国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

立川武蔵教授・熊倉功夫教授・田邉繁治教授 退職記念講演会

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2004年2月18日開催

熊倉功夫 退職記念講演会

茶の湯と民俗 熊倉功夫

講演風景 ご紹介いただきました熊倉でございます。大変過分なご紹介で恐れ入りました。

きょうは、こういう場に立つとは当然予想していたことではございますけれども、大学に入りましてからついこのあいだまで、大体、退官記念講演とか、こういう最終講義の準備をする側でございました。お世話する、あるいはお手伝いする側におりましたものが、逆に自分がその場に立つということは何となく、思いもよらぬというと変でございますけれども、あんまり実感として持っておりませんでした。それが現実になったかという、ちょっと妙な気分で、きょうはおります。そんなことで、こういう名誉ある機会をちょうだいいたしましたので、40分ほど、私の日頃考えておりますようなことを、お話したいと思います。

きょうは「茶の湯と民俗」というタイトルを掲げさせていただきました。民俗はいわゆる民族学博物館の民族ではございませんで、フォークロアの、土俗学のほうの民俗でございますが、私は正直申しまして、民俗学というものをちゃんと勉強したことがございません。ただ、私が1961年に東京教育大学の日本史に入りました時に、教授に和歌森太郎先生がいらっしゃいました。その時は助手だったのですが、今考えると助手というのも不思議なことでありますが、後に助教授になられましたのが櫻井徳太郎先生でございます。隣の研究室には直江広治先生がいらっしゃいましたり、私が入りました時の大学院のマスター、1年生か2年だと思うんですが、宮田登さんがいました。1学年上には福田アジオさんがおるというような、いわば民俗学の、その方面ではなかなか知られた先生方、あるいは先輩がまわりにいらっしゃいましたので、門前の小僧習わぬ経を読むで、何となく調査に連れて行ってもらったり講義を聞いたりということで、ちょっとかじったという程度でございました。民俗学についてお話するようなことではもちろんないのでありますが。

ただ、私はそれ以来ずうっと茶の湯の研究をいたしました。いろんなことをやったようですが、結局大変狭い茶の湯の研究をやってきたというほかないのです。そこから派生していろんなことはやりましたけれども、茶の湯しかできなかったと申しますか、昔、桑原武夫先生に「私が一番嫌いな言葉が、この道何十年というやつだ」と。「ああ、そうですね、あれだけは嫌ですね」と言ったのですが、それが考えてみますと、この道40年でございまして、「何の芸もなく過ごしてきたなあ」というふうに今思っております。

そういう茶の湯というものが、民俗的にどんな根を持っているのかということについて、若干お話をしようと思います。

茶の湯と申しますと、これはあくまで利休がつくったとか、あるいは家元制があって今日に至ったとか、あるいは、大体お茶にお招きしようとしますと、そんな面倒なことは嫌だと皆さん逃げ出すわけでして、私自身、正座を何十分もできないわけでありますが、そういうふうな、大変ややこしい、面倒なようにみえる茶の湯でございますけれども、実はこれが大変日本人の古い風俗習慣と近いところがあるということを、いくつかの例を挙げて考えてみたいと思うのです。

たとえば、茶会というのがございます。お茶会に行きますと、皆さん、露地という庭を通りまして茶室に向かうわけでありますが、そこで必ずいたしますことが、手水をつかうということでございます。蹲踞というふうに、低くしつらえられました手水鉢がございます。昔は高かったと思うのです。神社仏閣にまいりますと、手水をつかう時、みんなつくばないで、普通立ったまま手水をつかうわけでありますが、茶の湯では、蹲踞というふうにつくばってつかう。しゃがんでつかう姿に、謙虚なわびのふるまいをみせるというふうに低くしつらえられておりまして、杓に水を汲みまして、手をすすぎ、口をすすぎまして置くわけであります。

これは、別にこれからご飯を食べお茶を飲むから、手を洗うということではありません。口を、あそこでがらがらとうがいするわけにはいかないんであります。ただ口にちょっと水を含むだけですから、何の衛生的効果もないんでありまして、むしろ、よくよく見れば蹲踞というのは苔むしておりまして、虫の一匹や二匹歩いているようなところでありますから、あの水がほんとに衛生的かどうかよくわからないのですが、とにかくそこで清める。これは、禊ぎであることは間違いないわけであります。まず、禊ぎをするんだと。

