国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

石毛直道館長・栗田靖之教授・杉田繁治教授 退官記念講演会

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2002年3月19日開催

石毛直道館長 退官記念講演会

食べるお仕事 石毛直道

講演風景 まえおき
近頃、この講演とおなじタイトルの『食べるお仕事』という本を出版しました(新潮社 2003年1月)。題名はおなじでも、これからお話しする内容は別で、この本と重複することはすくないはずです。
退官記念講演では、長年の自分の研究を回顧する話をするのが普通のようです。しかし、わたしは自分のことを語るのが苦手です。シャイな人間で、照れ屋なのです。自分のことをしゃべるのは、親しい友人たちと酒を飲んだときくらいのもので、人前で自分の人生に関わるような話をすることを避けてきました。

わたしは、「食の文化」という古典的な民族学からはみ出したような仕事をしてきたので、研究の発表も文化人類学=民族学の学会とはちがう場でおこなうことがおおいのです。そこで、「わしら、おまえのやってきた仕事は、ようわからん。この機会に、ちっとは、おまえが研究者としてどんな人生を歩んできたのかしゃべっておけ」という人がいます。
「そんなことをしゃべるのは、かなわんな、と思ったりしたけれども、今日はちょっとだけ本音のおしゃべりすることにいたします。

「おもろい」が原動力
数年前、NHKのTVインタビューをうけたときのことです。アナウンサーが「最後に石毛さんの座右の銘を聞かせてください」と質問をしました。とっさに、「座右の銘などもたないことを座右の銘としています」と逃げたことを覚えています。
なにか自分の人生を律するようなスローガンを掲げて、それに縛られた人生を送るのは、わたしにとってかなわんことです。一つの目標をめざして生きるのではなく、その時どきのおもしろいことをして、人生という時間を消費するのが、わたしの性にあったことです。
人生を何事かを達成する「生産の時間」とは考えずに、「消費の時間」として生きているのです。時間をおもしろいことをするために消費し、その副産物として、結果としての生産ができたらもうけものだと思っているのです。
このような、チャランポランな人生観をもつわたしにとって、しいていえば、関西弁で「おもろいことをして時間をすごす」というのが、座右の銘であるということになりますか。
残念ながら、「おもろい」ことばかりで人生を過ごすことはむずかしいようです。たとえば、わたしにとって博物館長という仕事は、かならずしも「おもろい」ことの連続というわけにはいきませんでした。

しかし、研究者としてのわたしの仕事は、「おもろい」ことばかりやってきたつもりです。わたしは研究の原動力は「おもろい」ということにあると信じています。
もちろん、自分は「世のため、人のために役立つために研究をしている」という研究者たちもいます。
国立の大学や研究機関を独立行政法人化し、税金を使用しておこなわれる研究にたいしては、その研究がどれだけ日本国家に貢献するか、国家の研究投資にたいしてどれだけ効率的であるかを基準に、研究を評価するというのが、現在の政府の方針です。
このような事態においては、「世のため、人のため」役にたつから研究をするのだという説明は説得力をもちます。
しかし、すぐには応用がきかず、実用に生かすわけにはいかない基礎研究といわれる分野があります。基礎研究には、きわめて長期間の研究時間が必要ですし、それでいて研究が成功するかどうかわからないことがおおいのです。基礎研究とは、国家の利益のためにする研究ではなく、人類の知の世界の拡大のためになされるものです。われわれの従事する文化の研究もおなじです。
成果がすぐ目にみえ、国益につながり、ソロバン勘定にあう研究にくらべると、文化の研究はすぐには「腹の足しにならない」し、投資効果が見えずらいものです。人の心の豊かさをつくりあげる文化というものは、短期的なソロバン勘定にはあわないものです。
21世紀の世界において尊敬される国家とは、軍事大国でも、経済大国でもない。文化大国である。ソロバン勘定にあわない文化に投資する国家こそ、将来の世界で尊敬される国家になるであろう・・・・・といったことを、わたしは主張し、新聞や雑誌にも書いてきました。効率化を錦の御旗にする行政改革の一環としておこなわれる独立法人化の体制においては、文化の研究が冷や飯を食わされるであろうとの危機感をいだいているからです。
文化の研究のように、効率化が困難で、短期的には役立たずの研究に従事する研究者の本音は「おもろい」から研究しているのだ、ということになります。
わたしは、幸いなことに境遇に恵まれ、その時どきの「おもろい」ことばかりして研究生活を送ることができました。

