとして財をなし、故郷であるラージャスターン州シェーカーワーティー地方にハヴェーリーと呼ばれる邸宅を盛んに造営した。それらの多くには壁画装飾が施され、従来のハヴェーリー研究はその図像解釈を主要課題としてきた。
 報告者はハヴェーリー研究を進める過程で、従来は壁画が形式化したとして看過されてきた1920年代以降の造営例に、日本製タイルが壁面装飾として使用されていることを確認した。さらに同様の日本製タイル装飾の事例が、タミル地方や東南アジアにも存在するらしいことが分かった。そこで今回の調査においては、ハヴェーリーやアジア各地の建築が日本製タイルによって装飾された歴史的経緯を明らかにする第一歩として、インド、シンガポール、ベトナムを対象として踏査を行った。
 いずれの地域においても、日本製タイル装飾がみられたのは商人を建築主とする建築物であった。シンガポールの場合、プラナカン・コミュニティ、中国系コミュニティ、タミル地方出身の商業集団チェッティヤールに帰属する建築物がこれに該当した。中国系商人とチェッティヤールに帰属する建築物は、彼らが仏領期に進出したベトナム南部メコンデルタ地方にも現存し、当地のヒンドゥー教寺院、仏教寺院、集会所などに日本製タイルが確認された。インドにおいては、タミル地方のチェッティヤールの邸宅、シェーカーワーティー地方のハヴェーリー、そしてマールワーリーが経済活動の拠点を置いたコルカタの英領期の建築を巡見し、日本製タイル装飾の事例を多数収集することができた。また、調査を行った各地の商家建築のうち、19世紀半頃から20世紀初頭までに造営されたものには、イギリス製やフランス製のタイルが頻繁に使用されていたことも明らかとなった。
 タイルという新建材は当初、植民者によって各地にもたらされ、在地社会の新興商人を中心に受容が拡大していったと考えられる。日本のタイル工業は、第一次世界大戦後にヨーロッパのタイル工業が一時的に衰退した時期にアジア市場に進出し、ヨーロッパ製品に取って代わったとされる。しかし単にヨーロッパ製品の代替品として受容されたわけではなく、例えば今回インドにおいて少なからず確認された、ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー(1848-1906)の絵画作品を複製した12枚1組の組絵タイルは、ヨーロッパ製タイルにはみられないタイプの製品であり、日本のタイル工業が輸出先それぞれの嗜好性を反映した製品開発を行っていたことを示唆している。
 こうした結果を踏まえて、今後の課題として1)日本製タイルが両大戦間期にヨーロッパの帝国経済網で結ばれたアジア域内において流通したことを、データを用いて実証していくこと、2)アジア各地における日本製タイルの受容実態について、それぞれの建築様式や美術の動向を踏まえて個別に実証していくこと、3)タイルの主な受容層であった新興商人が、植民地期の美術様式の展開にどのような役割を果たしたのかを明らかにすることが挙げられる。さらに、日本製タイルが当時の日本経済の帝国主義的な意図を超えて、それを受容した各地域において、ヨーロッパ製品の不買行為やモティーフの持つ意味の共有などにより、新たな意味を与えられた可能性についても考察していきたい。

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調査報告
国際会議 International Conference on Foodways and Heritage: A Perspective of Safeguarding the Intangible Cultural Heritage
(食文化と遺産に関する国際会議:無形文化遺産保護の展望)での報告