亭主のほうもそうでございまして、最初に客を迎える前には、自ら手水に向かいまして手をすすぎ口をすすぎまして、さらに手水の水を改めまして、そして出迎える。「南方録」という本に、露地で亭主と客が問い問わるる最初の仕事が手水であると書かれております。

こういうふうな清めということを考えてみますと、案外、これは茶の湯にとって大事な要素ではないか。茶の湯の中ではいろんな形で清めということを、二重にも三重にも繰り返すようなことが出てまいります。

例えば、かなり専門的なお茶の世界に入ってくるのですが、手前というのがありまして、お茶を点てる時に、亭主がいろいろ道具を袱紗で清めるわけであります。袱紗で拭い、茶杓を拭い、そうやって清めながら茶を点てるのですが、その時に、特に唐物という大切な茶入れを扱います時に、茶入れに手をかける前に、手を胸のところで揉むのです。なぜ、手をこうやって胸のところで揉むのか、よくわからないのでありますが、お茶のほうでは、これから大事な道具を扱うんだから、粗相があっちゃいけない。ですから、手のこわばりをとるのだと。あるいは、大事な道具に手の脂がついちゃいけないから手の脂を拭うんだ、そういうふうに説明してるんであります。かえって脂がつきそうな気もしますけれども、これも、本来はそうではないだろうと思います。

「南方録」という本を見ておりますと、元禄時代にできた本ですが、そこには空手水という言葉が出てまいります。つまり、何にも、水も塩もない。そういう時にどうやって手水をつかうのかというと、手を揉むことが手水をつかうことになるんだと、こういうふうに申します。たとえば、修験の人たちが山のてっぺんで行に入る時に手を清める。水もない。そういう時どうするかというと、そこに生えている木の葉っぱを取りまして、手の中に葉っぱを入れて揉みしだいて、それで手を清める。これを柴手水という、と説明している部分がございます。

これを読んではっと思いましたのは、京都の南山城、もう奈良に近いところでありますけれども、そこに湧出宮という神社がございまして、ちょうど2月に居籠祭りが行われます。居籠祭りの冒頭に、これは何日かかかるんでありますけれども、祭りの日に、神殿で長老たちが膳を並べまして、饗膳をする。その時に、長老がお膳を前にしてみんな座りますと、若者が榊の枝を持って、長老の前に進むわけです。そうしますと、長老は枝の葉っぱを二、三枚手の中でちぎりまして、それを後ろに捨てるということをいたします。まさに「南方録」に書いてあります柴手水そのものでありまして、水がない時の手水の仕方というものは、手をただ揉むとか、葉っぱを手にして揉むとか、いろいろな手水の取り方が民俗としてあるということがわかります。

そうしてみますと、相撲もそうでして、大相撲で関取が土俵にあがりますと、まず徳俵のところで蹲踞いたしまして手を打ち、そして手を翻す場面がございます。今の関取はみんないい加減なことをやっており、あんまりはっきりしないのですけれども、横綱の土俵入の手だけは一番はっきり残っておりまして、あれは手を打ちました後、その手を合わせたままこするようにずらすわけです。ずらして、その手を両側へもっていきまして大きく捨てるわけで、そのずらした時にここで塵をきる。これを塵手水といっております。

塵をきるという、つまり手の垢を取る、垢を出すようなものですが、そういうふうに手を揉んだり塵をきるというようなことが、たぶん茶の湯で申しますと、大事な道具を扱う前に手を揉むというしぐさとなるわけで、これは、つまり手を清める動作なのではないか、こんなふうに思うのです。そうしますといわゆる揉み手というのがありますが、あの揉み手というのも別に卑屈な動作ではなくて、相手を神様に見立てて一生懸命手を揉んでるんじゃないかというふうな気がしないでもないのです。

そういうふうな清めというものを考えてみますと、聖なる場所にこれから入っていくための大切な約束なのです。先ほどの立川先生のお話を伺っていて、「茶室というのは曼陀羅だな。早速、これからは茶室曼荼羅説でいこう」というふうに思っているのでありますが(笑)。まさに聖なる場所に仏ならぬ亭主がおりまして、潜りという小さな穴のような躙口を潜り抜けて、われわれが参入するわけでございます。