では、わたしにとって「おもろい」ことはなにかといえば、「人のやらないこと」であります。また、自分にとって「おもろい」ことを研究の対象にしてしまうことであります。たとえば、わたしはパチンコ好きの人間ですが、好きなことは研究対象にしてしまうということで、ひと頃、パチンコの研究をしたことがあります。そうすると、パチンコ屋にいくのも「調査」という名目をつけることができます。さすがに、調査費を文部科学省に申請するわけにはいかず、ポケットマネーによる調査でしたが(「パチンコ ─ 遊びのなかの仕事」 守屋 毅編 『現代日本文化における伝統と変容6 日本人と遊び』 ドメス出版 1989年)。
「人のやらないこと」が、わたしの「おもろい」ことである理由には、わたしが学生時代、学術探検を志したことに関係をもちます。探検家としてのわたしの仕事としては、西ニューギニア中央高地の未探検地域での調査、リビア砂漠縦断がありますが、探検とは「人の行ったことのない場所に出かけて、情報をもち帰る」ことです。そのことが、「人のやらないことに興味をもち、フィールド中心主義」のわたしの学問のやり方に影響したもののようです。

物質文化と民族誌
民族学の研究者としてのわたしは、物質文化の研究からスタートしました。現代人類学では、世界的に物質文化 ─ モノや道具 ─ の研究は不人気です。かつては、物質文化が歴史民族学の文化伝播論の材料に使われたりして、研究者もおおかったのですが、世界的にみても社会人類学などに研究者が集中し、物質文化の研究は半世紀以上ふるわないのです。
わたしは、学生の頃考古学を専攻したので、物質文化の写真をとったり、スケッチや実測図を描いたり、簡単な測量をして地図をつくることなどのトレーニングをうけています。
そこで、長期間の民族誌的なフィールド・ワークをおこうときには、物質文化の調査と生活様式を調べることからはじめます。
物質文化を調べることは、民族誌的調査の最初の段階から着手することができます。まだ現地語が話せないときでも、目に見えるものを記録することが可能です。また、モノを相手とした、「これはなんだ?」という質問にも、警戒心なく答えてくれます。そして、モノを手がかりに、話がひろがっていくのです。そして、民族誌の基盤をなす生業経済や衣食住などの生活様式は、物質文化に深い関わりをもつ事柄です。
トンガ王国、西ニューギニア高地、タンザニアのサバンナ、リビア砂漠、ハルマヘラ島で、わたしは民族誌的なフィールド・ワークをおこないました。民族誌的調査というのは、調査地に長期間滞在して、なんでも調べることです。そんなとき、わたしは、このフィールドでは、これを調べるといった特定の調査テーマをあらかじめ決めておくことをしません。先入観なしに出かけて、どこでも、調べていたら、なんぞ「おもろい」ことが出てくるはずだ、という楽天主義に徹しています。

しかし、「おもろい」ことがみつかるまでには時間がかかります。みつかってから、あらためてそのテーマについて調べなおすには、時間がもったいない。そこで、「おもろいこと」の材料になるかもしれないと、なんでもフィールド・ノートに書きつけておくのです。
ある民族を徹底的に調べて、自分1人で1冊の民族誌を書きたいと考えていたのですが、それにはわたしは言語能力の才能がなく、また、調査地での滞在時間が足りませんでした。わかい頃は、1か所へ行って帰ったら、すぐ次の調査が待っているという状態で、1冊のエスノグラフィーをまとめることはついにできませんでした。わたしが、 かなり民族誌的記述をしたのが、民博のハルマヘラ島調査報告書です(石毛編 The Galela of Halmahera : A Preliminary Survey, SES7 国立民族学博物館 1980年)。

