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  研究会・調査報告 2012年度-2014年度



「MINDAS 2014年度第4回合同研究会」報告 研究会報告
■ 一覧

日 時:

2015年1月24日(土)、25日(日)

場 所:

国立民族学博物館4階 第4演習室

発表者:

発表1

竹村嘉晃 (人間文化研究機構地域研究推進センター/現代インド地域研究国立民族学博物館拠点研究員)


「ローカルの伝統からナショナル、ハイブリットなコンテンポラリーまで
        -シンガポールにおける〈インド芸能〉の発展と文化政策」

発表2

寺田吉孝 (国立民族学博物館教授)

 

「カナダ、トロント市における南インド音楽・舞踊の実践」


発表3

五十嵐理奈 (福岡アジア美術館学芸員)


「美術制度に抗する南アジア美術ネットワーク 
          -「第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014」より」


発表4

南真木人(国立民族学博物館准教授)


「「移民の文化」の形成過程―ネパール人移住労働者から」



概 要:

発表1


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 本発表では、シンガポールにおけるインド人コミュニティの歴史的過程を概観した上で、インド芸能の伝播・受容の動態とその発展に大きな影響を及ぼしている政府の文化政策について報告と考察を行った。

 シンガポールへのインド人の流入は、近代インド移民史の第一期後半にあたる19世紀末に、東南アジアの英領植民地化にともないビルマ、マレー半島、セイロンなどにインド人が移動した時代に遡ることができる。現在、人口に占めるインド人の割合は9%ほどであり、その内の半数以上がタミル・ナードゥ州に出自をもつ人びとである。最近では、ITやエンジニアなどの専門的職業に就く在外インド人の流入が顕著にみられ、かれらはインドに限らず、ヨーロッパや北米、オーストラリアなどからシンガポールに渡ってきている。

 シンガポールへのインド芸能の伝播は、英領植民地時代の人の移動に伴う形で始まったが、本格的には1950年代以降にインドの音楽や舞踊に関するアカデミー(Singapore Indian Fine Arts Society, Bhakar’s Arts Academy, Apsaras Artsほか)が設立されてからである。これらの機関では、バラタ・ナーティヤムやカルナータカ音楽を中心に、インド芸能の教授と実践が活発に行われている。近年では、専門的職業に就く在外インド人の流入に伴い、生徒の数が著しく増えた一方で、彼らの妻たちが自宅マンションの一室で個人教室を開くようにもなり、生徒確保の競争が激化している。

 シンガポールにおけるインド芸能の発展には、政府の文化政策が大きな影響を及ぼしてきた。本発表では、とくに1991年に設立されたNational Arts Councilの活動に焦点をあて、1)各種芸能アカデミーへの運営費の助成、2)若手実践者の活動支援、3)芸能公演やイベントへの助成、4)各種コンクールの開催、5)Art Education Programの推進、などを通じて、インド芸能がシンガポールの文化伝統として創造されていく過程を考察した。また、こうした政府の支援のもとで、各種芸能アカデミーが制作した作品のなかには、多文化主義を背景にしたものや異なる舞踊様式を混淆した創作が行われている実態を取り上げ、シンガポール社会のマイノリティである彼らが、芸能を通じて自己の存在を位置づけている生の営みを照射し、移民社会におけるインド芸能の創造的な発展を描き出すことを試みた。

 質疑では、インド人コミュニティの動態について、インド系シンガポール人や永住権保持者、在外インド人、出稼ぎ労働者といった分析上の枠組みの問題や、マジョリティである中華系シンガポール人によるインド芸能の位置づけ、さらには北米やヨーロッパの状況と比較した際のシンガポールの独自性に関する問題など、有益なアドバイスをいただいた。今後は、多文化主義を謳うシンガポールが国家としてインド芸能をどのように位置づけているのか、あるいはグローバル化にともなう新たな人の移動がインド芸能の受容や発展にいかなる形で影響しているのかについて、実証的な考察を進めたい。


発表2


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オンタリオ州の州都であるトロントは、カナダ最大の都市であり、経済の中心地でもある。多文化主義を国是とするカナダにおいても、最も多文化化が進んだ地域として認知されており、南アジア系は総人口の約1割を占める。今回の発表では、トロントおよびその周辺地域に約14万人の人口をもつタミル人コミュニティに焦点をあて、彼らの舞踊活動の実態と、その背景について考察した。

 カナダ在住のタミル人は、インド系とスリランカ系に大別され、それぞれ移住の経緯、母国における社会階層、教育レベルなどが大きく異なるため、両者の交流は限定的であり、単一のコミュニティを形成しているとは考えにくい。概して、インド系移民は教育レベルの高い高位カースト出身者が多く、古典音楽・舞踊の伝統的な愛好者であるため、母国における慣習の延長として音楽・舞踊を実践している。スリランカ系タミル人は、その大多数が母国の民族紛争を逃れてカナダに移住した政治難民である。出身カーストや教育レベルは多様であるが、母国におけるタミル文化の冷遇を背景として、かれらの音楽・舞踊の習得に関する関心は極めて高い。

 トロントの南アジア系コミュニティでは、多種のインド舞踊が実践されているが、南インド古典舞踊バラタナーティヤムの人気は際立っており、トロント地域だけで3,000人ほどの若者がこの舞踊を学んでいると推測される。報告では、アランゲートラムと呼ばれるデビュー公演の定着とローカル化に焦点を当て、その内容と特徴を紹介した。特に、スリランカ系コミュニティでは、アランゲートラムが盛大に開催される傾向があり、結婚式のレセプションと並んで、コミュニティ内における地位・序列を交渉する有力な場の一つとなっている。またタミル語楽曲が重視され、インドおよびインド系タミル人コミュニティにおけるアランゲートラムとの大きな相違点となっている。演目や式の進行などにおいてもインドでは見られない特徴(司会者の存在、舞踊家自身によるスピーチ、複数回の衣装替えなど)があり、その一部はインドにも影響を与え始めている。スリランカ系コミュニティにおけるアランゲートラムの隆盛は、技量に優れるといわれるインド系演奏家、舞踊教師の需要を高めており、彼らのカナダ移住、長期滞在の一因となっている。

 次に、インド・トロント間を往還しながら活動する舞踊家・舞踊家集団を紹介した。マドゥライ出身の舞踊家ナルタキ・ナタラージは、毎年一定期間トロントに滞在し、スリランカ系タミル人の生徒の指導にあたっている。彼女は、チェンナイを拠点としてタミル文化に立脚した舞踊活動を展開してきており、その活動がタミル語・タミル文化を重視するスリランカ系タミル人に注目された。南インドの主流音楽・舞踊界では、歴史的な経緯からサンスクリット語、テルグ語楽曲が重視されてきたが、ナタラージのように、主流舞踊界から一定の距離を保ちながら、タミル文化に根ざした芸能活動を続ける演奏者たちが存在する。

 最後に、バラタナーティヤムを基盤として先鋭的な活動を行う舞踊団インダンスについて報告した。この舞踊団は、バラタナーティヤムの源流であるデーヴァダーシ舞踊を再評価することによって、過度に精神性が強調され、大伝統化された現在の舞踊を批判する(歴史性を前景化する)上演活動を行なうとともに、バラタナーティヤムを多様なジェンダー・セクシュアリティの表現の場として再編成する活動もおこなっており、かれらのインド公演はインド舞踊界に波紋を投げかけている。しかし、彼らがインド舞踊界と接点を保ちながら、このような活動を継続できるのは、在外タミル人という外部性を最大限に活用しているからであり、音楽・舞踊のグローバル化の一側面として捉えることができる。

 以上のように、トロントではスリランカ系タミル人の音楽・舞踊への高い関心を背景に、極めて活発で多様な活動が展開されており、その総体はつかみきれていないものの、いくつかの注目すべき現象、傾向を同定することができた。ディアスポラ社会における芸態上の変化と、インドの音楽・舞踊文化への具体的な影響を分析するためには、以上にあげた事例における演目、上演スタイルを精査することが必要であり、今後の課題としたい。


発表3


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  近年、南アジアの現代美術は、アーティスト数、展覧会数、美術館やアートスペースの数が増え、またインドを中心に美術市場も多くの取引が行われるようになるなど、活況を呈している。この背景には、南アジアに特有の現代美術ネットワークの存在がある。南アジア各国では、2000年代にアーティスト主体の非営利団体が相次いで設立された。当時実験的なアートに対する支援や制度、美術館や展示場所などのインフラが十分でないことから、作家たち自らが展示スペースの確保、実験的な作品制作のサポート、レジデンス、シンポジウム、出版などを行う団体を設立したのである。その中心的な役割を担ってきたのが、インドの「Khoj」(1997年)で、その後、Khojの運営方法などにも影響を受けつつ、スリランカの「Theertha」(2000年)、パキスタンの「Vasl」(2001年)、バングラデシュの「Britto」(2002年)、ネパールの「Sutra」(2003年[現在休止])などが次々と活動を始めた。各団体は、アーティスト、美術団体の国際的なネットワーク作りを支援する組織「トライアングル・ネットワーク」(イギリスに本部、1982年)にも加盟し、横のつながりも強めて行った。南アジア域内を横断する「ワークショップ」を重ね、組織化、ネットワーク化を図ることで、自らを取り巻く閉塞状況に風穴を開けようとしたのである。それは、既存の美術様式や技術偏重の美術教育、政府主導の展覧会、保守的な商業画廊などの美術制度に抗する活動でもあった。各国の既存の美術界でなかなか認められることなく活動していた若手作家たちは、南アジア圏内の同じ状況にある作家たちと横につながることで、この状況を乗り越えようとしたのである。こうした10年にわたる地道なアーティスト主導の取組みが、現在の南アジア全体の美術の活況を支えている。

  報告では、2014年9月—11月に福岡アジア美術館で開催された「第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014(FT5)」に出品した南アジア6ヶ国の11作家・作品をとおして、南アジア現代美術の各国美術動向とその充実ぶりを紹介した。また本展に参加した新進気鋭の若手作家の多くが上記の団体の設立者やメンバーとして関わっていることを示し、現在の活況の背景にある南アジアの現代美術ネットワークの存在とその特徴について報告した。

  本報告に対して、抗する美術制度が時代によって変化すること明確にすべきこと、なぜ南アジアにのみこうしたネットワークが特徴的に形成されるかなどについて、コメントや質問をいただいた。今後、さらに詳細に考察を進めたい。


発表4


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  ネパールの村における中東湾岸諸国やマレーシアなどへの移住労働は、近年、多くの青年男子が経験する通過儀礼的な性格を帯びてきた。連鎖的な移住が生まれる背景には、送金はもとより、移住労働者や帰還した元移住労働者が出身コミュニティにもたらす文化的影響(社会的送付)が大きく関わる。本報告では私がこれまで調査してきた村(西部ネパール、ナワルパラシ郡ダーダジェリ行政村)を事例に、移住労働者の送り出しシステムが形成されてきた過程を記述し、情報(考え、実践、会話、規範など)の環流が人の環流を助長するトランスナショナルな現代移民の特性について発表した。

  ネパールにおける移住労働者の先行研究では、送金の経済的効果、残された女性の役割変化、移民の発生や動機づけにおけるメディアの役割、低賃金労働といった搾取や家事労働者に対する暴行など人権に関わる問題などが取りあげられてきた。だが、移民を手引きする在村の仲介者の役割や移民が送り出し社会にもたらす文化的な影響、「移民の文化」の形成過程については看過されてきたきらいがある。本報告ではMINDASの成果の一部として出版が予定されている論集に寄稿する論文の構成、概要、考察と議論について話した。現地調査は、上記のネパールの村、及び同村から移住労働者として渡航した青年をカタールとUAEに訪ねる形(2012年12月)で実施した。

  オリジナルなデータとして、海外移住労働を手助けする在村の仲介者がいかにして生まれ、どのような役割を果たしてきたかを政策・法令の変化に合わせて示した。とくに、調査村はマガールという民族が暮らす村だが、そこのマガール人の仲介者(ダニヤ)に焦点をあて、彼が2003年から2014年までの11年間に仲介してきた53人延べ60件の渡航歴を表にあらわした。そこからは、渡航先の内訳がマレーシア27件、カタール17件、UAE16件であり、2007年までマレーシアが主であったが、その後カタールとUAEが増加している傾向が読みとれた。また、仲介を依頼した若者の48人がマガール人で、残る5人はチェトリ、パリヤール、ヴィシュワカルマのカースト出身者であった。2007年には既に2回目の渡航(休暇帰国ではなく、別職に就くもの)をした人が出て、既にそうしたリピーターは53人中10人に達しており、現在3回目の渡航準備を進めている人も3人いる。移住労働を繰り返し行うことで、移住労働への依存が進行しつつあることが見てとれた。

  移住の送り出しシステムに関しては、まず人材派遣会社を用いるルートと個人ベースのルートに大別できる。個人ベースとは、先行して海外で働く親族などが現地で雇用先にかけあって、あるいは雇用先の求めに応じて、個人を招く方法であり、渡航に必要な書類は現地から送られる。移民送り出しシステムには、「市場媒介型移住システム」と親類や知人などのつてに頼る「相互扶助型移住システム」があるとされる(樋口 2002)。ネパールの場合、人材派遣会社ルートが市場媒介型移住システムに、個人ベースのルートが相互扶助型移住システムに該当しそうだが、必ずしもそうとは限らない。調査地のマガール人の場合、何れのルートにおいてもダニヤのような仲介者に頼ることが多く、仲介者も仲介料として1件につき約1万ルピーを得るので、厳密にいえば相互扶助型とはいえないのである。とはいえ、仲介者の手助けなくしては移住労働の連鎖が成り立たないことは自明であり、市場媒介型移住システムと相互扶助型移住システムの混成型ともいえる在村の仲介者を介在させる移民送り出しシステムがネパールの一つの特徴といえそうだ。それは、首都のカトマンドゥですら一度も訪れたことがない若者が、国外にいきなり渡航しているという現状を反映している。

  とくに2007年の「国外雇用法」の改定と2008年の「国外雇用規則」の制定は、仲介者の役割を増加させた。これにより、政府が認定した人材派遣会社を通さずには、国外労働許可書が発行されなくなり、個人ベースの渡航においても人材派遣会社を介在させずに出国することができなくなったからだ。逆にそれによって移住労働のプロセスは複雑になり、制度と裏技を熟知した仲介者の役割はますます不可欠のものとなった。何れにしろ、仲介者がいることでマガールの仲介者は同郷のマガールを同じ雇用先に送り出すという、移民の促進、選別と方向づけのメカニズムが強化されているのである。


 


インド音楽・舞踊のグローバリゼーション ―ベルギーにおけるインド音楽の受容と音楽家のネットワーク― 調査報告



■ 一覧

期 間:

2015年2月5日〜15日

国 名:

ベルギー(ブリュッセル市)、フランス(パリ市)

報告者:

田森雅一(東京大学)


概 要:

 ベルギーは、フランスとオランダに挟まれた、人口約1110万人(面積は岩手県の約2倍)の王国である。今回の調査は、ヨーロッパにおけるインド音楽・舞踊のグローバル化研究の一環として、ベルギーにおけるインド音楽の受容の歴史や実践状況、音楽家のネットワーク等についての情報収集が主目的である。

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MIM
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tagor

 インドとベルギーの歴史的な文化交流としては、S.M.タゴール(1840-1914)が1876年に当時の国王レオポルド2世に贈った100点の楽器群が知られており、これらのコレクションを基に1877年に設立されたのがブリュッセル楽器博物館(Musical Instruments Museum : MIM)である。そして、本館に集められた西洋と東洋の楽器群の整理・展示のための模索が近代的楽器分類の基礎となったことはよく知られている。タゴールの寄贈楽器のうち、今回の調査で見ることができたのは北インドの弦楽器ビーンとマユリ・ヴィーナーの2点のみだったが、いずれもよい保存状態で展示されていた。