さて、いま清めをしてきました以上、中は聖なる場所であります。聖なる場という、四畳半というのはまことにそういう意味で象徴的でありますが、維摩経、維摩居士の方丈そのものが原形だと、どこか頭の中にあったかもしれませんけれども、そういうふうなところに、わざわざ非常に小さな入口をつくりまして、躙って入る。潜って入る。これは明らかに結界と考えていいと思うんです。何の結界かと申しますと、世俗の世界と聖なる世界を区切る結界です。これも類似する民俗を考えますと、茅の輪くぐりとか、胎内くぐりがあります。

ところがこの結界が、茶の湯の場に考えてみますと、何重にもなっているわけです。まず、露地に入りますと、露地の真ん中に中門という門がございまして、その門を開けて亭主は客を迎え入れるわけでありますが、その門を、亭主が引っ込んだ後、客が次々と入ってまいります。最後の客、詰と申しますけれども、最後の末客は、門を入りますとわざわざ閂をかける。かけたところで、簀戸みたいなものですから、向こうも丸見えですし、手を入れればすぐ閂が開くわけですが、あえてそこで閂をかけて中門を閉じるということをいたします。結界をそこで結び、閉じるわけです。

茶室に躙口を入りますと、また詰の客は最後に入りました後、躙口の戸を音高くぴしっと閉めます。さらに小さな鉄の掛け釘があるのですが、その鍵をかちっと掛けます。かちっと音をさせるところが約束なのです。しかし、これも頼りない鍵でして、外から力を入れて開ければ開いてしまうような鍵なのですが、わざわざそこで鍵を内側からかける。つまり、入っていった人間は、内側から、内側から、何度も何度も鍵をかけて、最終的に茶室の中を閉じられた空間にしてしまう。こういうことをするわけです。これは明らかにそこが脱俗の世界、聖なる世界であることを何度も何度も確認し、またそこにいる人間がそういう気分になっていくための一つの作法なんだろうと思うのです。

当然、そこに入りますと聖なる世界でありますから、世俗の話をしてはいけないのでして、もちろん恋の話だとかお金の話もしてはいけないのです。こういう話はしてはいけないという項目が『山上宗二記』という本に列挙されておりまして、「神仏、隣の宝、婿姑」(笑)。そういうふうにうまくできてるんですね。「天下の軍、人の善し悪し」というんですね。神仏、宗教の話。天下の戦、政治。婿姑、家族の愚痴。隣の宝、経済の話。人の善し悪し、ゴシップ。こういうことは茶室の中ではしゃべってはいけない話題でございました。逆に申しますと、これさえありゃ酒の肴はいらないってなものでありますが、そういうふうなものをシャットアウトする。そういうふうな意識が鍵をかけるという作法で表現されてまいります。

したがいまして、中に入った人間は、真っ黒い羽織のような、羽織ではないんですけれども、紗でつくりました墨染めの黒い着物を着ます。茶のほうでは「十徳」と言っております。ただこれは当て字でありまして、本来はそうではないと思います。茶人だって、何で十徳というのかよくわかりませんで、落語にございますけれども「前からみれば羽織のごとく、後ろから見れば法被のごとく」、ゴトク、ゴトクでジュットクだというふうに落語で笑い話にされているんですが、そういうふうに、茶人たちもよくわからなくなってしまった。

ですが、真っ黒い墨染めの羽織は、明らかに僧服でございまして、坊さんの外着である直綴(じきとつ)というものの変化した姿なのです。それを着ているということは、世俗では俗身でございますけれども、茶室の中に入った時は脱俗の人だということを、身をもって、コスチュームで示しているということです。十徳を着るのは茶人だけではありませんで、医者も江戸時代には着ております。医者とか茶人というのは身分を超えて、貴賤かかわらず出入りしなければいけない職業でありますので、そういった一種の身分を消す仕掛けというものがそういう僧服の、半僧半俗の姿に表現されているのだろうと思うのです。

