国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

立川武蔵教授・熊倉功夫教授・田邉繁治教授 退職記念講演会

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2004年2月18日開催

田辺繁治 退職記念講演会

夢と憑依の人類学 田辺繁治

講演風景 杉本先生、どうも過分なご紹介いただきまして恐縮でございます。ありがとうございました。民博絶滅種の一人である田辺でございます。松園館長は口が悪いんです。私は確かに絶滅種ですけども、松園館長も日本の人類学界では化石人類に属する方で、オーストロピテクスぐらいでしょうか。私なんかまだクロマニヨンぐらいです。(笑)
本日は「夢と憑依の人類学」という題でお話しさせていただきますが、これまでの自分の研究の道のりを振り返って、それをかいつまんで話をするようなことを今回はしません。30年にわたる民博での自分の学問の軌跡を振り返ることは、それなりに意味のあることだとは思いますが、あえてそういうことをしないようにしようと思います。
私は、人類学は自分の運命だと思っています。人類学は「我が運命」みたいな感じ、You are my destinyみたいな、そういうノリでやっております。民博を去ることも、一つの運命の通過点にしか過ぎないのです。その通過点をうまく駆け抜けるために、今日は20世紀人類学の初期からとりあげられてきた、人類学と精神分析との緊張関係という問題にもどってみたいと思います。この緊張関係は今後の人類学を考える上で大きな問題であり、それを克服するような方向を見出そうと考えました。そこで取り上げたのが「夢と憑依の人類学」というテーマであります。
最初に、夢かうつつかの雰囲気と気分を少し味わっていただきたい。これは(*編集注:曲を流す)マレレンバウムのボーカルで、坂本龍一のピアノ、「Casa」というアルバムの最初の曲です。坂本龍一がニューヨークで9・11事件に遭遇して、その翌年2002年に出したものです。

はじめに
私の今日の話は3章にわたります。まず夢の人類学の枠組みの提示、夢から憑依への移行、そして夢占い、という三つです。それらをとおして、夢から憑依へ、そして憑依から夢占いへという一連の過程をお話しすることになります。夢と憑依というものは、ともに私たちの顕在的な日常世界から非常にかけ離れたところに生起していると考えられがちです。多くの研究は、人類学も含めて、夢や憑依が、日常の知覚や思考と区別される特異な経験であることを強調してきました。人類学にかぎらず、ギリシャ以来そういうふうなことが言われてきました。しかし、夢体験というのは、どのように日常的な経験に結びついているのかという社会人類学的な課題は、それらの研究によって十分に答えられてきたとは言えません。
私はこの講演において、夢や憑依の体験が個人的でプライベートな心理的な体験であるのみならず、それらの体験が人々に対して語られ、あるいは演じられることで、社会的な領域において意味を持ってくることを問題としたいのです。さらに、夢が未来の出来事を予兆するということも社会的に捉えられなければならないでしょう。つまり私は、夢や憑依の体験が現実の顕在的な日常世界の実践と深く結びついているのだということを示そうと思うわけです。
ここでは夢のイメージや夢についての理論を、民族誌的な文脈の中で検討することによって、夢が覚醒時におけるものとは全く違った認知の方法、つまりスピノザ風に言いますと、想像によって超越的に真理に到達する方法であるということを確認するということになるでしょう。夢や憑依の日常経験への接合というこの問題を、ここでは私が長らく仕事してきました北タイにおける民族誌を中心として論じていこうと思います。