期 間: 2013年1月2日~1月5日
国 名: 中華人民共和国・香港
報告者: 松川恭子(奈良大学)
概 要:  今回の出張の目的は、国際会議International Conference on Foodways and Heritage: A Perspective of Safeguarding the Intangible Cultural Heritage(食文化と遺産に関する国際会議:無形文化遺産保護の展望)への参加だった。本会議は、香港中文大學(The Chinese University of Hong Kong)と香港文化博物館(Hong Kong Heritage Museum)の主催によって2013年1月3日・4日の2日間にわたり開催された。
 私は、1日目の第3分科会Southeast Asian Foodways Reinvention(東南アジア食文化の再創造)で”Xitkoddi (Rice and Fish Curry), Comunidades and Ramponkars: Goan foodways in transition”と題した報告を行った。本報告では、以下の点を明らかにした。インド・ゴア特有の食として有名なのは、酸味の効いたポーク・ヴィンダルー・カレー(Pork vindaloo curry)やケーキの一種ベビンカ(bebinca)であり、グローバルに消費されている。ただし、これらはゴア・クリスチャンの食である。クリスチャンに留まらないゴアの様々なコミュニティ全てにとって重要なのは魚カレー(xitkoddi)である。魚カレーを作るために必要な米と魚を生産するのに、ゴア特有の生業形態が発展してきた。食文化を無形文化遺産として保全していく際に、調理法に留まらず、食を獲得するための生業形態にまで目を向ける必要があるが、その生業形態自体が変化してきている。ゴアにおける土地共有制度コムニダーデ(comunidade)と伝統的漁法に従事するランポンカール(ramponkar)を取り巻く状況の変化を紹介し、それらの変化を含めて無形文化遺産として考えていく必要性を指摘した。参加者から、「ゴア料理」とゴア人アイデンティティの関係性について質問が出され、意見交換を行った。
 本国際会議では、中国、香港、マカオ、台湾、日本、シンガポール、ヴェトナムなど、アジア地域の事例報告が多かったが、アメリカやフランスの事例も紹介された。食文化を無形文化遺産として捉える際に、歴史や政治といった当該地域の文脈に加えて、グローバリゼーションの作用を無視できないのは、どの報告においても明らかだった。インド関係では他に、Mohsina Mukadam博士による”Hindu Upharagriha: Preserver of culinary tradition”と題された報告があった。ムンバイにおける、ヒンドゥー教徒バラモンの食文化継承の場としてのウパラグリハ(upharagriha)の重要性に着目した報告だった。

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調査報告
南インドのポピュラー・カルチャーとナショナリズムの関係についての調査研究

期 間: 2012年12月15日~23日
国 名: インド(タミルナードゥ州)
報告者: 杉本良男(国立民族学博物館民族文化研究部)
概 要:  インド、タミルナードゥ州マドラス(チェンナイ)では、毎年国際映画祭が開催されてきたが、今回は第10回を迎えて規模が拡大し、最近1年間の間に製作された世界57カ国からのべ160本の映画が上映された。インド映画に関しては、インド国産映画製作100周年にあたり、各種言語による古典的な名作が上映され、また、タミル映画部門では、12本の最新作によるコンペティションも行われた。
 21世紀に入り、ハリウッド映画のイマジネーションが枯渇するとインド映画に救いをもとめたが、ヒンディー語中心のいわゆるボリウッド映画はやはりその突破口をタミル映画に求めている。タミル映画は1950年代から、M.G.ラーマチャンドランとシヴァジー・ガネーサン、ラジニ・ガーントとカマラ・ハーサンの2組のライバル関係にあるスーパースターの時代から、監督も俳優も若い才能が輩出して、ドラスティックな世代交代期を迎えている。
 このようなときに、前時代までのヒーロー中心の映画づくりから、ステロ化されたヒーロー像とはことなる新しい主役を中心にした、脱ヒーロー映画とでも言うべきトレンドが目についた。そこでは、主人公は若い女性にモテたくてモテたくて仕方ないのにふられ続けたり、お定まりのハッピーエンドにはならなかったりで、比較的リアルな描写が目立っていた。それは1950年代に流行した貧乏をこれでもかと描くリアリズムとは別種のリアリズムといえるだろう。コンペで1位となったVAZHAKKU ENN 18/9は警察、裁判所、弁護士がグルになっての不正を被害者の側から描いた硬派の映画であったが、最後のシーンで小さな光明をみせたことが高評価につながったのかもしれない。
 映画祭の閉会式には、インド最大のスーパースター、アミターブ・バッチャンが出席し、表彰式なども行われたが、受賞者よりも授賞者のアミターブにばかり注目が集まって、さながらアミターブのワンマン・ショウであった。70歳を超えてさすがに衰えは隠せないように見えたとはいえ、アミターブの人気いまだ衰えずである。名匠マニ・ラトナム監督夫人のスハーシニが実質的なプロデューサーで奔走していたが、大盛況のうちに閉幕した。  民博での映画会のお世話をしてくださっている旦匡子氏は、ボリウッド映画がタミル映画界を取り込んで、ヒンディー語版もつくることを前提にした新たなシステムができつつあると指摘しておられた。それは地方色を薄めた標準化された「インド映画」というジャンルへの一歩なのかもしれない。このとき、地方ナショナリズムとの深い関係を保ってきたタミル映画が、全インド的ナショナリズムとどのように関わっていくのか注目しなければならない。