 さて、アジアに植民地をもたなかったベルギーでは、隣接するフランスやオランダのように、インドあるいは他の植民地経由で移住したインド系住民のコミュニティーが形成されなかったこともあり、インド音楽・舞踊などの文化活動はアクティブではなかった。それが変化したのは、1990年以降のインド人ディアスポラ=NRIの移動であったといえよう。ベルギーに進出しているインド系企業の中には、メセナの一環としてインドから音楽家を招きコンサートを行うケースも見られる。しかし、現地の音楽家によれば、「NRIの大部分の興味はボリウッドに向いていて、伝統音楽への興味は薄い」ようで、むしろ、ベルギー人の方に熱心な学習者や聴衆が多いという。

 このあたりの状況を含め、ベルギーを本拠地として活動する南アジア出身の音楽家たち、また、インド音楽の普及や教育活動を行っている団体の代表者や演奏活動を行うベルギー人音楽家にインタビューを試みた。

 近年、南アジアからやってきてベルギーに定住して音楽活動を行っている音楽家に、インドのラージャスターン出身の歌手マハブーブ・カーン(1970年生まれ)や、パキスタンのラワルピンディ出身のサロード奏者アサド・キジルバッシュ(1963年生まれ)らがいる。前者は、1990年代後半にフランスにやって来て、ティティ・ロビンが中心となってプロデュースされたアルバム『ジタン』や、デニス・ピエンが率いるLo’Joへの参加経験がある。そして、ハミード・カーンによって結成された「ムサーフィル:ジプシー・オブ・ラージャスターン」のメンバーとなった後に独立、2003年ころから「ランギーレ」という自らのグループを率いてベルギーに本拠地を置いて活動するようになった経緯などが今回の調査で明らかになった。また、彼らと活動を伴にするベルギー人のダンス・カンパニーの存在も重要である。このカンパニーを主催するマヤ・サペーラー(通称)は、バラタナティアムやカタックに加えて、ラージャスターンでカールベーリヤー舞踊を学んだ人物である。彼らは、インド音楽・舞踊に西洋のコンテポラリー音楽や舞踊とのフュージョンも積極的に行っている。

 一方、ベルギーにおいて、インドの音楽・芸能が研究・教授されている公的機関は見当たらない。1995年に私的機関として、インド音楽学院(Sangit School of Indian Music)を開校したダニエル・シェル(1944年生まれ)によれば、「政府にインドの音楽や文化を教える学校・学科の開設を働きかけて来たが、反応は鈍く、自分の私財をもとに開校した」という。科目は、インド音楽の理論、シタール、タブラー、バイオリンなどで、フランスやオランダに住むインド人音楽家に定期的に講師を依頼。現在ではここで基礎を学んでインド人のシタール奏者に弟子入りしたベルギー人(1970年生まれ)が初級から中級のコースを教えている。彼によれば、現在では、上記のインド音楽院で学習した者たちのネットワークが出来上がり、ミニコンサートやサロン的な場所を提供し、ベルギーのインド音楽関係者・愛好者の拠点となっている。

 また、アート・ベース(Art-Base)という団体が、小規模ながら民族音楽/ワールドミュージック系の音楽家に演奏場所(キャパ50人程度)の提供とウェブによる告知を行っている。ベルギー滞在中には、報告者のインフォーマント・グループの一つである、ラージャスターンのジャイプル出身のカッワーリー・グループの演奏も行われた。彼らはパリを拠点としつつ、規模の大小を問わずベルギーやオランダ、イギリスなどの演奏会に出かけて足場を広げ、そのネットワーク拡大の努力をしている。演奏当日は、ほぼ満員の状況で、聴衆の多くはベルギー人が占め、会場は熱気に包まれた。


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Mebub&Maya
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Quzilbash


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Schel
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Bert Cornelis


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Irshad


 

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インド音楽・舞踊のグローバリゼーション
―フランスにおけるインド音楽の受容とムスリム音楽家グループの実態調査― 調査報告



■ 一覧

期 間:

2014年9月12日~25日

国 名:

フランス(パリ市)

報告者:

田森雅一(東京大学)


概 要:

  今回のフランス調査の主要目的は、1)フランスにおけるインド伝統音楽とそのフュージョン化の状況、2)フランスにおけるインド音楽振興・文化交流の歴史と現状、3)ラージャスターン出身の民俗音楽家グループの活動状況の把握の3点である。

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サロードと現代音楽のフュージョン

  パリ郊外のロワイヨーモン・カトリック僧院で行われた音楽祭では、「文化を超える音楽」と題して行われた二つのコンサートを取材した。一つは、インド古典音楽(弦楽器シタールと打楽器タブラー)とイラン古典音楽(弦楽器タール/セタールと打楽器ザルブ/ダフ)という異なる文化圏の古典音楽の共演。もう一つは、インド古典音楽(弦楽器サロードと打楽器タブラー)をベースとする新世代の奏者(インド系英国人)とフランス現代音楽グループとの共演。サロードのソウミック・ダッタはフュージョン音楽の演奏に適するように楽器を改良。サロードにショルダーバンドをつけて担ぎ、電子楽器のようにサロードにマイクを繋いで演奏をしている。演奏はインドの伝統的な旋法であるラーガをベースにしつつ、多様な音響効果を狙った奏法を行い、西洋・東洋の各種の音楽との即興的なコラボレーションを行う点など、異文化間の音楽・楽器のフュージョン化の実際について把握することができた。

  音楽・舞踊によるインド文化振興・文化交流では、国立ギメ東洋美術館の音楽担当ディレクターのユベール・ラオット氏にフランスにおけるインド音楽の歴史と現状について、東洋の音楽・舞踊の専門劇場であるマンダパ代表のミレーナ・サルヴィーニ氏に劇場の運営やインド音楽家との交流の歴史について、㈶自治体国際化協会・パリ事務所ではフランスの文化政策と移民政策などについて調査を行った。また、カタック舞踊のジャイプル・ガラーナーの家元筋にあたるカマル・カント氏が主催するトリワット協会(パリ教室)の授業と教室運営について調査を行った。

  フランスを根拠地として音楽活動を行うラージャスターン出身の4つの音楽グループ(括弧内は活動拠点)、すなわち①Kerap Gypsies from Rajasthan(Paris), ②Dhoad Gypsies from Rajasthan(Tours), ③Gypsiys of Rajasthan(Paris)、④Mastana Qawwali of Rajasthan(Paris)のそれぞれのリーダーに個別に聞き取り調査を行った。彼らの共通点は、ムスリムの音楽世襲カースト出身者がリーダーとなっていること、前3者のグループ編成がミーラースィー(歌謡、ハルモニウム、タブラー)、ランガ(歌謡、ドーラック、カルタルなどの民俗楽器)、サペーラー(カールベーリヤー舞踊)、ファキール(曲芸)という宗教とカーストを超えた音楽家で構成されていること、別動グループとしてブラスバンドを組織している点などがあげられる。

  このような編成の先駆的グループとして、1990年代の半ばに結成された「ムサーフィル」がある。そして今回、パリを基点として活動するラージャスターン出身の4つのグループのリーダーの親族関係と音楽活動の聞き取り調査により、彼らはすべて何らかの姻戚・遠縁関係にあり、ムサーフィルへの参加後に独立、あるいはムサーフィルの西欧での展開を手本として2003年以降にグループ結成されたことが明確になった。


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カタックのレッスン風景
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Dhoad Gypsies from Rajasthanのリーダー、ラヒース氏


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Dhoad Gypsies from Rajasthanのメンバー
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Mastana Qawwali のメンバー


 

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「MINDAS 2014年度第3回合同研究会」報告 研究会報告
■ 一覧

日 時:

2014年10月11日(土)、12日(日)

場 所:

国立民族学博物館 2階第6セミナー室、4階第1演習室

発表者:

発表1

三尾 稔(現代インド地域研究国立民族学博物館拠点代表・国立民族学博物館准教授)
 “Enchantment of the Past: Nature of ‘Faith through Things’ in the Worrier’s Spirits’ Cult of Southeastern Rajasthan”


発表2

Lindsey Harlan (Professor of Religious Studies, Connecticut College) 
 “Stories of Gevar Bai and the Construction of Mewar’s Rajsamand Reservoir”


発表3

田中 鉄也(日本学術振興会特別研究員)
 “Consideration on Struggles of Rani Sati Temple Management after Implementation of Commission of Sati (Prevention) Act,1988”


発表4

松尾 瑞穂(国立民族学博物館准教授)
 「神話と遺伝子―現代インドにおける生殖医療とサブスタンスの文化的意味付け」


発表5

山下 博司(東北大学大学院国際文化研究科教授)
 「ディアスポラにおけるヒンドゥー儀礼の制約と変質―世界数カ所の事例をもとに」


発表6

鈴木 晋介(関西学院大学先端社会研究所専任研究員)
 「ラフィング・ブッダ―現代スリランカの民間信仰とグローバリゼーション」



概 要:

発表1


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  In popular Hindu religion, such as religious cults centered round spirit possession, people often attach greater importance to religious practices rather than to faith based on written sacred texts or creed. What they do to gods or spirits and what kind of boon they get from gods or spirits are much more important than what kind of doctrine they believe based on gods’ or spirits’ story or myth. In this religious sphere, gods’ or spirits’ images and figures play the central role in followers’ practices. Followers interact with these images and figures in order to extract desirable rewards from gods or spirits. As these images and figures are situated in particular places (that is, in temples or shrines), these practices are inevitably locally as well as temporary bounded.

  Contemporary ICT has potentiality to bring about changes in this situation. Internet homepages or Facebook pages have potentiality to liberate the locally and/or temporary boundedness of popular religious practices centered round gods’ or spirits’ images. When these images are brought into the ICT world, what kind of changes is taken place in popular religious practices and beliefs? Taking up a Rajasthani local spirit’s cult’s patrons’ practices as a concrete example, this paper tries to examine how the features of the nexus of god’s images and human beings change when they move from off-line everyday world to on-line cyberspace.


発表2


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  This paper focuses on Gevar Bai, an important Jain heroine in legends about the assassination of Prince Sultan Singh by order of his father, Maharana Raj Singh, who ruled Mewar during the seventeenth century are Jain. The stories I have collected about her come predominantly from non-Jain sources and represent her and other Jain legendary figures as heralding Rajput values while also challenging Rajput authority. Gevar Bai, a Jain sati (devoted wife) is identified at her temple at Rajnagar with the goddess Ambaji and credited with aiding Maharana Raj Singh after he rued his decision to execute his son, who has become Udaipur’s most widely worshipped sgasji (divine hero). The king wanted to expiate his guilt after realizing that he had unwisely believed a false rumor. Gevar Bai’s stories credit this Jain sati with helping the king to atone for his misdeed by aiding him to successfully construct the vast reservoir Raj Samand during a time of drought and siege by Moghul forces. Her story reveals ambiguous modes of representing Hindu—Jain relations in narratives reflecting on authority and power in some salient constructions of seventeenth century politics.

  Because the lake’s embankments had repeatedly crumbled and failed, Brahmins advised the king to find a pure woman, a sati, who could consecrate the reservoir and fortify its banks with her inner fortitude or integrity (sat).

  After learning about Gevar Bai from the search party he sent to find a pure woman, Raj Singh asked her to stand in the reservoir and consecrate it while the water rushed in. Before agreeing to do so, however, she extracted from him a promise to fund a costly Jain temple to glorify her husband (identified in the temple as the Jain general and minister Dayal Shah). Although this paper focuses on Gevar Bai’s delivering the king from his guilt, ennobling her husband, and potentially (and in some stories, ultimately) sacrificing her life, it locates key elements of Gevar Bai’s stories in a dense and complex narrative milieu, one that includes tales about the post-execution resurrection of Sultan Singh by a Jain mendicant or jati.

  This tantrik, who was staying in Udaipur during the rainy season, resurrected Sultan Singh while his body was being carried in procession to the mahasatiyan, the cremation and memorial grounds. He did this because he wanted to finish a board game (chaupad) with him. Good friends, they were accustomed to playing the game routinely, but had been interrupted during their last game. The jati’s power reversed, and so rectified, Raj Singh’s errant execution, said by some to have been plotted by a queen, a merchant, a Brahmin, or a agent of Aurangzeb. After finishing the game, the hero chose to honor his father’s will and so proceeded to the mahasatiyan, where his brother (who was also murdered or killed himself because of grief) was being cremated. Sultan Singh then immolated himself, mingling his ashes with his brother’s, which is why they share a single memorial pavilion (chatri). The sati-like immolation, which the jati made possible, gave Sultan Singh the opportunity to manifest his extraordinary agency (shakti), some element of which is typical of sagasji stories, even though almost all sagasji are victims of assassination, and do not, like other worshipped heroes (jhunjharjis) have the opportunity for prolonged and glorious struggling in battle. This self-immolation demonstrates his integrity (sat) while establishing Brahmanical authority over Sultan Singh’s Udaipur temple, because the Brahmin who presided at the cremation felt guilty for participating in a live immolation and so joined the hero brothers on the pyre.

  The paper analyzes the resistance to and negotiation with royal authority in the form of the king ,who is held culpable by devotees but still beloved for his role as Aurangzeb’s nemesis. Like Rana Pratap, Raj Singh’s images are found all over Udaipur. The critiques and challenges found in the sati and jati legends, typify stories about Sultan Singh and Udaipur’s many other sagasjis, whose tragic deaths continue to critique political authority not only in the “Golden Age” of Rajput hegemony but also in the “Kali Yuga” of the city today. The shrines for these heroes, which are found throughout the city and which have become enormously popular as neighborhood protectors during the past two decades, celebrate the birthdays of all the sagasjis on the weekend after Hariyali Amavasya, the time in which the monsoon’s “greening” of Udaipur is celebrated during the new moon. During the Janam Mahotsav (Birthday Mega-festival), he heroes are believed to visit one another’s darbars (divine, “gods only” gatherings) and the bhopas (mediums) whom they possess also visit one another’s shrines. Aside from Sultan Singh’s at the Sarv Ritu Vilas Palace, there are many vibrant temples in Udaipur, includingones for Sardar Singh (the brother who died with him) and Bhim Singh (another brother, whom Raj Singh banished rather than slay, but who died in Afghanistan while performing a daring riding trick). During the three days of this festival, people of all backgrounds fill the streets of Udaipur and visit highly decorated sagasaji shrines and attend their cultural programs. About thirty percent of Sultan Singh’s devotees at his major temple are Jains and some of the most prominent bhopas for sagasjis are Jains, who, when possessed, embody royal and noble Rajputs.

  This paper contemplates ways in which the identities of two Jain figures in Sultan Singh’s legend critique authority in ways that demonstrate shared but fluid constructions of integrity. Among the questions to be addressed here is whether or to what degree the rich stories about the sati and jati are Jain, Jainish, or not Jain. One of the stories about the sati was narrated from her husband’s temple, the one built by Raj Singh, but the narrator was the Hindu priest who tends the gods’ images there. Thus the story he tells reflects the complex space in which Hindus and Jains, many of whom assert Rajput provenance, co-exist and construct shifting religious histories and fluid identities.