では、茶室の中で半僧半俗の姿をして、いわば仏道世界に座っているということは一体何を意味しているのかといいますと、これは一種の遁世ではないかと思います。かつて日本人は平安時代以来、「この道に生きよう」としますと、世俗を捨てて遁世するという生き方がございました。それを「数寄の遁世」といっておりますけれども、たとえば北面の武士といいますか、武士という低い身分であった佐藤義清という者が、歌詠みになりたい、四六時歌を詠んでいたいと思いました時に、世俗を捨てて出家するわけです。そして歌だけを詠む坊さん、これが西行という歌人ですけれども、そういうのを「数寄の遁世」というふうに呼んでいたわけです。

生活そのものを捨てて遁世してしまうということは、もう安土桃山時代になると許されないわけですから、普段は日常世界に商人として、あるいは武士として仕事をしているわけですけれども、四時間だけ、二時(ふたとき)だけ遁世する。その時間だけは世俗の世界から離れるという、一時の遁世がこの茶室の中に実現されていたのではないか。そんなふうに私は思うのです。そういうことを考えてみますと、言ってみれば、四時間だけ閉じ込められた空間の中でじいっとしてる。一種の御籠りであります。御籠りということが、日本人が死から再生へという儀礼として、いろいろな民俗儀礼の中にございます。東北の羽黒山の居籠祭をはじめ、各地の祭りや、清水寺の参籠行事のような民俗もかつてはありました。それを遊びの世界で、いわばもどいて見せたというところに、茶の湯のおもしろさが一つあったのではないかと思います。

次に、茶室の中でどういうことをするのかといいますと、何のことはない、ご飯を食べて酒を飲んでお茶を飲む。これまたまことに世俗的なことをするわけであります。ただ、ご飯を食べて酒を飲んでお茶を飲むというには違いないのですが、そこにはおもしろいことに、真ん中に囲炉裏があって、そこの火で、ご飯は別ですけれども、沸かした湯でお茶を点てて飲むということに、非常に深い意味が感じられたのだろうと思うのです。

日本人は火というものに対して、かつては大変敏感でした。同火、別火ということをうるさく申しまして、今ちょうどその時期ですけれども、奈良東大寺では、修二会の練行衆たちが行に入っている時期ですけれども、この行に入ることを試別火(ころべっか)と言っております。別火する。世俗の火とは別にするという、そういうことが彼らの一つの約束事です。

世俗の火はどのようなケガレを持っているかわからないわけですから、世俗のケガレというものと無縁な火を使って食事を整え、生活するということで、聖なる生活が保障される。言い換えますと、火を共にすることはケガレようと清めようと、常に同じ人間になるという一つの約束事だろうと思います。

ですから「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますが、あれは別に同じものを食べるということだけではないわけでして、当然それを煮炊きする火を同じくしたという、そのことに意味があるのだろうと思います。そういうことで、同じ釜の飯を食う。まさに四時間同座して、ひざ突き合わせて、同じものを飲み、同じものを食べるということを通して、お互いに、日常にはなかなか得られないような交わりがうまれてくる。

茶の湯というのは、見知らない人間同士がいかにお互いに仲良くなるかという仕掛けを、実に上手に作り上げてるような気がいたします。今でもよく我々は、人と仲良くなろうと思えば、お茶を飲もうかとか、ご飯を食べようかとか、あるいは酒を飲もうかとかいうふうなことで、交際ということを考えるわけです。そのことを茶の湯は、一つの手続きとして茶会という中に取り込んでいるように思います。

それをでは、どういうふうに実際飲むのかということになりますと、そこには一段とやっかいな儀礼をいたします。それはまわし飲みということであります。言うまでもございませんけれども、日本人はかつて酒を飲む時に、杯は一つしかなかった。その一つの杯が一同の間をめぐる、巡杯と申しますけれども、この酒の飲み方が、ごく最近まで民俗の中では残っていました。これは恐らく中国からきたものだと思うのです。唐礼の中に杯を三回めぐらすという言葉が出てきますので、杯を三回めぐらせることが宴会の最初に行われる儀式であったというのは、どうも中国からきたようでありますけれども、これが日本では式三献という形になりまして、必ず宴会の最初には、一の杯から三の杯まで一座の中をめぐらせて、めぐらせ方にもいろいろあったようでありますが、そういうふうなことで宴会が始まる。必ず三回飲まないと宴会が始まらない。