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研究会報告
「MINDAS 2012年度第3回合同研究会」報告

日 時: 2012年9月27日(木)16:30~18:30
場 所: 国立民族学博物館4階 大演習室
報告者: 鎌田由美子(早稲田大学高等研究所)
「グローバルな商品としてのインド絨毯と日本の祭礼」
概 要: 絨毯研究はイスラーム美術史の重要な研究分野のひとつで、ペルシア、トルコ、中央アジアの絨毯が中心的に研究されてきた。インドの絨毯では、おもに17-18世紀に北インド、ムガル朝のもとで織られたものが研究されてきた。しかし、近年のデカン美術の研究の進展とともに、デカン(インド南部)で織られた絨毯が注目されるようになった。このタイプの絨毯を研究するのにあたって鍵となるのが、デカン産であることが指摘される、京都祇園祭で懸装品として使われている絨毯である。本発表では、世界各地の絨毯を調査したときのデータ、また貿易資料ほか各種史料を手掛かりに、それらが本当にデカン産であるのか、類例が世界にどれほど残っているのか、どのような状況でこのような絨毯がデカンで生産され、世界各地で用いられたのか、なぜ、日本の祭礼に用いられたのか、考察した。その結果、
① ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のデカン産絨毯との比較から、京都のインド産絨毯のなかにデカン産の絨毯があることを確認した。さらにデカン産と考えられる絨毯が長浜や、ポルトガルやイギリスをはじめ、世界各地に残っていることを示した。
② 17世紀以降、コロマンデル・コースト産のインド更紗が、東インド会社によってグローバルな商品として世界各地を流通したが、エロールなど、コロマンデル・コーストに近い場所で織られたデカン産絨毯もまた、17世紀後半以降、デザインや質をコントロールしやすい商品として、ペルシアや北インド産の絨毯以上に流通し、イギリスやオランダの東インド会社や私貿易商人の活動によって世界各地に運ばれたと考えられることを示した。
③ デカン産絨毯には、ペルシアの要素、北インド(ムガル朝)の要素、デカン独自の要素が見られ、それらの要素が融合して独特の様式をなしており、同様の傾向が、近年明らかにされてきた、デカンの建築や絵画にも見られることを指摘した。
④ 日本に残る、デカン産と考えられる絨毯のデザインは、欧米に残るデカン産と考えられる絨毯のデザインとは異なっており、日本人好みのものがもたらされていた様子を指摘した。
⑤ 京都祇園祭や長浜曳山祭を担う富裕な商人たちは、山鉾や曳山を、国内外の染織品で飾ったが、18世紀以降には、インド、とくにデカン産の絨毯を懸装品として用いた。その背景として、それらが国内をどのように流通していたかについても考察した。