文化の比較
海外の発掘などに取りかかったら、一つの遺跡に何年も集中しなければならない。考古学をしていたのでは、世界をあっちこっち旅することはできないというので、民族学に転向した、わたしのことです。太平洋やアフリカで調査をしても、オセアニスト、アフリカニストといった地域研究者にはなりませんでした。生涯かけて一つの地域をふかく研究するのではなく、世界のさまざまな地域を体験したいという本音を実現する口実として選んだのが比較文化論の領域です。
文化の多様性を調べるとともに、文化のなかの普遍性を追求することが、民族学の課題です。そのためには、比較をすることが必要です。あちこちで民族誌的調査をしてきた自分のフィールド・ノートのなかから、同じような項目をみつけだし、並べてみる。それを比較して、違いと共通点をみつけて考察するというやりかたです。
わたしの調査した社会の例数はかぎられています。そして、比較をするときの基準にも問題があります。それでも、自分なりの比較は可能です。

幸いなことに、砂漠、サバンナ、熱帯降雨林、島嶼などさまざまな環境で、狩猟採集民、牧畜民、農耕民など、人類史のなかで展開した異なる生活様式の社会を観察する機会にめぐまれました。それらの社会で得たデータに自分でつくった物差しをあてて比較してみるのです。それは客観的な尺度ではなく、ノミナル・スケール(名目的尺度)での比較です。恣意的に作成した物差しでも、それなりに共通性と多様性を指摘することを試みたらよいのです。そのような文化の比較に関する方法論について考察した論文も書いたことがあります([比較生活学--方法論的アプローチ」 講座生活学1 川添登・一番ヶ瀬世康子編 『生活学原論』 光生閣 1993年)。
そのようなやり方で、自分の調べた8つの社会の住居と生活様式に関する民族誌と、その比較を考えた本が、『住居空間の人類学』です(SD選書 鹿島出版会 1971年)。そこでは、「人類にとっての住まいとはなにか?」という意味論的な研究を展開したつもりです。おなじように、台所道具に関する物質文化の比較から料理について論じた[台所文化の比較研究]という論文を書きました(『季刊人類学』1-3 1970年)。

食にとりくむ
従来、物質文化の研究対象とされたモノのおおくは、道具、容器、衣服、住居など、形態が長期間保持される耐久消費財的な性格の品物でした。博物館で収蔵・保存できるようなモノを対象とした研究が主流で、消費物資についての民族学的研究はすくなかったのです。
料理はつくってから、すぐ胃袋にいれられて、跡形がなくなってしまいます。しかし、料理材料である自然物に、人間が文化としての加工を施しているという点では、りっぱな物質文化であるはずです。従来、料理の研究はもっぱら調理学にまかされてきました。調理学は料理の技術にともなうサイエンスであり、文化としての料理の研究はすくなかったのです。民族学での料理の研究では、「料理の三角形」を提唱したレヴィ・ストロースさんが有名ですが、それは料理そのものの研究ではなく、文化一般を考えるさいのパラダイムとしての料理論であります。
わたしの癖で、食の文化的研究に民族学者があまり手をつけないので、それは「おもろい」、やってみようということになりました。やはり、研究を口実につかってのことです。食いしん坊で、料理をすることが好きなので、そのことを正当化するために、研究を看板につかったのです。
食にとりくむようになったのが、1970年頃のことです。当時の日本で食に関する文化の研究といえば、日本食物史を研究する人が数人いたくらいのことです。
その事情は世界的にもおなじで、1981年にオックスフォード大学で、世界で最初の食に関する文化の国際シンポジウムがありました。アジアから参加したのはわたし一人で、あとは北米とヨーロッパの文化人類学者、心理学者、歴史学者たちでした。それまで、おたがいに連絡をとりあうこともあまりなく、それぞれが自分の国で最初にこの分野にとりくんだ人間であると思っていたような状態でした。のちにこのシンポジウムが契機となり、Food & Foodwaysという国際学会誌が創刊され、わたしも編集顧問を務めることになります(現在休刊中)。

食文化研究の出発点
あたらしい研究分野の開拓をするにあたっては、その分野を規定する命題が必要となります。そこで、食の文化研究の出発点となるテーゼはなにか?ということを考えてみました。