かけつけ三杯というのは、そこからきたんだと、これも当てにならないのですが、民俗学っていうのはすぐそういうふうに結びつける学問だと思うのでありますが、(笑)まあ、そういうことを申します。かけつけ三杯はともかくとして、式三献が明らかに今残っているのは三三九度の結婚式の儀礼であります。こういうふうな形で一つの杯をめぐらせるということが、茶の湯のほうで申しますと、茶碗に一つの茶を点てまして、それをみんなでまわし飲みをするという、いわゆる濃茶のまわし飲みという形の儀礼に残っております。これは恐らく酒のもどきだと思うのでありますが、その酒の共同飲食のならいを茶の湯でやってみせた。お茶は濃茶という、どろっとしたポタージュぐらいの濃さのお茶を練りまして、それを三人なり五人なりの客がまわし飲んでいく。

今でも家元などでは初釜というのがございまして、お正月の初釜の席では、そうやって一つの茶碗がめぐってくるわけですが、これはよくみんな嫌がりまして、嫌がるというのは変ですけれども、何となくどうかなという気で飲んでるようでございます。江戸時代から批判がございまして、太宰春台などは、「一人ずつ別の茶碗で飲みたい」と書いておりますけれども(笑)、今でもそうはいうものの、ちゃんとまわし飲みをせざるを得ない。特に初釜なんていうのは寒い時で、風邪をひいてる人が一人や二人いるわけであります。それがこっちへ回ってくる、これを飲むというのは相当勇気がいるわけでありますが、そういうふうなことをあえてしていく。これは広くいえば共同飲食の一つの類型と考えてよいのですが、具体的には日本人の民俗としての食器の属人主義とその越境という行動です。つまり個人に属すべき器をあえて共用することで結束を強める民俗的な作法です。

茶の湯が四百年も続いているということの意味を考えてみますと、茶の湯というのは、いってみれば歴史的な産物です。中世の末に成立し、安土桃山時代に大きく政治的に取り上げられるという中で、大文化に発展致しました。しかし、考えてみますと、茶の湯というのはあくまで個人の楽しみの世界でして、そんな政治的なものでは決してないのですが、たまたま桃山時代の天下人たちは、自らをディスプレイする文化というものをほかに見つけられなかったといいますか、逆にいいますと、自らをディスプレイする文化として、茶の湯というものを取り上げた結果だったのです。

言うまでもありませんが、日本の王権は、基本的に隠されているのが特徴だと思うのです。権威、権力というものは、民衆の目から見えない、奥に隠されている。奥の院ということがありますけれども、日本には、中心ではなくて奥に大事なものがある。こういうふうなことを考えてみますと、隠された存在であればこそ権威であるということが、日本の王権の一つの特徴だと思うのです。

ところが、歴史的にみますと、変革期だけは、その権威、権力が民衆の前に姿を現してまいります。日本の歴史の中で大きな変革期は三つございますが、一つは南北朝の内乱期、もう一つは戦国期、もう一つは明治維新から文明開化であります。この三つの改革期には、いずれも天皇ないし天皇に準ずる天下人が、民衆の前に自らを現してパフォーマンスをみせるわけです。南北朝内乱期にはご存じのとおりバサラ大名というのが出てきまして、大原野の大花見ということを、民衆を引き連れてやってみせます。桃山時代には信長、秀吉という天下人が、同じように自らを民衆の前に姿を現す。維新から文明開化におきましては、日本で史上初めて天皇陛下が全国を巡幸するという、自らを民衆の前に姿を現すということが、変革期にだけ出てくるわけです。安定期にはかつては全くないことでございます。

その変革期の中で、安土桃山時代において、天下人が自らを民衆の前に姿を現す時の一つの仕掛けに、茶の湯が使われました。その結果、北野大茶湯というような、全国の茶人を集めて自ら秀吉が茶を点ててみせるとか、あるいは禁中茶会というような、天皇陛下に茶をもって献じて儀式にするというようなことがございました。これは非常に茶の湯の歴史の中では異常なことでして、むしろ茶の湯というのは個人のひそかな楽しみ、つまり一時の遁世という、そこに本質があるんだろう。そうしてみますと、一時の遁世のような茶の湯を支えてる民俗的な要素というものが、茶の湯の中にはたくさん含み込まれているように思うのです。