発表3


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  This paper analyzes a contemporary issue of management of Rani Sati temple in Jhunjhunu, Northern Rajasthan. This temple commemorates a legendary widow from the Jalan lineage of the Agrawal caste, who was alleged to conduct the custom of widow immolation, namely Sati, in 1295, and subsequently became one of the most famous Satimatas (deification of the immolated widows) in India. Actual widow immolation at a small village called Deorara in 1987 drew attention to this temple, one of the biggest satimata temples in India. Since the Commission of Sati (Prevention) Act was implemented to prohibit worship of the immolated widows in 1988, the temple has initiated lawsuits regarding the legal legitimacy of the management as well as finding a feasible way to manage under the restriction of the Act.

  Despite the medieval origin of the goddess (1295), construction of the Rani Sati temple complex in her honor was begun in 1912. In 1957, a public trust, “Shree Rani Satiji Mandir Trust”, was formed as the temple’s primary management division and registered in Calcutta because all twenty-one trustees resided in Calcutta and used Calcutta as their business base. Formation of the public trust allowed the temple itself to be in Jhunjhunu, but its management center is in Calcutta. The composition of the mythical origin of Rani Sati in 1964 illustrates how the temple represents for the Jalans as a homeland.

  The court battles and the state intervention on the Rani Sati temple after the implementation of Act in 1988 actually became a turning point of the temple’s management. The first case was on 18 August 1988 when The Shree Rani Satiji Mandir Trust filed a lawsuit in the Calcutta High Court against public interference of the Rajasthan State violating Section 25 (on the basic rights of religious freedom) and Section 26 (on the freedom of management of religious institutes) in the Indian Constitution. According to its interim order, the citizen’s religious freedom inside the temple complex should be protected and respected as an endeavor in the “private area” while festivals conducted outside the temple complex should be restricted by the rule of law as an event in the “public area”. Based on this decision, the annual festival was permitted, since then, within the temple complex although promotion and publication of the festival outside the constructions was completely prohibited. However, attention of the court battles gradually turned into “glorification of sati” within the temple complex. By 1996, the utilization of following materials like chunari (a red veil), kalash (a pot filled with water) and chappan bhog (fifty-six kinds of sweets for the gods) became illegal even in the temple complex because they are perceived as the violation of the glorification of sati. Because of a series of the State interventions from 1988, the public trust had to search opportunities both to restore their relationship with the District Magistrate of Jhunjhunu and to regain social and cultural legitimacy as a pilgrimage center in Jhunjhunu District. The tactical emphasis of generality and universality of the temple’s character should refer to Rani Sati worship not as the “rights of the community”, i.e., of only the Jalans, but as the basic rights of religious freedom, i.e., for everyone wishing to visit the Rani Sati temple. The analysis given in this paper on the court battles and State intervention on the temple after 1988 illustrates a duplicate picture of the Rani Sati temple both as temple for the Jalans and as for the Jhunjhunu society.


発表4


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  インドは、近年、生殖ツーリズムのハブとして、国境を越えて提供配偶子や代理出産などの生殖医療技術(ARTs)を求める人びとを引き付けている。正確な統計はないものの、国内に不妊症クリニックは約1000軒、代理出産件数も年間数百人にのぼっている。主に外国人や国外に居住するNRIらの利用が中心だったこれらの生殖医療は、インドの経済成長とともに、不妊に悩む中間層のインド人の間でも急速に広まっている。卵子・精子の提供や、代理母に子どもを産んでもらう代理出産によるリプロダクションは、これまで南アジア社会で議論されてきたサブスタンス論とどのように接合し、また乖離しているのだろうか。

   本報告では、新たな科学的実践が現代のインド社会においていかに認識され、受容されるのかを、生殖医療をめぐる言説やそれらが生み出す新たな現象を事例として取り上げた。具体的には、血液や臓器といったこれまで提供がなされてきた身体部品と、生殖医療の現場に登場する卵子や精子、さらには子宮という新たな身体部品との比較と、その宗教的な解釈枠組みの再編成についてである。そうした新たな技術を受容する社会的素地として、マハーバーラタなどの古代神話を科学技術という視点から現代的に解釈するヴェーダ科学という思考や、歴史認識問題について考察した。さらに、報告者の調査に基づき、代理母と胎児との体液や血液の交換を通したサブスタンスの共有が、どのように代理出産のプロセスにおいて作り出されつつも、ある文脈においては忌避されるのか、ということを論じた。

   本報告に対して、研究会では、ヴェーダ科学のような、近代科学をインドの伝統に再配置する科学史的な視点と、調査地における微細な人々のサブスタンスの交換実践とをいかに接続できるのか、イスラームとヒンドゥーの身体部品及びその提供の観念の違い、地域的特性等に関する有益なコメントや質問がなされた。これらの点を課題として踏まえ、今後はさらに考察を深めていきたい。


発表5


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  近現代におけるインド人の世界進出は、このところの世界経済のグローバル化によって一段と活発化している。これにともないヒンドゥー教も、布教活動によってではなく、主として移民活動を通じて顕著な世界的拡大を果たしつつある。

  ディアスポラに展開するインドの民族宗教は、故地そのままの実践形態を保つのにさまざまな制約が課され、何らかの妥協を迫られ変容を余儀なくされつつ存立している。宗教儀礼上の既成の定めに照らし、やむなくどこまで変質を許容するかの問題も生じてくる。一方で、新しい環境を宗教実践の維持と拡大の好機と捉え、むしろ積極的・主体的に自らを改変し状況に活路を見いだしていく事例も観察される。いずれの場合も、自らのアイデンティティの保全・維持との絡みで微妙な調整が求められることになる。実際には、ディアスポラのヒンドゥー寺院は、両様の態度が複雑かつ微妙に入り交じり絡み合う中で営まれているのが現実である。

  本発表は、故地の文脈から切り離された環境において、さまざまな制約や条件のもと、移民先のヒンドゥー教徒たちが寺院を中心に信仰と宗教的実践を維持しようとする際に、ヒンドゥー教の組織や内部にどのような変化・変容が生じるのかについて、寺院、儀礼、司祭等の問題を引きながら考察するものである。他地域の事例も参照しつつ、旧英領マラヤ地域で独特な形態を発展させてきたタミル系のヒンドゥー教・ヒンドゥー寺院を軸に問題に迫ってみたい。

  インド国外のヒンドゥー寺院で儀礼行為が営まれる場合、聖典の記述に寸分の違いもなく、あるいはインド本土で行われるのとまったく同一のやり方で執行されることは事実上皆無に等しい。インドとは異なる環境のもとで宗教儀礼を行う際に、大なり小なり何らかの妥協を強いられ、儀礼の詳細にも変更や取捨選択が加えられるのはきわめて自然なことである。状況の変化に合わせて、何らかの要素を付加するなどの必要も生じることであろう。上述のように、どこまで変更や改変を許容するかは当事者たる移民たちに課された難しい問題でもある。

  しかし、これは国外のヒンドゥー教においてのみ現出している現象であろうか。実際には、インドにおけるヒンドゥー教の発展にも、同様の問題が付随していたであろうことは想像に難くない。歴史的展開にも、あるいは地理的拡大にも、同種の問題が常につきまとっていたはずである。ヒンドゥー教が新しい時代的局面を迎えた際や新しい環境と出会った時に、それに合わせて操作や改変が為されてきたであろうことは、バラモン教からヒンドゥー教へ、およびヒンドゥー教自体の変遷の足跡を通時的に辿ってみれば自ずと明らかである。第一、ヴェーダでは神像の崇拝を説かないにもかかわらず、ヒンドゥー教のアーガマ文献は、神像を用いた崇拝様式や儀礼体系を前提に存立している。もとより寺院や聖地そのものの存在すら、ヴェーダでは例証されないのである。このように、アーガマに準拠する儀礼的実践は、先行する規範や慣例を逸脱したところに成立しているが、それにもかかわらず、ヴェーダの権威性は注意深く保全されるのである。ヒンドゥー教が、本土において時代の変遷を経ながらも今日まで延々と命脈を保ち、かつ国外的にも顕著な拡大を見せている事実は、ヒンドゥー教のアーガマ的な伝統が有する上述の融通無碍な性格と関係している。

  ヒンドゥー儀礼が、インドの国内外を問わず、常に変容を被りつつ現在に至っていることに鑑みれば、こうしたことは決して一時代・一地域に局限される現象ではなく、ヒンドゥー教の展開の背後に一貫して働き、それを新たな環境に順応させ、次なる段階に移行させていく動態的なメカニズムであると言うことができる。もちろん、ディアスポラ的環境が劇的な改変を時に生起させることは確かであり、それを実見できる機会を提供してくれるという意味で実に貴重なフィールドではあるが、同様の現象は、インドにおいても時間的なスパンこそ違え常に生じてきたものであり、現代のディアスポラ特有のものではないのである。

  本発表で援用する「アーガマ化」という用語は、未だ概念として定着しているとは言い難く、したがって必ずしも定義が確定しないまま、さまざまな意味合いに用いられている。類似の分析視覚もないわけではない。ここでは「アーガマ化」を、もともとヒンドゥー教の正統的な伝統の埒外または周縁にあったものが、正統な儀礼体系の中で意味づけられ存立の場を与えられていく現象あるいはそのプロセスを指すものとする。「アーガマ化」は、とくにインド国外のヒンドゥー教現象に特化して用いられてきた傾きがあるが、それがインドにおけるヒンドゥー教の進化と展開のプロセスにも等しく適用し得る概念たり得ることは、こうしたことからも肯んぜられるのである。

  発表では、いくつかの神格や儀礼の変容を具体例に掲げつつ、上述の諸問題が検討され質疑応答がなされた。


発表6


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 本発表では、2000年代半ばのスリランカにおけるラフィングブッダ信仰拡大の背景と宗教的実践の諸相について報告と考察を行った。ラフィングブッダ信仰の生成に中心的な役割を果たしたのは、中国製の大量生産品である小さな布袋像である。そもそもグローバルに展開する風水ビジネスのメイン商材として国内に持ち込まれたこの塑像は、スリランカ風水ビジネス特有の販売戦略(グッズ販売の重視、宗教色の排除、中国イメージの強調など)と、既存の物流網を利用した仏具店や雑貨店等による大量販売により、風水ビジネスの文脈を離れ、招福招財の「かみさまらしきもの」として、ただし「縁起由来の定かならぬもの」として市中の人びとの関心を呼ぶことになった。この塑像のまわりにどこから始まったとも知れぬ雑多な宗教的実践(「並べた貨幣の上に祀る」、「塑像のおかなを3回さわる」といったものから「巡礼地における立像の建立」まで)が形成されていったのである。考察では、こうした宗教的実践がスリランカのローカルな宗教的実践・知識を媒介とした創造的受容であることを論じるとともに、ラフィングブッダ信仰生成に至るプロセスを「パッケージ化/脱パッケージ化」の対概念で分析することで、諸要因のグローバルな分散状況を浮き彫りにすることを試みた。質疑では、「パッケージ化」概念の分析上の意味範囲の限定の問題をはじめとする有益なアドバイスをいただいた。事例自体の有する多文脈性と生成プロセスにあずかる諸フローの地理的分散状況とを如何に立体的に描出するか、考察を進めたい。



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「MINDAS 2014年度第2回合同研究会」報告 研究会報告
■ 一覧

日 時:

2014年7月19日(土)、20日(日)

場 所:

国立民族学博物館4階 第1演習室

発表者:

発表1

松川恭子(甲南大学文学部 准教授)
 「地域的想像力の故地への環流:ボンベイのゴア人コミュニティ形成と演劇ティアトルの発展」


発表2

小牧幸代(高崎経済大学地域政策学部 教授) 
 「現代インドのテーマパークにおける商品としてのイスラーム:アドラブズ・イマジカの事例を中心に」


発表3

福内千絵(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科研究員)
 「近現代インドにおける「ナショナル・アート」の生成:ラヴィ・ヴァルマーをめぐる言説から」



概 要:

発表1


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  本報告では、19世紀から20世紀にかけてのボンベイ(ムンバイ)におけるゴア人コミュニティの形成と、演劇ティアトルの誕生と発展およびゴアへの活動拠点の移動について考察を行った。

  19世紀後半から20世紀前半にかけて、インド各地で近代演劇成立の動きがあった。カルカッタ、ベナレス、ボンベイで新しく生まれた演劇には(1)西洋の演劇伝統とインドのサンスクリット劇・民衆劇(folk theatre)の出合いと様々な発展の形、(2)公共の劇場での上演とミドル・クラスの観客に対する啓蒙の役割、(3)独立運動と平行したナショナリスト的メッセージ伝達の役割という三つの傾向がみられる。サンギート・ナタックやパールシー演劇が出現したボンベイでは、20世紀に入るとヒンディー語で作られた映画の人気が高まり、劇場は演劇ではなく映画上演に特化していくようになった。

  ヒンディー映画がナショナルなメディアとして発展していく一方で、演劇の中にはローカルなコミュニティの「地域的想像力」発現の場として展開してくものがあった。ボンベイのゴア・クリスチャンの間では、都市における「視覚(ヴィジョン)」に訴える新たな大衆文化の発展と並行して、民俗演劇とは異なるティアトルという新たな演劇の様式が誕生した。ティアトルとは、主にゴア・クリスチャンによって演じられる、現地語コーンカニー語(Konkani)の演劇のことであり、ポルトガル語のteatro(演劇)が語源である。村落で実践されていたケル(kell)、ザトラ(zatra)がティアトルの源流として考えられている。その時々の社会問題を反映した物語を舞台上で展開し、幕間に現地語コーンカニー語の歌、カンタール(kantar、cantar)が歌われる。1892年4月17日の復活祭の日にボンベイのニュー・アルフレッド・シアターで、ルカジーニョ・リベイロ率いる有志たちにより、初めてティアトル劇が上演された。それは、イタリア・オペラの『イタリアの子供』をコーンカニー語に翻案したものだった。。

  その背景として、ゴア・クリスチャンの各地への移住の動きがあった。ゴア・クリスチャンは、旧宗主国のポルトガルだけでなく、ナポレオン戦争時(1799~1813年)にイギリス軍がゴアに駐留したことを契機に、ボンベイ、プーナ、カラチなどの英領インド各地及び東アフリカへと移動し、現地でコミュニティを築いてきた。アフリカ諸国の独立後のイギリスへの再移住、1970年代以降のオイル・マネーをターゲットにした湾岸諸国への流れ、2000年代の定住志向のイギリス、カナダなどへの動きなど、移住の動機は様々であるが、ゴア・クリスチャンの移動の流れは現在まで継続的に起こっている。ゴアという空間の歴史的形成と現在にとって、在外ゴア人の存在は大きな意味を持っている。

  ティアトルは、ゴア・クリスチャンの自己表象とともに伝統的なゴア社会批判のメディアとなっていった。1930年代から70年代までの50年間がボンベイにおけるティアトルの黄金時代だった。自由な表現の様式は、1961年までポルトガル支配下にあったゴアでは検閲により難しいものだったが、ボンベイのティアトル劇団がゴアで公演することで故地にも伝えられた。そして、ティアトルにおけるゴア社会批判の様式は、ティアトルの中心地が1980年代以降にゴアに移ることによってゴアにおいて現代的な社会問題をテーマとするなどの形で更に発展していくことになった。

 本報告では、主にボンベイのゴア・クリスチャン・コミュニティの間でティアトル劇が都市演劇や映画の発展と並行して形を整えていき、「ゴア・クリスチャンとしてあること」を表現する媒体として1960年から1970年代に最盛期を迎えることとなった経緯を考察した。ボンベイのティアトル劇団のゴアへの出張公演や1980年代から1990年代に中心地がゴアに移動した後の変化については十分に論じられなかった。現在のティアトルは、ロンドン、湾岸諸国への出張公演など、国境を越えた動きがある。劇のテーマとして、グローバリゼーションの進展から生じる問題(たとえば観光産業の発展に伴うドラッグや児童買春)が扱われる、湾岸諸国やロンドンへの出張公演の数が増加するといった変化がみられる。このような点を踏まえ、故地ゴアへのティアトルの環流がどのような変化を伴ったのかを明らかにしていくのが今後の課題である。