わたしはアフリカ研究に従事したことなどをつうじて、若い頃から霊長類研究者と交流がありました。そこで、文化の根本的なことを考えるさいには、動物の行動にまでさかのぼって検討する癖があります。
「人間は火を使う動物である」、「人間は言語を使用する動物である」、「人間は道具をつくる動物である」・・・・など、文化をもった動物である人間を他の動物から区別するキャッチ・フレーズがあります。
もっとも、霊長類学研究の進歩にともない、霊長類と人間の行動が文化のあるなしで判然と区別されるものではなく、現在では霊長類にも文化の萌芽状態が存在することが承認されています。
動物と比較して、人間の食の文化を特徴づけることはなにかと考えてたどり着いたのが、「人間は料理をする動物である」、「人間は共食をする動物である」という二つのテーゼです。共食とは「共に食べる」ということであって、「共食い」と読まれたら困るのですが。
まず、[料理をする動物]について検討してみましょう。幸島の日本ザルの一頭が餌付けに配られた芋を海の塩水で洗って食べ、そのことが群れ全体にひろまったことが有名です。この芋洗い行動は、文化の社会的伝達の例とされてきました。食材を洗うことは料理作業の一部として人間に普遍的ですし、海水で洗うことによって塩味がつきます。味つけも料理にとって重要な要素です。ただし、この幸島のサルの例が、社会的学習によって伝達される「文化」であるかどうかについては、最近の研究では疑問が提出されているようです。
西アフリカのチンパンジーは、殻の固い堅果を石の台の上に置き、石や重い棒をハンマーとして使用して、殻を割る行動をすることが観察されています。これは霊長類学者たちの間で、チンパンジーが「文化」といえる行為をしていることの例証とされています。
道具を使って、切ったり、割ることは「料理」という作業の出発点である。チンパンジーには料理の芽生えが認められるといってよいでしょう。しかし、人間の料理という行為の中核部をなす火の利用は動物にみられないことです。
さて、「人間は共食する動物である」というテーゼについて考えてみましょう。それは、食料の分配に関わることです。
親鳥が餌をくわえてきてヒナ鳥に食べさせることをします。しかし、ヒナ鳥も成長して巣立ったら、自分で餌を探し、見つけた餌は自分で食べてしまいます。動物は原則として、成長したら、個体が食物を獲得し、それを個体単位に消費してしまいます。

チンパンジーの食物分配について、霊長類学者たちの報告があります。オスのチンパンジーが、狩りをして幼獣をつかまえたとき、おねだりをしたメスなどに、その肉を分配することが観察されているのです。しかし、いつも分配して食べるのが原則というわけではないし、固定した分配相手という関係が確立しているわけではありません。
それにたいして、世界中どの社会でも、人間の食事は共食が原則となっています。もちろん、旅先の食事や、単身生活をしていて一人で食べることはいくらでもあります。しかし、食事は一人だけで食べるものではなく、他の人と一緒に食べるものだというのが、世界の民族に共通しているのです。その、普遍的な共食集団は家族です。
といっても、家族の形態は社会によってちがうし、わたしが調べた社会でも、家族をこえた共食集団が形成されている例がみられます。たとえば、西ニューギニアの西部ダニ族は社会が二つの親族集団から構成される双分制の社会(モイティ)をつくり、一つの親族集団が一つの集落をつくっています。
一日一度の正式な食事の時は、集落の全員が一カ所にあつまり、核家族単位に持ち寄った食料を一つの地炉(earth oven)にいれて,共同炊事をして、分け隔てなく一緒に食べます。 しかし、正式な食事ではない食事---それぞれの家で料理をして食べる食事---も毎日なされ、そのときは核家族が共食集団となります。
わたしの知るかぎりでは、どこでも家族が最小単位の共食集団としての役割を担っているようです。それは、家族が食物分配の基本的単位であることをしめします。
1961年に今西錦司さんが『民族学研究』に発表した[人間家族の起源」という論文があります。そこでは、インセストを回避する社会単位であると同時に、食物分配の単位として家族が成立したと論じています。つまり、性と食が人間の家族をつくりあげたのです。
人類の祖先が狩猟をするようになったことに、食物分配と、それにともなう共食がはじまったのだと思われます。狩猟が男性の仕事とされることは世界の民族に共通します。初期の人類が狩人になったとき、男性がとった獲物を独り占めにせず、肉を持続的な性関係を結んだ特定の女性と、そのあいだに生まれた子供に分配するようになった、それが家族の起源と考えられるのです。
共食のさい、限りある食べ物を共食するとき、強い者が独り占めにしないように、食物を分配するルールができます。この食物分配のルールがもとになって、食事における「ふるまいかた」の規範が成立します。それが発展して食事作法となります。食物分配が食事作法の起源であると、わたしは考えています。
このような家族と食に関する研究としては、民博の共同研究で井上忠司さんと編集した報告書、『現代日本における家族と食卓--銘々膳からチャブ台へ』があります(国立民族学博物館研究報告別冊16 1991年)。