調査報告
ケーララ州北部に伝わる神霊信仰の脱領域的な拡がりに関する調査

期 間: 2012年8月31日~9月25日
国 名: インド(ケーララ州コチン市とカンヌール市、およびムンバイ、デリー)
報告者: 竹村嘉晃(国立民族学博物館・外来研究員)
概 要:  調査日程は次の通りである。8月31日に大阪発(シンガポール経由)の便でケーララ州コチン市に到着。コチン市での調査後は9月4日に列車でカンヌール市に移動し、その後は13日にムンバイ、19日にデリーへ飛行機で移動した。復路は、9月24日にデリー発(シンガポール経由)の便で帰国した。
 今回の調査の目的は、ケーララ州北部で広く行われているローカルな神霊信仰のムッタッパン祭儀が、近年、州外の都市部や国外で暮らすマラヤーリー人(ケーララ出身者)コミュニティの間でも盛んに奉納されている事象に注目し、その実態を祭儀の実践者とコミュニティの関係者の双方から把握することであった。コチン市では関連する資料収集と文献調査を行った。カンヌール市では、州外や国外でムッタッパン祭儀を行った実践者たちへ聞き取りを行い、ローカルな文脈で行う祭儀との相違を検証した。また、州外・国外への出稼ぎ経験者にも話を聞き、出稼ぎ先での彼らの生活状況や日常的な宗教実践について把握した。ムンバイ、デリーでは、ムッタッパン祭儀を定期的に奉納している複数のマラヤーリー人コミュニティのなかでも、ムッタッパン・スワミー寺院運営員会のメンバー(ムンバイ)とシュリ・ムッタッパン・セワ・サミティの関係者(デリー)らに面会し、コミュニティの歴史や祭儀を奉納するに至った経緯、祭儀の様子などについて聞き取り調査を行った。
 現段階において、2000年以降顕著にみられるムッタッパン祭儀の脱領域的な拡がりの動向をグローバル化という枠組みで捉えるには留保が必要である。むしろその実態は、人の移動にともなうローカリティの再編あるいは新たなローカリティの創発というべき様相を呈している。今回の調査から明らかになったのは、州外の大都市部や中東湾岸諸国で暮らすマラヤーリー人たちは、同郷者とのネットワークや集いの場を構築していく過程で、ムッタッパン祭儀のような宗教的実践や芸能をその契機にしている点である。すなわち、一見するとムッタッパン祭儀の脱領域的な拡大には信仰のグローバル化という側面が強調されがちだが、実際には、当該社会でのコミュニティ形成あるいはローカリティを再編する手段に用いられているのである。また、メディアの発展によって、SNSやインターネットなどを通じてネットワーク形成が容易になり、祭儀の組織や連絡、周知活動が円滑に進むようになったことも祭儀奉納を促す要因となっていることが明らかになった。

調査報告
インドとタイの宗教施設を訪れる ―ディアスポラのインド系宗教との関連を踏まえて―

期 間: 2012年8月16日~9月4日
国 名: インド(タミルナードゥ州ティルッチラーッパッリ、マドゥライ、チェンナイ)、タイ王国(バンコク都)
報告者: 山下博司(東北大学大学院国際文化研究科教授)
概 要:  まずタミルナードゥ州中部の都市ティルッチラーッパッリ(ティルチ)に入り、近郊にあるというアッルール村を目指した。そこにヒンドゥーの寺院司祭を養成する学校があると、今年5月にマレーシア連邦ジョホール州のタミル寺院を訪れた際、司祭から情報を得たからだ。調べるうち、SOASのC. J. Fuller(The Renewal of the Priesthood, 2003)が調査した学校だということに思い当たった。しかし村の場所がつかめない。よほど小さな村なのか、辺鄙な場所なのか、地元の人にも見当がつかない。幸いタクシーの運転手同士で情報交換をしてくれ、所在地らしき場所をつかんだ。着いた小村は長閑なアグラハーラム(バラモン居住区)。しかし肝心の学校は閉校していた。6年前に校長が死去したという。村には黒ヤジュルヴェーダ系のバラモン学校(写真①)もあると知って、そちらを訪ねた。ナヴィヤニヤーヤを修め博士号を得たという学者肌の校長と学生たちから詳しく話を聞くことができ収穫だった。
 ティルチ地域では2カ所のアンマン(女神)寺院も比較調査した。非バラモン司祭が営むヴェッカーリヤンマン寺院と、バラモンが営むサマヤプラム・マーリヤンマン寺院。どちらも大寺院で、女神の寺に信者が殺到する金曜日だったため、驚くほどごった返していた。  マドゥライ市では非バラモン司祭が主神をあずかる郊外の男神パーンディムニの寺(写真②)を訪れた。海外のタミル人ディアスポラにも名の轟く寺院だ。訪問の日は大きな祭事もなく、主司祭と管理者の妻が快くインタビューに応じてくれた。インドでは珍しいことに、主神像を含め自由に写真とビデオの撮影することを許してくれた。マドゥライ近郊のティルッパランクンラムにあるバラモン司祭養成校(写真③)も取材した。先述のアッルール校の出身者が営んでいる。5年コースになっていて、192人もの少年が在籍し、5名の教員が教育に当たっている。
 チェンナイではロヨラ大学に旧知の先生(マドラス大の元総長)を訪ね、日系企業に勤めるインド人たちからもよろずの情報を得た。アダィヤール地区では、ヴェーラーンガンニ教会(写真④)で修道女と面会するとともに、ヒンドゥー寺院2カ所も見て回った。 帰路はバンコクに立ち寄り、タミル系女神寺院とスィク教のグルドワーラを取材した。後者は大きなビルになっており、宗教施設としてだけでなく、現地のスィク教徒たちの集う場所として、コミュニティ・センターの機能も果たしている様子を実見し得た。