発表2


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  2013年4月18日、ムンバイ近郊のコーポーリー市に、「インド初の国際基準のテーマパーク」として「アドラブズ・イマジカ」が堂々オープンした。ボリウッドの大手映画配給会社アドラブズ・エンターテインメントが、総工費約290億円と4年の歳月をかけて完成させた大規模な豪華娯楽施設である。本発表では、このテーマパーク内の2つのアトラクションに観察されるイスラーム的要素に注目し、そこで確認される商品としてのイスラームのあり方の考察を通して、現代インドの娯楽産業における自文化/他文化の表象・演出の仕掛けを浮き彫りにしようとした。

  「世界に通用するインドの物語」をテーマに掲げるアドラブズ・イマジカにおいて、シュリー・デーヴィーとアニル・カプールのコンビで1987年に大ヒットしたボリウッド映画「Mr. India」をフィーチャーしたアトラクションや、インドの雄大な自然と伝統的な祭礼・建築物を「鳥瞰」するアトラクション、ヒンドゥー神話、そしてインド中世史を題材としたアトラクションは目玉商品となっている。とはいえ、広大なパークはインドだけでなく、ヨーロッパ、アジア、アメリカ、アフリカ、アラビアという全部で6つのエリアで構成されており、それらは順に、ヨーロッパがエンターテインメント・ショー、アジアが3D映画、アメリカは絶叫マシーン、アフリカはエスニックな雰囲気と恐竜の時代、アラビアが千夜一夜の世界として表象され演出されている。

  世界をこのように分類する発想とそれぞれのイメージおよびアトラクションとのマッチングが、平均的なインド人の世界観を反映しているのかどうかの判断は難しいが、本発表で注目したいのは、アラビアとインドの両エリアにおけるイスラーム・イメージである。いずれも4人掛けのコースターに乗って、薄暗い窟の中にゆっくりと吸い込まれていく。アラビア・エリアの「アリババと40人の盗賊」は、盗賊たるムスリムを標的にしたシューティング・ゲームである。インド・エリアの「サリームガルの呪い」は、ムガル朝第6代皇帝アウラングゼーブの残虐行為を題材としたホラーハウスである。先述の「世界に通用するインドの物語」のポジティヴな側面が広大な国土の雄大な自然美と豊かな民族文化の視聴、荘厳なインド神話の体感、ボリウッド映画の追体験であるのとは非常に対照的である。

  イスラモフォビアが疑われるアトラクションに、私は「いやな感じ」を覚えたが、パークマネージャーの言説は、自分自身がムスリムでありながら、それに対して平常心・無関心を示すものであった。だが、この種の平常心・無関心こそ、きわめて政治的な意味合いをもつといえないか?日常と非日常を分離できる人間こそ現代的でスマートだという風潮、宗教と政治を切り離せてこそ先進的だとする意識は、一見、穏健派のようだが、娯楽性を強調し前景化することで、眼前の敵意や悪意に気づかぬ努力を自らに強いているのである。この意味で、消費社会の暴力は、現実的な暴力よりも悪質かもしれない。

  これまでの人類学的研究において、宗教と観光の関係は聖地巡礼や世界遺産などの宗教施設の観光をめぐる宗教的体験の強調もしくは娯楽性の追求など、どちらかといえば二者択一的な側面に関する議論が多かった。それに対して本発表は、宗教の中の娯楽的要素ではなく、娯楽の中にちりばめられた宗教的要素を扱うものであった。

  各アトラクションの写真や動画、発表者による参与観察の報告とパーク関係者・観光客の語りの紹介をふまえ、研究会参加者からは、アトラクションを企画する側とアトラクションを楽しむ側で、やりとりされるメッセージが「正確」に伝わっているとは限らないこと、つまり発信者と受信者のあいだのズレに注意する必要のあること、またメッセージの受信者の性別、年齢、宗教などをはじめとした個々の背景の相違によってもメッセージ受容の仕方に違いがみられるはずであること、同テーマパークでは博覧会・博物館のような文化表象のあり方が注目に値すること等のコメントがなされた。発表者は、これらの貴重なアドバイスをもとに、今夏の現地調査計画を練り直し、本調査を実施したいと考えている。


発表3


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  本報告では、画家ラヴィ・ヴァルマー(Ravi Varma 1848-1906)をめぐる言説を跡付けることで浮かび上がる、インドにおける「ナショナル・アート」の様相について、近現代の長期的視座からの概略を述べた。

  報告者はインドにおける「ナショナル・アート」生成の流れを、大きく四つの時期に区分できると考える。

  第Ⅰ期は、19世紀後半、南インド、トラヴァンコール藩王国出身のラヴィ・ヴァルマーが西洋の絵画技法に出会い、習熟したインド人「Artist」として成功した時期である。ラヴィ・ヴァルマーは、イギリス人主導のサロン展での活躍する一方で、インド国民会議派との交流のなかでナショナリズムにおける「Art」の可能性を認識し、「インド」の多様性を包摂する表象を絵画化した。こうしたヴァルマーの画業への評価とともに、西洋から到来した「Art」という概念の普遍性が問われ始め、ベンガル地方の知識人や西洋オリエンタリストのあいだでは、はたしてインドの伝統文化には、西洋に対置できる「Art」があるのかという議論が活発になされた。

  第Ⅱ期は、20世紀初頭から1920年代にかけて、スワデーシーの高揚のなかで、ラヴィ・ヴァルマーへの批判が沸き起こり、ヴァルマーを超えた「ナショナル・アート」が提示された時期である。ベンガル地方の知識人によって、インド古典神話を題材としたラヴィ・ヴァルマーの絵画は、西洋の絵画技法に依拠したハイブリットなものであること、描き方も世俗的であるという点から、「真正なインド美術」ではないとして酷評された。そして、アバニンドラナート・タゴールをはじめとしたベンガル派の画家たちによって、「Indianness」とは何かが探求され、インドや東洋の伝統的な絵画様式から着想した「ナショナル・アート」が提示された。

  第Ⅲ期は、1920年代以降、それまで拘泥していた「Indianness」を超えて、真の「Art」とは何かが省察された時期である。モダニズムをはじめとした西欧の絵画動向への関心が高まるとともに、ベンガル派の絵画が否定され、前衛的な「Art」の実践が試みられた。ラヴィ・ヴァルマーの存在は、この時期のインド画壇からは消え去っている。

  第Ⅳ期は、1970年代以降、ラヴィ・ヴァルマー作品の歴史的意義が回顧され、インドの文化資源施策によって「ナショナル・アート」が再提示された時期である。国家の文化遺産登録・保護の動きのなかで、ラヴィ・ヴァルマーはインド美術史における近代の重要な画家として再び見出され、「National Treasured Artist」の一人として登録されるに至った。こうした国家による「ナショナル・アート」認定とアート市場とが結びつくことで、ラヴィ・ヴァルマーの価値が定着することとなった。

  参加者からは、「インド的」なイメージが形成された要因を解明することで、本研究が環流議論におけるアイデンティティー形成の考察につながる点を示唆いただいた。また、カルカッタとボンベイの画壇の違いに注意を払った上で言説を捉えることの重要性や、インドのモダニズム表現の検討の必要性、インド近代音楽史との比較の視点の有効性など、多くの有益なご意見をいただいた。それらをふまえて、今後はさらなる詳細な調査と考察を進めたい。


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「MINDAS 2014年度第1回合同研究会」報告 研究会報告
■ 一覧

日 時:

2014年5月10日(土)

場 所:

国立民族学博物館2階 第3セミナー室、第7セミナー室

発表者:

発表

David Trasoff (Lila Vihun Music)
 "Hindustani Music in America: The First Years"

コメント・討論

田森雅一 (東京大学・大学院総合文化研究科 )、岡田恵美(琉球大学教育学部) 
 




概 要:

発表


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  Musicians from royal Indian courts first brought Hindustani music to Europe. The Uday Shankar dance troupe performed in Europe and the United States in the 1920s and 1930s. In the 60s George Harrison of the Beatles popularized the sitar, and Ravi Shankar performed at the Monterey Pop Festival, Woodstock and (with Ali Akbar Khan) the Concert for Bangladesh. Alauddin Khan (1881-1972), the father and teacher of Ali Akbar Khan and the teacher of Ravi Shankar, wanted to see Indian music established in the west. Ravi Shankar popularized Hindustani music through thousands of concerts around the world. Association with Beatle George Harrison made “sitar” a household word in the United States.

  Dr. Robert Brown, a visionary ethnomusicologist, invented the term World Music and pioneered the teaching of non-Western music by master musicians. In the early 1960s he established the ethnomusicology program at Weslyan University; in the early 1970s the World Music program at California Institute of the Arts (founded by Walt Disney); and in the late 1970s the Center for World Music. In 1965 Robert Brown brought Ali Akbar Khan and other master musicians from around the world to teach in America as part of the American Society for Eastern Arts (ASEA) summer program in Berkeley California. After two years with the ASEA Ali Akbar Khan and his students started the Ali Akbar College of Music in 1967. The College had many students in the late 1960s and early 1970s. many students. The number of students declined in the mid-1970s but increased steadily from mid-1980s numbers forward. Ali Akbar Khan’s achievements were recognized when he received the MacArthur Fellowship and the National Heritage Fellowship in the 1990s.

  Ali Akbar Khan passed away in 2009. His son, Alam, is now the principal teacher at the Ali Akbar College. A digital archive of Ali Akbar Khan's teachings includes thousands of original compositions, audio recordings and videos of classes.

  Jazz musicians found a common interest with Indian musicians in improvisation, and some very successful collaborations resulted, including Oregon; Shakti with John McLaughlin and Zakir Hussain; and Ali Akbar Khan and John Handy.

  “New Age” music was a commercially successful genre from the 1960s - 1980s that linked influences from Indian music to yoga or meditation. It was a worldwide phenomenon, in the United States, Europe, and in Japan. Hit became a highly marketable charted commercial music, with stars and big profits.

  From the 1990s to the present has seen the rise of "American Kirtan," group chanting of Sanskrit-derived mantras. Practitioners use tabla and harmonium, but the music is based on Western pop music harmonic formulas and has no relationship to raga music. The performers and the audiences are almost entirely non-Indian. The genre is not really Indian musically, but is connected to India in peoples’ minds.


コメント・討論の様子


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北インド古典音楽コンサート


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「MINDAS 2013年度第4回合同研究会」報告 研究会報告
■ 一覧

日 時:

2014年2月10日(月)、11日(火)

場 所:

国立民族学博物館2階 第3セミナー室

発表者:

発表1

鈴木晋介 (関西学院大学・先端社会研究所 研究員)
 「現代スリランカにおける「路傍の仏堂」の増加について ―調査報告と予備的考察」

発表2

田森雅一 (東京大学・大学院総合文化研究科 学術研究員) 
 「インド音楽伝統と多様性の環流 ―インドとフランスを結ぶグローカル化の諸相―」


発表3

杉本星子 (京都文教大学総合社会学部 教授) 
   「アジア・アフリカ向け日本製プリントテキスタイルの輸出とインド商会」



概 要:

発表1


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  2000年代に入る頃より、スリランカでは小さな仏堂が次々と道端に建造されている。この「路傍の仏堂(Budu Madura)」増加現象を如何に捉えるべきか、本発表では中央州キャンディ県での短期集中調査による成果報告と報告者による予備的考察がなされた。

  「路傍の仏堂」、その殆どは何気ない生活の場にひっそりと佇んでいるもので、多くは近隣住民による共同出資で建造されている。日に三度のブッダ・プージャーがなされ、道行く人びともそっと拝んで通り過ぎていく。傍目には、特段どうということもない「仏堂のある風景」と映る。しかし、報告者が調査地キャンディ市とその周辺で網羅的に行った調査では、全域で84棟ある「路傍の仏堂」のうち、約75%は2000年代以降に建造されたものだった。道端に仏堂のある風景はごく新しいものなのである。

  報告では、仏堂の形態と建造パターンの分類、建造の担い手や建造目的に関するインタビュー結果など基本事項が概観されたのち、この増加現象を3つの文脈に結んで理解する予備的考察が展開された。第1の文脈は、シンハラ仏教の展開であり、19世紀後半の仏教復興運動で醸成された仏教浄化ないし仏陀一仏信仰という思考と実践形成の強力な磁場とその延長上の「再呪術化」という展開に、この仏堂増加現象を捉えるものだ(議論ではObeyesekereや杉本良男氏が指摘した仏堂の路傍展開第1波(1950年代)との対比的検討がなされている)。第2は仏像と呪力の結びつきを強く促したとみられる2004年インド洋津波という文脈(特に「三叉路」の場所性をめぐって)、そして第3の文脈として提示されたのが、仏堂の増加時期と重なる「生活全般の断片化」という事象であった(「海外出稼ぎの増加」や「葬儀ホール」の事例などを元に、共同性の再構築として仏堂増加を捉える視角が提出された)。

  研究会参加者からは、事象全体の背景を整合的に捉えようとする水準とは別に、(特に文脈3の仮説妥当性をめぐって)個々の事例へのより微視的な着眼からの立論の必要性が指摘され、また、仏堂の管理や女性の関わり方など、事象の細部に至るまで他の地域や時代との比較的視点からのコメントがなされた。研究会での有益な示唆を受け、報告者は今後のより入念な現地調査を継続していきたいと考えている。


発表2


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  本報告は、インドとフランスという国家的な枠組みを超えたインド人音楽家たちの近年の諸活動に焦点をあて、「グローカル化する世界でのインド音楽伝統の再生産をめぐる問題」についてローカルでミクロな視点から検討する試みの一環をなしている。

  本報告では、1960年代以降のインド音楽の世界的な認知拡大に果たしたアラン・ダニエルーとユネスコの貢献、フランスにおける文化政策と地域振興がインド音楽の受容に果たした役割など、インド音楽のグローカル化の背景にある動向との関連を視野に入れつつ、インドとフランスを結ぶインド伝統音楽のグローカル化の諸相について検討した。

  より具体的には、1980年代前半に北インド・ラージャスターン地方のジャイプルからフランスの地方都市アンジェに渡った、当時無名のハミード・ハーンの音楽活動とカーストを超えたムサーフィルというグループの形成が、ラージャスターンの音楽世界に与えたインパクトについて検討した。さらに“ムサーフィル・モデル”を継承・発展させているグループとしてラージャスターン・ルーツに注目し、ムサーフィルとの比較を行った。

  インド国内のローカルな社会関係のなかで劣位に置かれてきた世襲音楽家たちは、かつても今も自分たちの技芸を披露する新たな活動の場と経済的機会を求めて活動している。1960年からのインド伝統音楽のインターナショナル化、1980年代からのワールド・ミュージック化、そして今日のグローバル化の流れの中で、ミーラースィーと呼ばれるムスリムの世襲音楽家たちの中には、自らの演奏活動の場を海外に求めた者たちがいる。彼らの活動は、インドと海外を往復し、異文化の先進社会でインドの伝統音楽・舞踊を披露し、海外の音楽家たちとのセッションを通じて外貨を獲得するだけにとどまらない。西洋流のアレンジ手法やグループ編成などに習熟し、現地の言葉を学び、聴衆の嗜好性などを察知し、音楽プロデューサーやオーガナイザーなどとの独自のネットワークを築くようになる。そのなかには、インドからの招聘音楽家(Guest Musician)という立場を越えて、自らのグループを率い、伝統的な楽曲の新たなアレンジや音楽家の人選、出演料の交渉や配分を行うようになった者もいる。そして、インドに帰国した際の社会経済的な優位性を背景に、異なるカースト・コミュニティの優れた音楽家をリクルートし、インターカースト的なグループ構成による新しい形態の音楽活動を行うようになる。そのような成功例は一つのモデルとなり、新たなグループの生成を促進させることになる。