台所と食卓からの視点
「料理」と「共食」、つまり食物加工と食事行動の織りなす人間行動を研究対象とするのが、わたしのいう「食の文化」研究なのです。
わたしが「食の文化」、あるいは「食文化」の火付け役であるといわれるようですが、食文化の中核は「食事文化」にあると考え、自分の研究は、だいたいにおいて「食事文化」に限定しています。
食料資源の獲得にはじまり、胃袋におさめるまでの一連の行動における文化的側面が「食文化」であり、食料の入手にかかわる農学や、食料と人体生理にかかわる栄養学などのサイエンスと関わりをもつ広大な分野が「食文化」です。
そのなかでも、料理と食事行動において、もっとも文化的な性格があらわれます。それを、わたしなりのことば使いでは「食事文化」と呼んでいるのです。料理と共食、つまり台所と食卓から、食の文化的側面を考察する立場が「食事文化」なのです。
「料理をする動物」、「共食をする動物」とならんで、人間の食を特徴づけることに食料生産があります。人類史のある段階から、農業や牧畜を開始し、「人間は食料を生産する動物である」ということになりますが、ここでは時間の関係で、そのことには触れないことにいたします。
わたしの食に関する研究として、具体的にはさまざまなトピックを手がけてきました。学位論文になった魚の発酵製品--魚醤とナレズシ--の調査では、インド以東の東南アジア、東アジアのほぼ全域でフィール・ドワークをいたしました(ケネス・ラドルと共著 『魚醤とナレズシの研究--モンスーン・アジアの食事文化』 岩波書店 1990年)。
麺類の文化史的研究では、中央アジアやイタリアにも足をのばすなど、世界に広がる問題を手がけるの好きです(『文化麺類学ことはじめ』 フーディアム・コミュニケーション 1991年)。これも、わたしが旅が好き人間ということに関係をもつことです。

食べるお仕事
「食の研究となると、食べることも仕事のうちでしょう、うらやましいお仕事ですな」といわれることがあります。
食べることと、料理をすることが好きなので、食文化は「おもろい」こととして始めた仕事です。もちろん、研究を口実にいろんなものが食べられるだろうという、もくろみもはたらいてのことです。しかし、いざ「食べるお仕事」をしてみると、それは浅はかな考えであったことを思い知らされました。
ノートをとりながら、写真を写しながら、食べたら、楽しみではなくなります。食べることを仕事にすると、ときとして拷問にちかいこともあります。たとえば、『ロスアンゼルスの日本料理店--その文化人類学的研究』という本で発表した調査を、民博名誉教授の小山修三さんたちとしたときのことです(小山修三・山口昌伴・栄久庵祥二と共著 ドメス出版 1985年)。そのとき、食べた食物をすべて写真に撮り、帰国してからプロの料理人に盛りつけを評価してもらいました。
すると、日本でのおなじ料理の3倍の量がある盛りつけだとのことです。アメリカでは皿の生地が見える「余白の美」の美学は通用しません。皿の全面を料理でおおいつくすと、ゴージャスでリッチな食事であるとされるのです。
そのような料理を、料理人や経営者にインタビューした手前、食べ残すことは気がひけて、全部食べます。調査の例数を稼ぐために、1日に4回食事をしたりするのです。こうなると、食べることが苦痛になります。
じつは、わたしの研究にとって、食べることはそれほど重要ではないことがおおいのです。うまい料理つくりの技術や、味覚の研究をしているわけではないので、試食しなくてもよいのです。推理小説を書くのに殺人をしなくてもよいのとおなじことです。しかし、食べてみないと気が済まないのです。
そんなことを繰り返しているうちに、身体が肥り、糖尿病になってしまいました。職業病です。そうだからといって、労災保険を申請するわけにもいかないでしょう。楽しいことを、仕事にしてはいけないのです。

仕事や研究で身を削るどころか、仕事のために体重が増えて、それを嘆くというのが、わたしの仕事なのです。