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調査報告
インド人世襲音楽家一族のグローバルネットワークと音楽活動

期 間: 2012年8月16日~9月3日
国 名: フランス(ロワール地方・アンジェ市、パリ市)
報告者: 田森雅一(国立民族学博物館・外来研究員)
概 要:  2012年8月16日に自宅を出発し、8月17日深夜に日本を出国、同日早朝にフランス・パリ市に到着した。さらに同日中に、ロワール地方の古都アンジェ市に移動。8月18日~8月26日まで、同市にて北インド・ラージャスターン州ジャイプル市出身の音楽・芸能を世襲的職業とする一族の若手音楽家6名の音楽活動に関する調査を行った。
 彼らの父や伯父たちと同市との結びつきは1980年代前半に遡り、一族のある者は今日もインド(ジャイプル)とフランス(パリ)を頻繁に行き来し、音楽演奏やフランス人にシタールやタブラー(打楽器)を教授することで生計を立てている。
 今回の6名の若手音楽家たちは、イスラーム神秘主義の歌謡であるカッワーリーの歌唱とサントゥール(打弦楽器)やタブラーなどの器楽演奏のため、同市を中心とするロワール地方での音楽祭等に招聘されており、報告者は同市での一連の演奏活動(リハーサル・練習等を含む)すべてに同行し、寝食をともにする中での参与観察と聞き取り調査を行った。彼らは訪仏中のコンサートやリハーサル等の合間を縫って、スカイプなどを活用し、アメリカに暮らす親族や南アフリカ在住のパトロンなどと連絡を取り合い、You Tubeなどで音楽に関する情報収集を頻繁に行っていた。また、新たな演奏機会の獲得やネットワーク作りにも余念がない。
 また、8月27日から31日までは、同市を基盤とするフランス人音楽家やマネージャーたちへのインタビューを行った。彼らとインド音楽との出会いやインド人音楽家たちとの交流の歴史等について語ってもらうことにより、1990年以前に遡るグローバルなネットワーク形成の契機やおよびクロスカルチュラルな音楽活動のあり方の一端が明らかになった。
 9月1日早朝にパリに移動。同日、パリに暮らすインド人音楽家のアパートを訪れ生活調査を行った。9月2日に離仏し、予定通り3日に日本に帰着した。

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調査報告
西インドにおける聖地のコミュニティ変容に関する現地調査