  このような現象は、クロスカルチュラルな音楽交流が生み出す「多様性の環流」として捉えられるが、それはナイーブな脱埋込化の一方向的な循環として捉えられるものではない。交流の相手先、すなわち異文化の「輸出先(地域社会)」の音楽に変化を与えると同時に、インド国内の「輸出元(地域社会)」にも環流され、ローカルな音楽伝統と社会関係に変化を生み出していると考えられる。


発表3


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 近代の日本経済において、繊維産業は重要な基幹産業であった。1970年代の為替レートの切り上げと2度のオイルショックそして1985年のプラザ合意による円高誘導による輸出減少に至るまで、日本の繊維産業の特徴は輸出主導型にあった。

 日本製プリントテキスタイルのアジア・アフリカ向け輸出は、①19世紀後半から20世紀初頭にかけての絹製ハンカチーフやスカーフの輸出とアジア・アフリカ市場への進出、②戦間期の絹から綿・化繊へという素材の転換とアジア・アフリカ向けプリント製品の市場拡大、③戦後の復興とアジア・アフリカ向けプリントテキスタイルの輸出再開と現地市場席巻と、大きく三期に分けられる。そのいずれの時期においても、インド商会、インド市場、インド商人ネットワークが果たした役割は大きい。

 明治期の絹製品は、ほとんどが外国商社を介して輸出されたが、なかでもインド商会は大きな数を占めていた。在日インド商会のなかで繊維を扱っていたのは、主にシンド商人である。日清戦争後、日本各地で羽二重のほかに繻子、甲斐絹、琥珀など多彩な絹織物が生産されるようになったが、インド商人は、生産地の織屋と組んでこうした新たな織技術の開発にも関わっていた。やがてインドは、アメリカに次ぐ日本製テキスタイルの輸出先となった。また、インドは古くから海外に布を輸出し、布を扱うインド商人は世界各地に拡がっていたが、日本製テキスタイルはこうしたインド商人のグローバルなネットワークを介して輸出された。昭和5、6年ごろより、人絹織物も、在日インド商社によりインド、東南アジア、中近東、アフリカへ輸出されたことによって、生産は急成長を遂げた。

 戦後の復興と日本製プリントテキスタイルの輸出再開と輸出拡大の背景には、戦前からの在日インド商会の活動と彼らのネットワークを介した仕向け地との繋がりが指摘できる。1960年代、日本製化繊プリントサリーが、インドを始め世界各地のインド系住民の間でブームとなった。「ジャパン・サリー」は、まさにこのようなグローバルな布交易のなかで育まれた緊密な日印関係を象徴しているといえるだろう。


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「MINDAS 2013年度第3回合同研究会」報告 研究会報告
■ 一覧

日 時:

2013年10月19日(土)、20日(日)

場 所:

国立民族学博物館2階 第7セミナー室、第3セミナー室

発表者:

発表1

Abhijit Dasgupta (Delhi University 教授/ 国立民族学博物館外国人研究員(教授))
 "Affirmative Action and Identity Politics: The OBCs in Eastern India"

発表2

豊山亜希 (国立民族学博物館 外来研究員/ 宮城学院女子大学附属キリスト教文化研究所 客員研究員 )
  「大戦間期のインド建築における日本製マジョリカタイルの受容」
   ―シェーカーワーティー地方のハヴェーリーを中心に―

発表3

香月法子(中央大学政策文化総合研究所) 
   「イラニーから見たパールシー」



概 要:

発表1


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 教授自身の長年の研究に基づき、インド東部を中心とした後進諸階級(OBCs)への留保制度とその社会的・政治的影響に関する現状分析が加えられた。はじめにインドの留保制度や制度の後進諸階級への適用の歴史的経緯を瞥見された後、インド東部諸州、特に西ベンガル州、オディシャ州、ビハール州における現状が比較された。これらの州は互いに隣接しあっているにもかかわらず、後進諸階級にどのような集団を指定し、また彼ら/彼女らにどの程度の割合で就職や就学上の優先枠を設けるかという点で大きな違いが見られる。その背景には、後進諸階級への認定、特にムスリムの間での後進諸階級の存在を認めるかどうか、をめぐる各州でのアイデンティティ・ポリティクスの状況や州政権のイデオロギーの違いがあると考えられる。この現状分析を踏まえて、発表の最後においては、後進諸階級への留保制の今後に対する提言が述べられた。すなわち、留保制はアイデンティティ・ポリティクスと連関させると弊害が大きいため両者を切り離すべきであるが、そのためには古い統計結果だけにとらわれず、現状に関する現地調査を重視し、また制度の適用を地方分権的な方法に改めることが重要である。

 なお、この発表のセッションは、国立民族学博物館共同研究『ネパールにおける「包摂」をめぐる言説と社会動態に関する比較民族誌的研究』(代表 名和克郎・東京大学東洋文化研究所准教授)ならびに同『グローバリゼーションの中で変容する南アジア芸能の人類学的研究』(代表 松川恭子・奈良大学社会学部准教授)との共同で開催した。(文責 三尾 稔)


発表2


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 ラージャスターン州シェーカーワーティー地方は、植民地期に台頭し現代インド経済の発展にも大きく寄与する、商業集団マールワーリーの故郷として知られる。彼らは19世紀前半より植民地都市でブローカー業や貸金業を営み、得られた富で故郷にハヴェーリーと呼ばれる大邸宅を造営した。ハヴェーリーは前植民地期に盛行した王侯貴族の邸宅を規範とし、壁や天井には伝統に則り彩色画が施されたが、1920年代から30年代にかけては、多彩レリーフタイルと呼ばれる量産型の装飾タイルを壁面に施工することが新たに流行した。発表においては、これらのタイルが日本からもたらされたとの調査結果を報告するとともに、従来は工業製品が空間装飾に用いられることから非伝統的と批判されてきた、当該時期のハヴェーリーの造営意義について、日本製タイルの受容のあり方を踏まえて再検討した。

 ハヴェーリーのタイルが日本製と同定されるのは、施工箇所の剥落部分に残る裏型痕に、日本のメーカーが戦前期に使用した商標が確認されることによる。これら日本製多彩レリーフタイル(通称マジョリカタイル)表面の意匠はイギリス製品の模倣が少なくないが、『ラーマーヤナ』などのヒンドゥー神話に取材した複数枚のタイルからなるパネル画は、日本で独自に開発された製品として注目される。こうしたタイル・パネルの誕生は、日本のメーカーにインドの貿易商から、当時流行していた印刷複製絵画が製品見本として送られてきたことを端緒とする。それが製品化され反英の気運が高まるインド市場に輸出されると、イギリス製タイルのボイコット、ヒンドゥー神話画へのプロパガンダ性の付与、タイル建材がもつ衛生性という近代国家像と結びつき、ヒンドゥー・ナショナリズムの記号として、マールワーリーを含め民族運動を支持する富裕層に熱烈に歓迎された。こうしたタイル・パネルに飾られた大戦間期のハヴェーリーは従って、従来言われてきたように量産品を取り入れた伝統破壊の産物などではなく、民族資本家としてのマールワーリーの自己規定を表象する文化装置として、大きな歴史的意義をもつのである。


発表3


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 2000年頃に中国の山西省や陝西省においてソグド人のものと思われる墓が見つかったことで、最近のゾロアスター教徒研究は、これまでのゾロアスター教徒(インド系ゾロアスター教徒とイラン系ゾロアスター教徒)とソグド人の慣習の対比などがなされる傾向にある。

 しかしインドのゾロアスター教徒であるパールシーと、イランのゾロアスター教徒であるイラニーを同じゾロアスター教徒と見なすことに問題はないのだろうか。また最近の中央アジアのゾロアスター教徒の存在に対して、特にパールシーは強い拒否反応を見せている。だが一方のイラニーは、中央アジアの教徒の存在に対して、パールシーのような拒否反応を示していない。

 この反応の違いを考察するためにまず、パールシーとイラニーは、はたして同じ、ひとくくりに出来るゾロアスター教徒であるのか、という疑問について今回の調査を行った。調査は2010年から2013年に掛けて、インド(ムンバイ)、イラン(テヘラン、ヤズド)、パキスタン(カラチ)、アメリカ(ヒューストン、ダラス、シカゴ)で行った。イランを除いて世界のどの地域を対象としても、現代のゾロアスター教徒を研究しようとすると、ほとんどパールシーを対象とすることになるだろう。だがこれはイラニーが少ないとか、イラニーがパールシーとは別の集団だからというわけではない。彼らもパールシーとともにコミュニティ組織維持に活動している。しかしコミュニティの外から見れば、イラニーはパールシーより目立たず、閉鎖的で見えてこないのである。

 今回、イランでの調査も合わせて行うことが出来たことで、ようやくなぜ彼らがパールシーと融合せず、イラニーとして存続し続けているのか、明らかになりつつある。またイラニーを通してゾロアスター教徒を見ることで、これまで見えてこなかったパールシーの特徴も次第に見えてきた。今後は彼らの交流史にも注目し、両者の比較調査を続ける予定である。




カナダのタミル人コミュニティにおける南インド古典舞踊の実態調査   調査報告



■ 一覧

期 間:

2013年8月7日~15日

国 名:

カナダ(トロント市)

報告者:

寺田吉孝(国立民族学博物館)


概 要:

  オンタリオ州の州都であるトロント市には、約14万人のタミル人が住んでいるといわれる。彼らは出身地によりインド系とスリランカ系に分かれ、それぞれが個別のコミュニティを形成している。両者は、言語は共通するものの、移住の時期や経緯、カースト帰属や階層などが異なり、交流は比較的少ないといえる。市内には4つのタミル人集住地域があり、西部のミシサガMississaugaにはインド系タミル人が多いのに対し、東部のスカーボローScarborough、北東部のマーカムMarkham、北西部のブランプトンBramptonの3地域ではスリランカ系タミル人が多数派を占める。

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公演終了後、参加者は一人ずつ祝辞を述べプレゼントを渡す

  トロントではインド音楽・舞踊が極めて熱心に学習、上演されており、舞踊では南インド古典舞踊バラタナーティヤムの人気が特に高い。今回の調査では、バラタナーティヤムの学習、上演に関わる活動の実態について、主にアランゲートラムと呼ばれるデビュー公演を軸として調査をおこなった。元来アランゲートラムは、演目を一通り習得した踊り手のお披露目を兼ねて開く公演である。トロントのタミル人コミュニティでは、母国文化の継承を目的として子供たちに音楽・舞踊を習わせることが多く、女子の場合5~7歳で舞踊を習いはじめ、14~16歳でアランゲートラムを開くことが一般的である。近年、舞踊の習得を祝うという本来の趣旨は保持されつつも、親の経済力を誇示し、コミュニティ内における威信を高める手段の一つとしてアランゲートラムが盛大におこなわれるようになった。この傾向は、スリランカ系タミル人の間で特に顕著であり、競争が過熱するにつれコミュニティ内での社会問題ともなっている。このような状況は、舞踊や伴奏音楽の内容、師弟関係などにどのような影響を与えているのだろうか。

  今回の調査では、この実態を探るため、3つのアランゲートラム(スリランカ系2、インド系1)を視察し、踊り手と彼女たちの家族、舞踊教師、伴奏の音楽家らにインタビューをおこなった。インド系とスリランカ系のアランゲートラムの実施形態や内容には共通する部分も多いが、舞台進行、演目、衣装などに際立った違いが存在することが明らかになった。今後は、より高い技術と経験を有すると考えられているインド系教師に師事するスリランカ系子女が増えているため、両者の交流がどのような舞踊文化(芸態、演奏慣習、教授方法、社会関係など)を作り上げていくのかを見極めたい。


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会場の入り口で来場者を迎える
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踊り手の写真の周りにメッセージを書き込む


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公演終了後、師匠や演奏家たちと記念撮影
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スカーボローにあるタミル人のショッピングセンター(GTA Square Mall)


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アランゲートラムのリハーサル
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公演風景。下手のMCが1曲ごとに演目について簡単な解説をする


 

     ※写真をクリックすると拡大し、キャプションが表示されます。



インド音楽のグローバリゼーション
    ―フランスにおけるPIO/NRIの音楽活動とネットワーク―     調査報告



■ 一覧

期 間:

2013年8月7日~15日

国 名:

フランス(パリ市)

報告者:

田森雅一(東京大学・学術研究員)


概 要:

  インドに起源を有し、フランス本土で暮らすインド系移民(PIO)は約55,000人を数える。この数字は、イギリス、オランダ、ポルトガルに次いでヨーロッパでは4番目である。この他に、フランス在住インド人(NRI)が約10,000人おり、彼らの多くは1980年代以降にやって来たニューカマーである。インドとフランスを頻繁に行き来する生活が常態化しているインド人音楽家・舞踊家の多くは、このようなカテゴリーに含まれる。

  1980年代半ばから1990年前半にかけて、ミッテラン政権下のフランス政府が中心となるインド祭や各種の文化イベントが開催され、以後、数多くのインド人音楽家・舞踊家がフランスに招聘されてきた。また、1996年にはPIOのコミュニティが中心となって在仏インド人連合会が組織され、在仏インド大使館のホームページには様々な文化活動を行う団体の一覧が掲載されている。それらの団体の多くがインドから音楽家・舞踊家を招聘し、コンサートや教室を主宰している。

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Ud.Sayeeduddin Dagar

  今回の調査では、PIOの有力団体の一つであるGroupe de Réflexion Franco-Indienの代表ラリタ・バドリナース氏にフランスにおけるインド系移民の歴史や文化活動について、インド音楽・舞踊の常設小ホール・教室を主宰するマンダパのミレーナ・サルヴィーニ氏にフランスにおけるインド音楽の歴史について聞き取り調査を行った。また、1989年からパリ市を拠点としてドゥルパド(北インド古典声楽)のコンサートと教室を定期的に開催している、サイードウッディーン・ダーガル氏のワークショップに参加し、ダーガル氏本人、彼の活動をサポートする人々、ワークショップ参加者ら(フランス人、ベルギー人、中国人、日本人)と過ごし、彼らの国境を超えたネットワークなどについて調査を行った。さらに、パカーワジ(古典両面太鼓)のモーハン・シャルマ氏の個人授業に同席し、外国人への教授法や聴衆に応じた演奏スタイルの差異化などについて聞き取り調査を行った。

  自らの文化的アイデンティティのルーツをインド本国の音楽・舞踊に求めるインド系移民(PIO)に対し、インドから海外に渡る音楽家・舞踊家(NRI)の多くは、自らの実践活動の場の拡大とネットワーク形成に重きがある。そのような音楽活動は、外国人によって受容され他のジャンルに応用・融合されるだけでなく、音楽家自身の音楽展開と社会関係の両方に微妙な変化を与えつつ、インド本国の音楽世界に環流されてゆく。


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Workshop of Dhrupad
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Mohan Sharma, Pakhawaj lesson


 

     ※写真をクリックすると拡大し、キャプションが表示されます。




「MINDAS 2013年度第2回合同研究会」報告 研究会報告
■ 一覧

日 時:

2013年7月20日(土)、21日(日)

場 所:

国立民族学博物館2階 第3セミナー室


概 要:

 「現代インド地域研究」プロジェクト全体で出版を計画している叢書(シリーズ<現代インド>)の第6巻の内容に関する2度目の検討会を行った。

  今回の研究会では、「環流」をテーマとする第6巻の各章及び補論の執筆担当者が 事前に草稿を準備し、それに対して相互に意見交換を行った。第6巻の各編の方向性がより明確となったが、それはこのプロジェクトによる研究の着地点を確かめる 作業にもなった。

(文責 三尾 稔)

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「MINDAS 2013年度第1回合同研究会」報告 研究会報告
■ 一覧

日 時:

2013年6月1日(土)、2日(日)

場 所:

国立民族学博物館2階 第3セミナー室


概 要:

 「現代インド地域研究」プロジェクト全体で出版を計画している叢書(シリーズ<現代インド>)の第6巻の内容に関する検討会を行った。第6巻は「環流」をテーマとして、国立民族学博物館拠点の2つの拠点プロジェクト、及び京都大学拠点の研究プロジェクトの一部の研究成果に基づいた内容となる予定である。今回の研究会では、この第6巻の各章及び各補論の執筆担当者がそれぞれの章の論点や中心となる事例についての発表を行い、それに対する質疑応答や討論を行った。(文責 三尾 稔)

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「MINDAS 2012年度第5回合同研究会」報告 研究会報告
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■ 一覧

日 時:

2013年2月16日(土)、17日(日)

場 所:

国立民族学博物館2階 第3セミナー室

発表者:

発表1

小日向英俊(国立音楽大学) 「インド音楽・舞踊の日本における受容」

発表2

小尾淳(大東文化大学大学院博士課程)
  「タミル地方におけるマラーティー歌謡の受容
     -ナーマ・サンキールタナの現代的様相をめぐって-」

発表3

松尾瑞穂(新潟国際情報大学) 「代理出産の文化論」

発表4

田中鉄也(関西大学博士課程後期課程)
  「商業集団マールワーリーによるヒンドゥー寺院運営
     -二つのサティー寺院を事例として- 」



概 要:

発表1


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 本発表では、1. 主に戦後日本におけるインド音楽・舞踊の受容を歴史的に考察し、2.これを音楽多様性と音楽ハイブリディズムの観点から考察し、3.日本における南アジア音楽受容を、公的受容、私的受容、ネットワーク型受容の概念を用いてモデル化した。

 日本のインド音楽・舞踊の受容は、1950年代より始まる主に学術分野での受容(公的受容)、1980年代より始まる個人の興味に基づく受容(私的受容)、1990年代より見られ始めた混合型受容(ネットワーク的受容)とその結果であるハイブリディズムの進行への流れとして捉えられる。

 まず、通史的に日本人と外来音楽との接触を概観した後、インド音楽・舞踊の公的受容の例として、東京芸術大学で教えた音楽研究者、小泉文夫[1927-1983]の民族音楽学とインド音楽研究、および楽理科での教え子である表現者小杉武久[1938-]について報告した。1957-58年の南北インドへの留学で直接インド音楽に触れた小泉の業績と、その教え子が展開した音楽活動をタージマハル旅行団の例から紹介した。

 '80年代頃からの私的受容の例として、個人の資格でインドに赴き、インド音楽を学習した人々を紹介した。初期には北インドの伝統に限定されたが音楽ジャンルが広がったこと、伝統的様式の学習を長年にわたり継続する傾向があったことに触れ、音源も提示して考察した。彼らのインドとの出会いには、1960年代後半から1970年代初期におけるいわゆるカウンター・カルチャーと、公的受容から提示されるインド音楽情報の影響があった。90年代から、こうしたインド音楽受容者がさまざまな音楽ジャンルとの協働を進行させ、越境による他国の表現者とのハイブリディズムを進行させている。 本研究に関連するサイト
(http://kaken.musinglobe.com/kakentop/TOP.html)も参照のこと。


発表2


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 本報告は、近年、南インドのタミル地方で西インドのマラーティー歌謡の受容が顕著であることを受け、その歴史的受容過程を明示すると共に、受容要因を探るものであった。インドには神々の名を唱え、より大きな帰依の道に至るという信仰形態「ナーマ・サンキールタナ」がある。特にマハーラーシュトラ地方では、13-17世紀の宗教詩人たちによってヴィッタル神を讃えるアバング形式の詩が多く書かれ、キールタン様式が確立した。17-18世紀にタンジャーヴール・マラーターの成立に伴い、王権と結びついたキールタン歌手も多く南下した。キールタンはタミル地方の文化と融合し、現地のバラモンを担い手とする宗教芸能が成立した。今日まで、タミル地方におけるマラーティー歌謡の受容は宗教芸能の実践を通じて蓄積されてきたといえる。現代に目を転じると、特に90年代半ばから、2つの領域においてアバングの単独流行が顕著である。一つ目は宗教芸能で、これまで主流であったサンスクリット語やテルグ語の歌曲に代わり、アバングが積極的に導入され、盛大な「アバング祭」が開催されるまでになった。カリスマ的聖者とその弟子によってマハーラーシュトラ様式の寺院が次々にタミル地方に建立されるなど、宗教的な意図に基づく普及が推測される。二つ目は音楽界で、マハーラーシュトラ地方出身の古典音楽家によるアバング実践、テレビ番組の宗教歌謡コンテストなどを事例として挙げた。これらに共通しているのは手拍子や踊りなど、参加者の能動的な身体動作であり、アバングが他の歌曲形式に卓越して音楽的空間における「ノリ」を生み出しやすく、参加者を熱狂させやすい性格を有していることを指摘した。アバングの定義や構造の明確化、事例ごとの文脈の位置づけ直しなどを今後の課題とした。


発表3


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 今日、インドは商業的代理出産を求める生殖ツーリズムの中心地となりつつある。本報告は、インドにおける代理出産を、政治経済や倫理という点からだけでなく、インドにおける生命や科学、身体をめぐる文化現象の一つとしてとらえ、その受容の背景にある社会的、歴史的要因を考察する事を目的とする。

 インドでは商業的代理出産や提供配偶子を用いた体外受精など、他国では規制されている技術が比較的自由に、現場の医師の裁量で実施されており、これまでに25000人以上の子が代理出産で生まれているとされている。人身売買だ、女性の搾取につながるという社会的な論争はあるものの、報告者の調査では、おおむね技術は広く受容されており、宗教的かつ倫理的葛藤は現在のところそれほど顕在化していない。こうした現状を理解する一つのキーワードとして、「ヴェーダ科学」というものがある。

 「ヴェーダ科学」とは、近代科学の発見はヴェーダの時代にすでに存在していたとする、ヒンドゥーナショナリズムと結びついた思想である。例えば、古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』には、王や英雄の生命の誕生にまつわる多くの逸話が登場するが、それらのいくつかは代理出産や体外受精を意味していると解釈されている。したがって、生殖医療規制法案の作成委員会のメンバーや、生殖医療にたずさわる産婦人科医師らによっても、しばしばこうした技術はインド人にとって新しいものではなく、古代から存在していたゆえに、否定されるものではないという論理が導き出されることがある。

 また、30~35%という体外受精の成功率は、医療技術の不確実性を示しており、最終的には神の領域に属するものだと考えられている。いかなる科学技術も、最後に決定するのは「神」であるならば、自然に反したものだとはみなされないという点で、科学を内包した広い自然観、世界観が見いだされるのである。本報告では、代理出産に反対するファトワを出しているイスラームと比較して、より近代的で科学的なヒンドゥーという自己像を構築するヒンドゥーナショナリズムと連動する政治的プロセスのなかに生殖医療の展開を位置づけて理解する必要があると指摘し、インドの「伝統」が現代の科学を正当化する社会的装置となっていることを示した。


発表4


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 本発表では、ラージャスターン州シェーカーワーティー地方を出自とする商業集団マ-ルワーリーによる二つのサティーマーター(サティー女神)寺院の比較検討を通して、植民地期に胎動し100年に及ぶそれら寺院運営の意義を報告した。調査対象の寺院は、ラージャスターン州ジュンジュヌー県ジュンジュヌー市にあるラーニー・サティー寺院(Śrī Rāṇī Satījī Mandir)と、同県ケール村に存するケーリヤー・サティー寺院(Śrī Śakti Dhām Keḍ)である。前者はマールワーリーの代表的カースト、アグラワールのジャーラーン・リネージの女神(Kul Devī)を祀った寺院であり、後者にはアグラワールのケーリヤー・リネージの女神が祀られている。ともにリネージ出身の篤志家たちを中心に組織された公益法人が運営している。

 まず本発表では両法人の組織化の端緒である1910年代に注目した。それは英領インドにおいてカースト(またはリネージ)を単位にした社会改革運動が隆盛を迎え、各コミュニティで結集が始まった時期である。特にマールワーリーは積極的に「カースト族譜」を編纂し、再定義されたコミュニティの「歴史」を発信していた。この族譜編纂とコミュニティの「発現地」におけるクル・デーヴィー寺院の建立事業は相関的に実施されている。例えばラーニー・サティー寺院では、1912年に寺院建立のための基金が募られ、17年に建築が開始された一方で、60年代にはジャーラーン家の族譜が編纂された。他方でケーリヤーでは、まず20年代は族譜編纂など結集のための事業が優先され、寺院建立は94年まで据え置かれた。

  興味深いことに90年代前後には、同じくラーニー・サティーを祀った寺院が、同女神の発現に関わる二つの地(ハリヤーナー州ビワーニー県内)で建立されている。90年代からのクル・デーヴィー寺院の建立は何を意味するのだろうか。発表者は、「故郷」から移住してすでに3-4世代目を迎えようとするマールワーリー内で進む世代間の差異に着目した。彼らは、コルカタなど「移住先」で生まれた新世代であり、「故郷」で生まれた第1-2世代のようにそれとの身体的関係性を持たない。従って、彼らと「故郷」との関係性を「再創造」するために、その拠点となるクル・デーヴィー寺院の建立が喫緊の課題となったのではないだろうか。マールワーリーのコミュニティ・アイデンティティを再鋳造し、精錬する場として、近年建立されたこれらの寺院は、その意味で重要な役割を担っている。


「MINDAS 2012年度第4回合同研究会」報告  研究会報告
■ 一覧

日 時:

2012年10月15日(月)13:00~16:00

場 所:

国立民族学博物館 第6セミナー室

報告者:

報告1

B.Balasubramaniyan(声楽家、米国ウェスリヤン大学非常勤助教授)
“Indian Music in North America: History and Current State”

報告2

Dr.Nair Achuthan Raman Unni (ブーゲンビリヤ音楽院、作曲家)
“Deteriorating Usage of Indian Classical Music in Popular Music Culture”


概 要:

報告1

 The classical and traditional arts of India have reached a wider audience in the west and thanks to Indian immigrants, who migrated since the mid 20th century. Just like other immigrants, Indians celebrate their music, food and follow their religious practice wherever they settled in. The United States is home to about 1.6 million Indian immigrants, making them the third-largest immigrant group after Mexican and Filipinos. Many factors involved in bringing up Indian music and dance to the west. They are:

  1. Concert tours by the eminent musicians from India
  2. Indian music programs in the American Universities
  3. Indian organizations in the US

 Ali Akbar Khan, a sarod maestro was the first to perform North Indian Hindustani music in the US. He toured with the famous Western violinist Yehudi Menuhin in the mid 1950s. Pandit Ravi Shankar’s contribution to Indian music and to the world is remarkable. With his extraordinary sitar playing he took Indian music to international level and he also collaborated with George Harrison of Beatles band and Yehudi Menuhin. Together Ravi Shankar and his brother Uday Shankar, performed all over the US and Europe. Ravi Shankar produced few albums with world musicians and he was awarded Grammy award twice.

 As far as South Indian Classical Karnatak music, Mr.Balakrishna of Trivancore was the first to perform, teach music and yoga. He was the first recorded artist in Karnatak music in the US for the album produced by Folkways in 1957. Then the bharatanatyam ensemble consisting of three remarkable musicians led by the legendary dancer T. Balasaraswati(Bala) came to US for the concert tour in 1962. Bala and her two younger brothers T.Viswanathan(Viswa) and T.Ranganathan(Ranga) contributed astonishingly to promote bharatanatyam and Karnatak music in North America. All three conducted intensive summer school program at Wesleyan in 1962 and their students still performing here and there. Ranga became the first visiting artist in the world music program at Wesleyan University in 1963, Viswa joined at Wesleyan in 1975 as an Adjunct faculty. They both established South Indian Music program and produced non-Indian musicians. Jon Higgins, a student of Viswa and Ranga became the first non-Indian performer of Karnatak music. He was also a great scholar and his PhD dissertation focuses on the bharatanatyam dance music. Viswa started the famous navaratri festival at Wesleyan in 1976, and which is the kind of festival happened out side India and this tradition still continuous. Here is the link for Wesleyan Student performance.
http://www.youtube.com/watch?v=lwdDm3UO5WM

 In the scholarship side, Harold S Powers did a monumental research in Indian Raga System. Robert E Brown, Lewis Rowell and many other non-Indian music scholars have contributed to Indian music research. Wesleyan University and York University of Canada offers practical and research courses in Indian music.

 Indian language based organizations and cultural groups are regularly conducting music programs and lecture demonstrations. Among them, the Cleveland Tyagaraja Aradhana festival is the mighty one. This festival happens every year during March-April and is stretched to ten days. More than fifty artists come from India to perform every year. In this festival the local talents and the second generation American born Indian children participate and perform.

 Besides the classical music interest among the Indian immigrants, Indian pop and film music are also very popular in the United States. All top ranking film singers and music composers come to the US and Canada to perform on special occasions like Deepavali and Tamil, Telugu New Year.

 Since the Indian population in the United States is increasing fast, there is always a demand for music performance and cultural activities.


報告2


“Deteriorating Usage of Indian Classical Music in Popular Music Culture” is one of the outcomes of my research conducted on the Popular Music Culture in India.

As a Film Music Research Scholar, having watched, observed and analyzed hundreds of Indian and International Films, it becomes indispensable to study and analyze the changes in the entire medium, the Film Media; in order to understand and conclude any observation made with regard to the Music alone.

Cause and Effect:

Bringing forth the three important reasons and its effect/impact on the Popular Music Culture:

-Globalisation which triggered technological advancements in to Film Music Production, bestowed tailor made rhythm and melody structures in the form of software with which Music composers (Indian Cinema) design and arrange their music rather than creating original scores or compositions. 

-A considerable percentage of Film Songs are shot in foreign locations, irrespective of the story or the sequence in the film, merely to increase the commercial value of the film. Therefore, a song sequence shot in rich exotic locations does set a demanding upbeat tempo song rather than a classical or a folk based melody. (Indian Popular Music (Film Music) synonymous to songs.

-The Indian Film Music Industry has expanded its viewership and listenership across the globe, Popular International Production companies also invest in Indian Film Production, due to which there is a prominent paradigm shift in the genre of films being produced which has a direct and proportional relationship with the genre of Music incorporated.

It cannot be completely ridiculed that present day Music Composers do not utilise the Indian Classical Music genres for their Compositions, there are Music Directors who have and who are attempting to present to the audience a judicious blend of the Indian flavours with the western rhythm patterns.  Although, the Nature and the style of the story / subject of the film decides the percentage of Music genres adapted in the Film.