つまり、茶の湯は歴史を超えて今日までずっと続いてるのですが、それは茶の湯が社会的に、あるいは文化的に、その時代、時代に機能を持ってきた、それぞれの機能を果たしてきたということもありますけれども、単なる歴史的な機能を超えて、それが今日も伝えられている背景には、今申しましたような歴史を超えた民俗的要素が、茶の湯の中に非常に多く含まれていて、これが言葉の説明をこえて、心にひびく強い説得力を持つ根拠になっているのではないかと思うのです。

こういうことを考えますと、思い出しますのは、桑原武夫先生が昔、「大菩薩峠」の分析をした時に、文学の鑑賞というのはいくつかの方法がある。満開の桜を見てその桜を批評するのは一つの方法だ。言ってみれば作品論である。しかし、桜が散って、枝が見えてくる、あるいは幹が見えてくる、幹の太さとか枝の張り方とかいうものを分析するのも、文学の一つの分析の仕方。これは言ってみれば作家論に当たるだろう。

しかし、もっと別な見方もあるだろう。それは見えないけれども、その木がどういうふうに地下に根を張っていて、その根がどこまで深く届いているか。こういう分析の仕方があるのではないか。たとえば横光利一の小説を分析すると、これは非常に表土の浅いところに根を張っているように私には思えると、桑原先生はおっしゃいます。逆に、歴史の古層というような民俗的な層に根を下ろした文学があるだろうというので、桑原先生は中里介山の「大菩薩峠」を、それで分析するわけであります。まあ、古層に根を下ろしていればいいというもんでは決してないと思いますが。

茶の湯も一見非常に浅い、たかだか四百年、長くとっても六百年の歴史しかないわけでありますけれども、しかし、その中に含まれている要素というのは、大変深いところに根を下ろしているのではないか。このことが、茶の湯が今日なお説得力を持つ根拠になるのではないか、こんなふうに私は思っております。

私の茶の湯研究というのはまだまだでして、先ほどの立川先生のお話を聞いていて、「なるほど」と思ったのでありますが、「曼陀羅というのは結局ようわからん」という、そのとおりでございます。(笑)いや、いや、失礼。立川先生のお言葉がそういうことで、私にとってみますと、茶の湯というのは四十年やってみますと、やっぱりよくわからんのです。何が茶の湯だか、一言で説明しろと言われると、茶の湯は説明できないのです。結局、先ほどの曼陀羅の話も私流に解釈すると、一つのプロセスではないでしょうか。そういうあたりを考えてみますと、茶の湯というのも茶室の中の小さな曼陀羅の中に、どういうふうに人間が直心の交わりをするかという一つのプロセスなのかなあ、そんなふうにも思っております。

私は、先ほどご紹介いただきましたように、1965年に大学を卒業して、大学院を経て、京大人文科学研究所に7年、筑波大学に14年おりまして、その間ずっとやってきましたことは、文献の研究だけでございました。しかし、1990年に、それ以前から民博にはいろいろご縁をちょうだいしておりましたけれども、守屋毅さんがエドワード・モース展をされる。それにお手伝いをいたしまして、物質文化というものにだんだん触れるようになりました。その結果、民博に参りまして、お陰さまで民博では、いろいろ物質文化についての展覧会をやったり研究をすることができました。これは私にとって大変な幸せでございました。今まで過ごしてきた研究生活の中で、この12年間はことに新しい領域の仕事をさせていただいたというふうに思っております。

最初に赴任してまいりました時の梅棹館長はじめ、佐々木高明館長、今頃はフランスでおいしいものを食べてるようであります石毛館長、きょうご紹介いただきました松園館長。こういう皆様方をはじめ、また展覧会をいたしますについては、収蔵庫の方々、情報企画の方々をはじめ、管理部の皆さん、研究部、研究室の方々の大変なお世話をいただきまして、何とか二つの大きな展覧会ができたと。こんなふうに思いますと、この12年間は私にとって大変実り豊かな期間であったと存じます。

改めて皆様方に厚く御礼を申し上げまして、私のお話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。