期 間: 2012年8月6日~8月31日
国 名: インド(マハーラーシュトラ州)
報告者: 松尾瑞穂(新潟国際情報大学講師)
概 要:  マハーラーシュトラ州の北西部に位置するトランバケーシュワルは、12のシヴァ派寺院のひとつであるトランバケーシュワル寺院を有する、中世から栄える聖地である。トランバケーシュワルから25キロほど離れたナーシックには、『ラーマーヤナ』のラーマが沐浴したとされる沐浴場があり、トランバケーシュワル近郊の丘陵地はハヌマーンの生地だという伝説が残っている。このような長い歴史を持つこの土地は、マラーター王国の歴代王権の庇護のもと、寺院の建設や寄進が進められてきた。在地のバラモン司祭集団の多くが移住してきたのも、王権とのかかわりにおいてである。と同時に、聖河ゴダヴァリがもう一本の川と交わる交差地(ティールタ)でもあるトランバケーシュワルは、ワーラナーシーやアヨーディヤなどの他のティールタと同様、祖先祭祀儀礼の中心地となってきた。
 しかし、これまで長らく、トランバケーシュワルは由緒あるとはいえ、マハーラーシュトラのローカルな一聖地に過ぎなかった。祖先祭祀儀礼を専門に執り行う司祭集団は、200家ほど存在するが、マラーター王国滅亡後、王権の庇護から離れた彼らも司祭職だけで食べていくことが難しく、農業をしたり、都市に出て、司祭職とは異なる職種に就いたりすることも多かった。それが、1990年代以降、ナラヤン・ナーグ・バリ儀礼という3日間にわたる祖先祭祀が、主に北~西インドの都市部に住む中間層の人々の間で人気を得るにつれ、いまではすべての司祭家がこの儀礼に従事し、大きな経済的利益も得るようになっている。人口1万人たらずの小さな田舎町に、今日では年間何百万人もの巡礼者が訪れるようになっている。それとともに、聖地としてのトランバケーシュワルは大きな変化を迎えている。
 私は、2004年以降断続的にこの土地を訪れ、祖先祭祀儀礼の調査を行ってきた。これまでの私の関心は、この儀礼を行う人びとの目的と属性を調べることを通して、このような儀礼の復興と流行が、インドにおけるいかなる社会変化と関係しているのか、ということであった。この祖先祭祀儀礼は、家族の問題、特に男児の誕生に関わるとされており、調査により巡礼者の約半数は、子宝を求めて儀礼を行うという特徴が明らかとなった。しかし、それ以外にも家庭内不和や、人生で生じる様々な問題(ex.結婚や就職難、家族の死亡など)の解決が期待されてきた。 巡礼者を中心としたこれまでの調査を踏まえ、今回の調査では、「宗教産業(Religious industry)」というキーワードのもと、いかに宗教が地域の経済的、文化的資本として社会変容の原動力となっているのか、ということを調査した。そのための予備的調査として、①在地司祭集団の戸別調査、②トランバケーシュワル寺院の参道の露店と市場調査、③ホテル、宿泊所の調査、④町役場の都市開発計画の調査、を行った。そして、今回は初の試みとして、ナーシックにあるKTHMカレッジ・社会学部の修士学生と講師の5人をリサーチ・アシスタントとして依頼し、チームを組んでプロジェクトを遂行することとなった。特に、在地司祭集団である全ての氏族を調査し、トランバケーシュワルの宗教産業を担う主要なアクターのコミュニティについて基本情報を網羅的に入手することができたのは、今回の調査の大きな成果である。依然として不十分であるが、今後は、今回の調査で得られたデータを分析し、さらに発展させるため、同地域の他カースト、他集団のデータとあわせて、現代インドにおける聖地の動態について明らかにしていきたい。

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研究会報告
「MINDAS 2012年度第2回合同研究会」報告

日 時: 2012年7月19日(木)16:30~18:30
場 所: 国立民族学博物館
報告者: 工藤正子(京都女子大学)
「パキスタン系移住者ネットワークにおける日本 ~日本人女性との家族形成を中心に~」
概 要:  パキスタンからは英国や中東諸国をはじめとする国々への広範かつ多様な海外移動の流れが見られ、送金や連鎖移民、縁組などで多層的につなぐ移住者ネットワークが形成されてきた。本報告では、こうしたパキスタンからの海外への移動とディアスポラ形成のなかで1980年代以降の日本への移動に焦点をあてて考察を行った。1980年代後期には好況期にあった日本に向かう出稼ぎ者が急増し、1990年代には日本人女性と結婚し、中古車輸出業を中心とするビジネスを起業するパキスタン人移住者がふえた。こうした国際結婚の夫婦の一部には、日本人の妻と子どもが海外(パキスタンまたは第三国)に移住し、パキスタン人の夫が日本を拠点にビジネスを継続するという、国境をこえた家族の分散が見られる。報告の後半では、こうした家族形成の背景にある複合要因として、次世代の教育戦略(とくに英語教育)や宗教的、文化的なジェンダー規範を中心に議論した。これらの国際結婚による家族形成の様相は、多様かつライフサイクルの進行とともに動態的に変化している。報告の最後に、こうしたトランスナショナルな家族において、今後、パキスタンの合同家族の再編、日本の妻方親の高齢化などと連関しつつ、「家族」や「つながり」の概念がいかに再構築されていくのか、また、そうしたコンテクストでムスリムとしての宗教的アイデンティティがいかに再形成されていくのかなどの諸課題を提示した。