Dr. Nair Achuthan Raman Unni
ark.musiccomposer@gmail.com

 





国際会議
International Conference on Foodways and Heritage: A Perspective of Safeguarding the Intangible Cultural Heritage
(食文化と遺産に関する国際会議:無形文化遺産保護の展望)での報告 調査報告



■ 一覧

期 間:

2013年1月2日~1月5日

国 名:

中華人民共和国・香港

報告者:

松川恭子(奈良大学)


概 要:

  今回の出張の目的は、国際会議International Conference on Foodways and Heritage: A Perspective of Safeguarding the Intangible Cultural Heritage(食文化と遺産に関する国際会議:無形文化遺産保護の展望)への参加だった。本会議は、香港中文大學(The Chinese University of Hong Kong)と香港文化博物館(Hong Kong Heritage Museum)の主催によって2013年1月3日・4日の2日間にわたり開催された。

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香港文化博物館(Hong Kong Heritage Museum)

  私は、1日目の第3分科会Southeast Asian Foodways Reinvention(東南アジア食文化の再創造)で”Xitkoddi (Rice and Fish Curry), Comunidades and Ramponkars: Goan foodways in transition”と題した報告を行った。本報告では、以下の点を明らかにした。インド・ゴア特有の食として有名なのは、酸味の効いたポーク・ヴィンダルー・カレー(Pork vindaloo curry)やケーキの一種ベビンカ(bebinca)であり、グローバルに消費されている。ただし、これらはゴア・クリスチャンの食である。クリスチャンに留まらないゴアの様々なコミュニティ全てにとって重要なのは魚カレー(xitkoddi)である。魚カレーを作るために必要な米と魚を生産するのに、ゴア特有の生業形態が発展してきた。食文化を無形文化遺産として保全していく際に、調理法に留まらず、食を獲得するための生業形態にまで目を向ける必要があるが、その生業形態自体が変化してきている。ゴアにおける土地共有制度コムニダーデ(comunidade)と伝統的漁法に従事するランポンカール(ramponkar)を取り巻く状況の変化を紹介し、それらの変化を含めて無形文化遺産として考えていく必要性を指摘した。参加者から、「ゴア料理」とゴア人アイデンティティの関係性について質問が出され、意見交換を行った。

  本国際会議では、中国、香港、マカオ、台湾、日本、シンガポール、ヴェトナムなど、アジア地域の事例報告が多かったが、アメリカやフランスの事例も紹介された。食文化を無形文化遺産として捉える際に、歴史や政治といった当該地域の文脈に加えて、グローバリゼーションの作用を無視できないのは、どの報告においても明らかだった。インド関係では他に、Mohsina Mukadam博士による”Hindu Upharagriha: Preserver of culinary tradition”と題された報告があった。ムンバイにおける、ヒンドゥー教徒バラモンの食文化継承の場としてのウパラグリハ(upharagriha)の重要性に着目した報告だった。


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発表中の松川
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他の分科会のメンバーたちと一緒に

 

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植民地期インドにおける商家建築の装飾様式に関する調査
    ―東南アジアの植民地都市との比較から―     調査報告



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期 間:

2013年1月28日~2月20日

国 名:

シンガポール(中央地区)、

ベトナム(ホーチミン中央直轄市、ティエンザン省ミトー市)、

インド(タミル・ナードゥ州シヴァガンガイ県、西ベンガル州コルカタ県コルカタ市、

ラージャスターン州ジュンジュヌー県およびシーカル県)

報告者:

豊山 亜希(国立民族学博物館・外来研究員)


概 要:

  マールワーリーと呼ばれる商業集団は、19世紀半頃からカルカッタなどの植民地都市で外国企業のブローカーとして財をなし、故郷であるラージャスターン州シェーカーワーティー地方にハヴェーリーと呼ばれる邸宅を盛んに造営した。それらの多くには壁画装飾が施され、従来のハヴェーリー研究はその図像解釈を主要課題としてきた。

  報告者はハヴェーリー研究を進める過程で、従来は壁画が形式化したとして看過されてきた1920年代以降の造営例に、日本製タイルが壁面装飾として使用されていることを確認した。さらに同様の日本製タイル装飾の事例が、タミル地方や東南アジアにも存在するらしいことが分かった。そこで今回の調査においては、ハヴェーリーやアジア各地の建築が日本製タイルによって装飾された歴史的経緯を明らかにする第一歩として、インド、シンガポール、ベトナムを対象として踏査を行った。

  いずれの地域においても、日本製タイル装飾がみられたのは商人を建築主とする建築物であった。シンガポールの場合、プラナカン・コミュニティ、中国系コミュニティ、タミル地方出身の商業集団チェッティヤールに帰属する建築物がこれに該当した。中国系商人とチェッティヤールに帰属する建築物は、彼らが仏領期に進出したベトナム南部メコンデルタ地方にも現存し、当地のヒンドゥー教寺院、仏教寺院、集会所などに日本製タイルが確認された。インドにおいては、タミル地方のチェッティヤールの邸宅、シェーカーワーティー地方のハヴェーリー、そしてマールワーリーが経済活動の拠点を置いたコルカタの英領期の建築を巡見し、日本製タイル装飾の事例を多数収集することができた。また、調査を行った各地の商家建築のうち、19世紀半頃から20世紀初頭までに造営されたものには、イギリス製やフランス製のタイルが頻繁に使用されていたことも明らかとなった。

  タイルという新建材は当初、植民者によって各地にもたらされ、在地社会の新興商人を中心に受容が拡大していったと考えられる。日本のタイル工業は、第一次世界大戦後にヨーロッパのタイル工業が一時的に衰退した時期にアジア市場に進出し、ヨーロッパ製品に取って代わったとされる。しかし単にヨーロッパ製品の代替品として受容されたわけではなく、例えば今回インドにおいて少なからず確認された、ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー(1848-1906)の絵画作品を複製した12枚1組の組絵タイルは、ヨーロッパ製タイルにはみられないタイプの製品であり、日本のタイル工業が輸出先それぞれの嗜好性を反映した製品開発を行っていたことを示唆している。

  こうした結果を踏まえて、今後の課題として1)日本製タイルが両大戦間期にヨーロッパの帝国経済網で結ばれたアジア域内において流通したことを、データを用いて実証していくこと、2)アジア各地における日本製タイルの受容実態について、それぞれの建築様式や美術の動向を踏まえて個別に実証していくこと、3)タイルの主な受容層であった新興商人が、植民地期の美術様式の展開にどのような役割を果たしたのかを明らかにすることが挙げられる。さらに、日本製タイルが当時の日本経済の帝国主義的な意図を超えて、それを受容した各地域において、ヨーロッパ製品の不買行為やモティーフの持つ意味の共有などにより、新たな意味を与えられた可能性についても考察していきたい。


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シンガポールのカトン地区にあるプラナカンの邸宅建築群。2階部分や門扉にタイル装飾がみえる。
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インドのタミル・ナードゥ州アタングディにあるチェッティヤールの邸宅建築、通称アタングディ・パレスの広間。ドラヴィダ様式の寺院建築とヨーロッパのバロック建築の折衷的影響がみられ、1階部分にタイルや色ガラスが用いられている。


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ベトナムのホーチミン市内にあるSri Thenday Yutthapani(現地表記ママ)寺院の本殿。日本製タイルで埋め尽くされている。
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インドのラージャスターン州ファテープルにある通称ゴーエンカー・ハヴェーリーのファサード。印刷複製画をイメージソースとする壁画装飾と日本製タイルが並存している。

 

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南インドのポピュラー・カルチャーとナショナリズムの関係についての調査研究   

調査報告



■ 一覧

期 間:

2012年12月15日~23日

国 名:

インド(タミルナードゥ州)

報告者:

杉本良男(国立民族学博物館民族文化研究部)


概 要:

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タミル映画「スンダラパンディヤン」の監督、プロデューサー、俳優

  インド、タミルナードゥ州マドラス(チェンナイ)では、毎年国際映画祭が開催されてきたが、今回は第10回を迎えて規模が拡大し、最近1年間の間に製作された世界57カ国からのべ160本の映画が上映された。インド映画に関しては、インド国産映画製作100周年にあたり、各種言語による古典的な名作が上映され、また、タミル映画部門では、12本の最新作によるコンペティションも行われた。
  21世紀に入り、ハリウッド映画のイマジネーションが枯渇するとインド映画に救いをもとめたが、ヒンディー語中心のいわゆるボリウッド映画はやはりその突破口をタミル映画に求めている。タミル映画は1950年代から、M.G.ラーマチャンドランとシヴァジー・ガネーサン、ラジニ・ガーントとカマラ・ハーサンの2組のライバル関係にあるスーパースターの時代から、監督も俳優も若い才能が輩出して、ドラスティックな世代交代期を迎えている。
  このようなときに、前時代までのヒーロー中心の映画づくりから、ステロ化されたヒーロー像とはことなる新しい主役を中心にした、脱ヒーロー映画とでも言うべきトレンドが目についた。そこでは、主人公は若い女性にモテたくてモテたくて仕方ないのにふられ続けたり、お定まりのハッピーエンドにはならなかったりで、比較的リアルな描写が目立っていた。それは1950年代に流行した貧乏をこれでもかと描くリアリズムとは別種のリアリズムといえるだろう。コンペで1位となったVAZHAKKU ENN 18/9は警察、裁判所、弁護士がグルになっての不正を被害者の側から描いた硬派の映画であったが、最後のシーンで小さな光明をみせたことが高評価につながったのかもしれない。

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閉会式(スハーシニ(左端)、アミターブ(右から3人目))

  映画祭の閉会式には、インド最大のスーパースター、アミターブ・バッチャンが出席し、表彰式なども行われたが、受賞者よりも授賞者のアミターブにばかり注目が集まって、さながらアミターブのワンマン・ショウであった。70歳を超えてさすがに衰えは隠せないように見えたとはいえ、アミターブの人気いまだ衰えずである。名匠マニ・ラトナム監督夫人のスハーシニが実質的なプロデューサーで奔走していたが、大盛況のうちに閉幕した。
  民博での映画会のお世話をしてくださっている旦匡子氏は、ボリウッド映画がタミル映画界を取り込んで、ヒンディー語版もつくることを前提にした新たなシステムができつつあると指摘しておられた。それは地方色を薄めた標準化された「インド映画」というジャンルへの一歩なのかもしれない。このとき、地方ナショナリズムとの深い関係を保ってきたタミル映画が、全インド的ナショナリズムとどのように関わっていくのか注目しなければならない。


 

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ケーララ州北部に伝わる神霊信仰の脱領域的な拡がりに関する調査   

調査報告



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期 間:

2012年8月31日~9月25日

国 名:

インド(ケーララ州コチン市とカンヌール市、およびムンバイ、デリー)

報告者:

竹村 嘉晃(国立民族学博物館・外来研究員)


概 要:

 調査日程は次の通りである。8月31日に大阪発(シンガポール経由)の便でケーララ州コチン市に到着。コチン市での調査後は9月4日に列車でカンヌール市に移動し、その後は13日にムンバイ、19日にデリーへ飛行機で移動した。復路は、9月24日にデリー発(シンガポール経由)の便で帰国した。
 今回の調査の目的は、ケーララ州北部で広く行われているローカルな神霊信仰のムッタッパン祭儀が、近年、州外の都市部や国外で暮らすマラヤーリー人(ケーララ出身者)コミュニティの間でも盛んに奉納されている事象に注目し、その実態を祭儀の実践者とコミュニティの関係者の双方から把握することであった。コチン市では関連する資料収集と文献調査を行った。カンヌール市では、州外や国外でムッタッパン祭儀を行った実践者たちへ聞き取りを行い、ローカルな文脈で行う祭儀との相違を検証した。また、州外・国外への出稼ぎ経験者にも話を聞き、出稼ぎ先での彼らの生活状況や日常的な宗教実践について把握した。ムンバイ、デリーでは、ムッタッパン祭儀を定期的に奉納している複数のマラヤーリー人コミュニティのなかでも、ムッタッパン・スワミー寺院運営員会のメンバー(ムンバイ)とシュリ・ムッタッパン・セワ・サミティの関係者(デリー)らに面会し、コミュニティの歴史や祭儀を奉納するに至った経緯、祭儀の様子などについて聞き取り調査を行った。
 現段階において、2000年以降顕著にみられるムッタッパン祭儀の脱領域的な拡がりの動向をグローバル化という枠組みで捉えるには留保が必要である。むしろその実態は、人の移動にともなうローカリティの再編あるいは新たなローカリティの創発というべき様相を呈している。今回の調査から明らかになったのは、州外の大都市部や中東湾岸諸国で暮らすマラヤーリー人たちは、同郷者とのネットワークや集いの場を構築していく過程で、ムッタッパン祭儀のような宗教的実践や芸能をその契機にしている点である。すなわち、一見するとムッタッパン祭儀の脱領域的な拡大には信仰のグローバル化という側面が強調されがちだが、実際には、当該社会でのコミュニティ形成あるいはローカリティを再編する手段に用いられているのである。また、メディアの発展によって、SNSやインターネットなどを通じてネットワーク形成が容易になり、祭儀の組織や連絡、周知活動が円滑に進むようになったことも祭儀奉納を促す要因となっていることが明らかになった。


 



西インドにおける聖地のコミュニティ変容に関する現地調査   

調査報告



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期 間:

2012年8月6日~8月31日

国 名:

インド(マハーラーシュトラ州)

報告者:

松尾瑞穂(新潟国際情報大学講師)


概 要:

 マハーラーシュトラ州の北西部に位置するトランバケーシュワルは、12のシヴァ派寺院のひとつであるトランバケーシュワル寺院を有する、中世から栄える聖地である。トランバケーシュワルから25キロほど離れたナーシックには、『ラーマーヤナ』のラーマが沐浴したとされる沐浴場があり、トランバケーシュワル近郊の丘陵地はハヌマーンの生地だという伝説が残っている。このような長い歴史を持つこの土地は、マラーター王国の歴代王権の庇護のもと、寺院の建設や寄進が進められてきた。在地のバラモン司祭集団の多くが移住してきたのも、王権とのかかわりにおいてである。と同時に、聖河ゴダヴァリがもう一本の川と交わる交差地(ティールタ)でもあるトランバケーシュワルは、ワーラナーシーやアヨーディヤなどの他のティールタと同様、祖先祭祀儀礼の中心地となってきた。
 しかし、これまで長らく、トランバケーシュワルは由緒あるとはいえ、マハーラーシュトラのローカルな一聖地に過ぎなかった。祖先祭祀儀礼を専門に執り行う司祭集団は、200家ほど存在するが、マラーター王国滅亡後、王権の庇護から離れた彼らも司祭職だけで食べていくことが難しく、農業をしたり、都市に出て、司祭職とは異なる職種に就いたりすることも多かった。それが、1990年代以降、ナラヤン・ナーグ・バリ儀礼という3日間にわたる祖先祭祀が、主に北~西インドの都市部に住む中間層の人々の間で人気を得るにつれ、いまではすべての司祭家がこの儀礼に従事し、大きな経済的利益も得るようになっている。人口1万人たらずの小さな田舎町に、今日では年間何百万人もの巡礼者が訪れるようになっている。それとともに、聖地としてのトランバケーシュワルは大きな変化を迎えている。
 私は、2004年以降断続的にこの土地を訪れ、祖先祭祀儀礼の調査を行ってきた。これまでの私の関心は、この儀礼を行う人びとの目的と属性を調べることを通して、このような儀礼の復興と流行が、インドにおけるいかなる社会変化と関係しているのか、ということであった。この祖先祭祀儀礼は、家族の問題、特に男児の誕生に関わるとされており、調査により巡礼者の約半数は、子宝を求めて儀礼を行うという特徴が明らかとなった。しかし、それ以外にも家庭内不和や、人生で生じる様々な問題(ex.結婚や就職難、家族の死亡など)の解決が期待されてきた。 巡礼者を中心としたこれまでの調査を踏まえ、今回の調査では、「宗教産業(Religious industry)」というキーワードのもと、いかに宗教が地域の経済的、文化的資本として社会変容の原動力となっているのか、ということを調査した。そのための予備的調査として、①在地司祭集団の戸別調査、②トランバケーシュワル寺院の参道の露店と市場調査、③ホテル、宿泊所の調査、④町役場の都市開発計画の調査、を行った。そして、今回は初の試みとして、ナーシックにあるKTHMカレッジ・社会学部の修士学生と講師の5人をリサーチ・アシスタントとして依頼し、チームを組んでプロジェクトを遂行することとなった。特に、在地司祭集団である全ての氏族を調査し、トランバケーシュワルの宗教産業を担う主要なアクターのコミュニティについて基本情報を網羅的に入手することができたのは、今回の調査の大きな成果である。依然として不十分であるが、今後は、今回の調査で得られたデータを分析し、さらに発展させるため、同地域の他カースト、他集団のデータとあわせて、現代インドにおける聖地の動態について明らかにしていきたい。