研究会報告
「MINDAS 2012年度第1回合同研究会」報告

日 時: 2012年6月16日(土)13:00~17:00
場 所: 国立民族学博物館4階大演習室
報告者: 報告1.ヴァルヴァラ・フィルソヴァ(国立民族学博物館)
「在日するインド商人ディアスボラ」
報告2.前島訓子(名古屋大学)
「生きられる「仏教聖地」―「聖地」構築への社会的影響」
概 要: 報告1.ヴァルヴァラ・フィルソヴァ
インド人の移住とインド人の国外ディアスポラを対象とした論文はたくさんある。研究者の注目を集めているのは、その歴史と現状、さらに将来1000万人を超えると予想されるインド人の人口移動の動向が世界経済にどのような影響を与えるかなどである。
本報告は在日のインド人社会を中心としたフィールド・ワークで集めたデータに基づいている。フィールド・ワークの期間は2011年の9月から2012年8月31日までで、主な調査地は神戸である。そこに集中して住むオールド・カーマー・インド人を中心に調査した。
報告の前半ではインド亜大陸から日本への移住の歴史を紹介した。インドの商人が日本に現われるようになったのは1870年代頃のことであり、来日の目的は日本の絹とインド木綿の商売だった。その後インド人の数が増えていき、最初は横浜で、あとには神戸でインド人のコミュニティが設立された。第二次世界大戦の時、インド人の数は一時的に激しく減少したが、戦争が終わってからまた元に戻った。しかし、1980年代末から現在まで、インド人で商業に従事している人の数は減少する一方である。
報告の後半では、現在、在日するインド人の経済活動と彼らの日常生活に関して報告した。ビジネスに関して取り上げた話題は、在日インド人の職業構成、円高状況のなかでビジネスの見込み、ローカルとグローバルのネット・ワークの形成とその維持管理、そしてそのメリットなどについてである。
最後に、日本に住み続けているインド人はどのような生活をしている事例が多いのかを検討した。その際、彼らの宗教的、社会的な活動、日本語能力、日本社会との交流などを基に考察した。他方で、日本で生まれ育ったインド人、あるいは数10年間日本に滞在しているインド人であっても、彼らは自分が外国人であるという感じを抱いていることが明らかになったが、その理由についても分析した。
インド人と日本は歴史の時どきにおいて、いろいろな点でお互いを必要としてきた。今日の世界的な金融危機の中でも、それは変わらず、ビジネスの形態などは変化しても、インド人のディアスポラと日本はお互いの繁栄のために調和的な関係を築き続けるだろうと考える。
報告2.前島訓子
本報告は、仏教最大の聖地として知られるブッダガヤを事例に、「聖地」の動態的プロセスの一端を議論するものであった。インド発祥の仏教が13世紀頃に姿を消して以来、ブッダガヤを含むインド各地に点在する仏教建造物の多くが長らく遺棄されていたということは周知の事実である。いわば仏教徒に忘れられていた仏教の地の中でも、ブッダガヤは、今日にかけて、仏教徒が祈りを捧げる宗教的な場所としての篤いまなざしを集め、さらに仏塔が2001年に世界遺産登録を受けることで観光地としてもますます注目されるようになっている。
本報告が注目したのは、独立前後から今日に至るまでの、16世紀ごろから次第に絶対的な力を持つようになったヒンドゥー教のシヴァ派の僧院(Math)のMahantの社会的影響力とその変化である。これまでMahantは、同地域の仏塔の所有者であったことから、当時それを問題視する仏教徒との間で緊張を繰り返し、その緊張の歴史の中で取り上げられてきた。ところが、Mahantの地域的影響力については十分に取り上げられてきたとは言い難い。本報告は、ビハール州の中でも屈指の地主であったMahantの地域支配のあり様と、その影響力の減退を論じ、支配の減退に伴う社会の弛緩が、ブッダガヤがグローバルな世界的舞台へと登場していく中で、観光化へと水路づけられていくプロセスを論じた。
結論として提示したのは、ブッダガヤが国内外の関心を惹きつける宗教的な場所へと変貌する場所の宗教的展開と、その社会の支配とその影響力の減退および社会の弛緩に伴う観光化の進展との関係の中で、「仏教聖地」の現状がその都度、築き上げられているという点である。