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写真1 参道から望むトランバケーシュワル寺院
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写真2 シヴァ派寺院のトランバケーシュワルにはインド全土からサドゥーがやってくる。トランバケーシュワル最大の地主は、サドゥーの組織(Aakhada)である。


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写真3 ナラヤン・ナーグ・バリ儀礼の様子
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写真4 マラーター王権から寺院管理権を託されてきたジョグレカル家でのインタビュー(リサーチ・アシスタントとともに)

 

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インド人世襲音楽家一族のグローバルネットワークと音楽活動  

調査報告



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期 間:

2012年8月16日~9月3日

国 名:

フランス(ロワール地方・アンジェ市、パリ市)

報告者:

田森雅一(国立民族学博物館・外来研究員)


概 要:

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アンジェ城

 2012年8月16日に自宅を出発し、8月17日深夜に日本を出国、同日早朝にフランス・パリ市に到着した。さらに同日中に、ロワール地方の古都アンジェ市に移動。8月18日~8月26日まで、同市にて北インド・ラージャスターン州ジャイプル市出身の音楽・芸能を世襲的職業とする一族の若手音楽家6名の音楽活動に関する調査を行った。

 彼らの父や伯父たちと同市との結びつきは1980年代前半に遡り、一族のある者は今日もインド(ジャイプル)とフランス(パリ)を頻繁に行き来し、音楽演奏やフランス人にシタールやタブラー(打楽器)を教授することで生計を立てている。

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カッワーリーコンサート1

今回の6名の若手音楽家たちは、イスラーム神秘主義の歌謡であるカッワーリーの歌唱とサントゥール(打弦楽器)やタブラーなどの器楽演奏のため、同市を中心とするロワール地方での音楽祭等に招聘されており、報告者は同市での一連の演奏活動(リハーサル・練習等を含む)すべてに同行し、寝食をともにする中での参与観察と聞き取り調査を行った。彼らは訪仏中のコンサートやリハーサル等の合間を縫って、スカイプなどを活用し、アメリカに暮らす親族や南アフリカ在住のパトロンなどと連絡を取り合い、You Tubeなどで音楽に関する情報収集を頻繁に行っていた。また、新たな演奏機会の獲得やネットワーク作りにも余念がない。

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報告者と練習風景

また、8月27日から31日までは、同市を基盤とするフランス人音楽家やマネージャーたちへのインタビューを行った。彼らとインド音楽との出会いやインド人音楽家たちとの交流の歴史等について語ってもらうことにより、1990年以前に遡るグローバルなネットワーク形成の契機やおよびクロスカルチュラルな音楽活動のあり方の一端が明らかになった。
9月1日早朝にパリに移動。同日、パリに暮らすインド人音楽家のアパートを訪れ生活調査を行った。9月2日に離仏し、予定通り3日に日本に帰着した。


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カッワーリーコンサート2
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サントゥール


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練習風景
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練習風景2


 

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インドとタイの宗教施設を訪れる -ディアスポラのインド系宗教との関連を踏まえて-  

調査報告



■ 一覧

期 間:

2012年8月16日~9月4日

国 名:

インド(タミルナードゥ州ティルッチラーッパッリ、マドゥライ、チェンナイ)、
タイ王国(バンコク都)

報告者:

山下博司(東北大学大学院国際文化研究科教授)


概 要:

 まずタミルナードゥ州中部の都市ティルッチラーッパッリ(ティルチ)に入り、近郊にあるというアッルール村を目指した。そこにヒンドゥーの寺院司祭を養成する学校があると、今年5月にマレーシア連邦ジョホール州のタミル寺院を訪れた際、司祭から情報を得たからだ。調べるうち、SOASのC. J. Fuller(The Renewal of the Priesthood, 2003)が調査した学校だということに思い当たった。しかし村の場所がつかめない。よほど小さな村なのか、辺鄙な場所なのか、地元の人にも見当がつかない。幸いタクシーの運転手同士で情報交換をしてくれ、所在地らしき場所をつかんだ。着いた小村は長閑なアグラハーラム(バラモン居住区)。しかし肝心の学校は閉校していた。6年前に校長が死去したという。村には黒ヤジュルヴェーダ系のバラモン学校(写真①)もあると知って、そちらを訪ねた。ナヴィヤニヤーヤを修め博士号を得たという学者肌の校長と学生たちから詳しく話を聞くことができ収穫だった。
 ティルチ地域では2カ所のアンマン(女神)寺院も比較調査した。非バラモン司祭が営むヴェッカーリヤンマン寺院と、バラモンが営むサマヤプラム・マーリヤンマン寺院。どちらも大寺院で、女神の寺に信者が殺到する金曜日だったため、驚くほどごった返していた。  マドゥライ市では非バラモン司祭が主神をあずかる郊外の男神パーンディムニの寺(写真②)を訪れた。海外のタミル人ディアスポラにも名の轟く寺院だ。訪問の日は大きな祭事もなく、主司祭と管理者の妻が快くインタビューに応じてくれた。インドでは珍しいことに、主神像を含め自由に写真とビデオの撮影することを許してくれた。マドゥライ近郊のティルッパランクンラムにあるバラモン司祭養成校(写真③)も取材した。先述のアッルール校の出身者が営んでいる。5年コースになっていて、192人もの少年が在籍し、5名の教員が教育に当たっている。
 チェンナイではロヨラ大学に旧知の先生(マドラス大の元総長)を訪ね、日系企業に勤めるインド人たちからもよろずの情報を得た。アダィヤール地区では、ヴェーラーンガンニ教会(写真④)で修道女と面会するとともに、ヒンドゥー寺院2カ所も見て回った。 帰路はバンコクに立ち寄り、タミル系女神寺院とスィク教のグルドワーラを取材した。後者は大きなビルになっており、宗教施設としてだけでなく、現地のスィク教徒たちの集う場所として、コミュニティ・センターの機能も果たしている様子を実見し得た。


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写真① アッルールのヴェーダ学校にて(N.Y. Seshadri博士とご家族、学生たち)
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写真② パーンディムニ寺院(マドゥライ近郊)の主神と非バラモン司祭


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写真③ マドゥライのアーガマ学校(Sri Skandaguru Vidyalayam)の生徒たち
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写真④ 増築・改修工事の進むチェンナイのヴェーラーンガンニ教会

 

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「MINDAS 2012年度第3回合同研究会」報告  研究会報告
■ 一覧

日 時:

2012年9月27日(木)16:30~18:30

場 所:

国立民族学博物館4階大演習室

報告者:

報告

鎌田由美子(早稲田大学高等研究所)
「グローバルな商品としてのインド絨毯と日本の祭礼」



概 要:

絨毯研究はイスラーム美術史の重要な研究分野のひとつで、ペルシア、トルコ、中央アジアの絨毯が中心的に研究されてきた。インドの絨毯では、おもに17-18世紀に北インド、ムガル朝のもとで織られたものが研究されてきた。しかし、近年のデカン美術の研究の進展とともに、デカン(インド南部)で織られた絨毯が注目されるようになった。このタイプの絨毯を研究するのにあたって鍵となるのが、デカン産であることが指摘される、京都祇園祭で懸装品として使われている絨毯である。本発表では、世界各地の絨毯を調査したときのデータ、また貿易資料ほか各種史料を手掛かりに、それらが本当にデカン産であるのか、類例が世界にどれほど残っているのか、どのような状況でこのような絨毯がデカンで生産され、世界各地で用いられたのか、なぜ、日本の祭礼に用いられたのか、考察した。その結果、

① ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のデカン産絨毯との比較から、京都のインド産絨毯のなかにデカン産の絨毯があることを確認した。さらにデカン産と考えられる絨毯が長浜や、ポルトガルやイギリスをはじめ、世界各地に残っていることを示した。
② 17世紀以降、コロマンデル・コースト産のインド更紗が、東インド会社によってグローバルな商品として世界各地を流通したが、エロールなど、コロマンデル・コーストに近い場所で織られたデカン産絨毯もまた、17世紀後半以降、デザインや質をコントロールしやすい商品として、ペルシアや北インド産の絨毯以上に流通し、イギリスやオランダの東インド会社や私貿易商人の活動によって世界各地に運ばれたと考えられることを示した。
③ デカン産絨毯には、ペルシアの要素、北インド(ムガル朝)の要素、デカン独自の要素が見られ、それらの要素が融合して独特の様式をなしており、同様の傾向が、近年明らかにされてきた、デカンの建築や絵画にも見られることを指摘した。
④ 日本に残る、デカン産と考えられる絨毯のデザインは、欧米に残るデカン産と考えられる絨毯のデザインとは異なっており、日本人好みのものがもたらされていた様子を指摘した。
⑤ 京都祇園祭や長浜曳山祭を担う富裕な商人たちは、山鉾や曳山を、国内外の染織品で飾ったが、18世紀以降には、インド、とくにデカン産の絨毯を懸装品として用いた。その背景として、それらが国内をどのように流通していたかについても考察した。

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「MINDAS 2012年度第2回合同研究会」報告  研究会報告
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日 時:

2012年7月19日(木)16:30~18:30

場 所:

国立民族学博物館

報告者:

報告

工藤正子(京都女子大学) 「パキスタン系移住者ネットワークにおける日本 ~日本人女性との家族形成を中心に~」



概 要:

 パキスタンからは英国や中東諸国をはじめとする国々への広範かつ多様な海外移動の流れが見られ、送金や連鎖移民、縁組などで多層的につなぐ移住者ネットワークが形成されてきた。本報告では、こうしたパキスタンからの海外への移動とディアスポラ形成のなかで1980年代以降の日本への移動に焦点をあてて考察を行った。1980年代後期には好況期にあった日本に向かう出稼ぎ者が急増し、1990年代には日本人女性と結婚し、中古車輸出業を中心とするビジネスを起業するパキスタン人移住者がふえた。こうした国際結婚の夫婦の一部には、日本人の妻と子どもが海外(パキスタンまたは第三国)に移住し、パキスタン人の夫が日本を拠点にビジネスを継続するという、国境をこえた家族の分散が見られる。報告の後半では、こうした家族形成の背景にある複合要因として、次世代の教育戦略(とくに英語教育)や宗教的、文化的なジェンダー規範を中心に議論した。これらの国際結婚による家族形成の様相は、多様かつライフサイクルの進行とともに動態的に変化している。報告の最後に、こうしたトランスナショナルな家族において、今後、パキスタンの合同家族の再編、日本の妻方親の高齢化などと連関しつつ、「家族」や「つながり」の概念がいかに再構築されていくのか、また、そうしたコンテクストでムスリムとしての宗教的アイデンティティがいかに再形成されていくのかなどの諸課題を提示した。




「MINDAS 2012年度第1回合同研究会」報告  研究会報告
■ 一覧

日 時:

2012年6月16日(土)13:00~17:00

場 所:

国立民族学博物館4階大演習室

報告者:

報告1

ヴァルヴァラ・フィルソヴァ(国立民族学博物館) 「在日するインド商人ディアスボラ」

報告2

前島訓子(名古屋大学) 「生きられる「仏教聖地」―「聖地」構築への社会的影響」


概 要:

報告1

 

インド人の移住とインド人の国外ディアスポラを対象とした論文はたくさんある。研究者の注目を集めているのは、その歴史と現状、さらに将来1000万人を超えると予想されるインド人の人口移動の動向が世界経済にどのような影響を与えるかなどである。

本報告は在日のインド人社会を中心としたフィールド・ワークで集めたデータに基づいている。フィールド・ワークの期間は2011年の9月から2012年8月31日までで、主な調査地は神戸である。そこに集中して住むオールド・カーマー・インド人を中心に調査した。

報告の前半ではインド亜大陸から日本への移住の歴史を紹介した。インドの商人が日本に現われるようになったのは1870年代頃のことであり、来日の目的は日本の絹とインド木綿の商売だった。その後インド人の数が増えていき、最初は横浜で、あとには神戸でインド人のコミュニティが設立された。第二次世界大戦の時、インド人の数は一時的に激しく減少したが、戦争が終わってからまた元に戻った。しかし、1980年代末から現在まで、インド人で商業に従事している人の数は減少する一方である。

報告の後半では、現在、在日するインド人の経済活動と彼らの日常生活に関して報告した。ビジネスに関して取り上げた話題は、在日インド人の職業構成、円高状況のなかでビジネスの見込み、ローカルとグローバルのネット・ワークの形成とその維持管理、そしてそのメリットなどについてである。

最後に、日本に住み続けているインド人はどのような生活をしている事例が多いのかを検討した。その際、彼らの宗教的、社会的な活動、日本語能力、日本社会との交流などを基に考察した。他方で、日本で生まれ育ったインド人、あるいは数10年間日本に滞在しているインド人であっても、彼らは自分が外国人であるという感じを抱いていることが明らかになったが、その理由についても分析した。

インド人と日本は歴史の時どきにおいて、いろいろな点でお互いを必要としてきた。今日の世界的な金融危機の中でも、それは変わらず、ビジネスの形態などは変化しても、インド人のディアスポラと日本はお互いの繁栄のために調和的な関係を築き続けるだろうと考える。


報告2


本報告は、仏教最大の聖地として知られるブッダガヤを事例に、「聖地」の動態的プロセスの一端を議論するものであった。インド発祥の仏教が13世紀頃に姿を消して以来、ブッダガヤを含むインド各地に点在する仏教建造物の多くが長らく遺棄されていたということは周知の事実である。いわば仏教徒に忘れられていた仏教の地の中でも、ブッダガヤは、今日にかけて、仏教徒が祈りを捧げる宗教的な場所としての篤いまなざしを集め、さらに仏塔が2001年に世界遺産登録を受けることで観光地としてもますます注目されるようになっている。

本報告が注目したのは、独立前後から今日に至るまでの、16世紀ごろから次第に絶対的な力を持つようになったヒンドゥー教のシヴァ派の僧院(Math)のMahantの社会的影響力とその変化である。これまでMahantは、同地域の仏塔の所有者であったことから、当時それを問題視する仏教徒との間で緊張を繰り返し、その緊張の歴史の中で取り上げられてきた。ところが、Mahantの地域的影響力については十分に取り上げられてきたとは言い難い。本報告は、ビハール州の中でも屈指の地主であったMahantの地域支配のあり様と、その影響力の減退を論じ、支配の減退に伴う社会の弛緩が、ブッダガヤがグローバルな世界的舞台へと登場していく中で、観光化へと水路づけられていくプロセスを論じた。

結論として提示したのは、ブッダガヤが国内外の関心を惹きつける宗教的な場所へと変貌する場所の宗教的展開と、その社会の支配とその影響力の減退および社会の弛緩に伴う観光化の進展との関係の中で、「仏教聖地」の現状がその都度、築き上げられているという点である。



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