1.夢の人類学
まず、夢の人類学の目的とは、夢の中のイメージや表象を解釈し分析するということではありません。むしろ、夢を見ることと、覚醒時における日常実践とがいかに結びついているのか、さらに夢を見ることが、その人の生き方、あるいは社会関係にいかにかかわっているかを問題にするわけです。夢の内容を言語的な意味として、あるいはイメージとして分析することは、精神分析などの深層心理学の課題でありまして、そこでは、個人の夢見る体験は、ひたすら研究者が客観的に分析すべき普遍的な心理学的対象として扱われてしまうわけです。
これに対して人類学では、夢の内容やイメージが文化的に多様であると考えます。また夢が、夢見る人やその他の人々によってどういうふうに扱われているのか、すなわち夢がどのように社会的領域の活動に結びついてくるかを考えようとするわけです。夢は語られることによって(そうでない場合もありますが)初めて明らかになります。夢の内容を人がしゃべらなかったら、何が起こっていたのかよくわからないわけです。夢というのは必ずしゃべることによって初めて社会的な領域に飛び出してくるのです。
夢の語りというのは、社会によって特定の形式を持っている場合がありますし、それから夢が語られる場や状況というのがあります。夢を語ってはいけないという場合ももちろんあります。夢語りがもっている社会的な役割があります。また、これは私の議論の中心になりますけども、夢の語りから自己(セルフ)とは何であるのか。あるいは人格(パーソン)とは何であるのか。そういった主題も、夢の人類学においては大きな課題となってきます。
よく知られているように、フロイトは夢が無意識に発する願望を充足させる機能をもっていて、それが「夢作業」によって加工され、検閲され、そして最終的に隠喩的なイメージとして表現されると考えました。つまりギラギラ、ドロドロの欲望をぐっと押さえて、ソフトに夢として表現するのだと、そういう議論なのです。それをトラウムベルクとかドリームワークというふうにフロイトは呼んだわけです。しかし、決定的なポイントで誤りがあります。フロイトには、夢をイメージとして解釈する枠組みが完全に欠落していたのです。フロイトの夢解釈は、ひたすら夢の内容から意味を引きだそうとする。言語的なプロセスでもって夢の意味を引きずりだすこと、そういうことに腐心していたわけです。
こうしたフロイトの言語的な夢解釈に対して、夢をイメージ固有のコードとして解釈すべきことを提起したのは、人類学者であるグレゴリー・ベイトソンです。ベイトソンは、夢の活動が、覚醒時の言語使用や意識のあり方とはまったく異なっていると考えます。夢のイメージにおいては語られる、つまり指示される対象が何であり、だれなのかということを叙述することはしません。つまり、夢のイメージは、何かと何かの関係性の全体に焦点を当てているのです。何かと何かの結び目にあるような具体的な関係項(リラータ)については言語のように、述語を持って語りを組み立てないのです。これが夢のイメージの大きな特徴だとベイトソンは考えます。
このように、夢のイメージは、言語表現とはまったく異なった特有の意味作用をもっていますが、ベイトソンはそれを<デジタル・コード>、つまり言語的なコードと区別して、図像によって構成される<イメージ・コード>と呼んでいるわけです。イメージ・コードの特質は、人以外の動物のコミュニケーションにも共有されていています。また、ベイトソンの分析の対象となった芸術作品ですね、それから神話などにおいても顕著に認められると考えられるわけです。ベイトソンにはバリ島の絵画についての有名な研究がありますが、それはまさにこのイメージ・コードによる分析の例です。
関係性(リレーションシップ)のみがそこにあるのだというイメージ・コードの特徴は、実は夢の主体を考える上で非常に有効です。フロイトは、夢の解釈において、夢の中にあらわれる「私」が、何を考え、何を連想するかということをとくに重視します。それらの意味を抽出して解釈しようとするわけです。フロイトにとって、夢の中の「私」という主体こそが外部、つまり精神分析家による客観的分析の対象になるわけです。しかし、ベイトソン流のイメージ・コードの考えでは、夢の中にあらわれる私とは、夢のイメージ全体の中に含まれているさまざまな関係性の一端を示すにすぎないわけです。したがって、夢のイメージを捉えるためにはそうした関係項だけを問題にするのはだめであり、関係性全体を捉えなければならないということになります。
夢のイメージにあらわれる関係性は、普通われわれの意識の対象と考えるものよりも非常に狭いとベイトソンは考えます。それは哺乳類などの知覚と似通ったものです。彼は、夢のイメージにあらわれるのは、自己と他者、自己と外界との関係性だけにほぼ限られるのだというふうに言っています。
ベイトソンは、この人類学的な関係性の概念を、夢のイメージ分析に全面的に展開するということはありませんでした。しかしこの考えは、夢の中における、夢見る人の実存が世界に対してどういうふうな関係にあるかという、むしろ存在論的な問いかけを十分に示唆するものだった思われます。
夢の中の主体を、ベイトソンの言う関係項としてではなく、実存の関係性そのものとしてとらえようとする試みは、少し古いのですが、20世紀前半の精神医学者ルートヴィヒ・ビンスワンガーの「現存在分析」に認めることができます。ビンスワンガーの学問体系全体は、彼自身は現象学的人間学と呼んでいるのですが、特に患者の夢を中心とするイメージ分析は現存在分析と呼ばれます。
現存在分析は、フロイトの精神分析を含む、あらゆる形式の心理学的な実証主義を排除して、ハイデッガーの存在論を基礎としながら、人間を現存在としてとらえ、それを存在論的な枠組みの中で記述していくことになります。しかし、ビンスワンガーの現存在分析は、ハイデッガーの哲学をなぞることではありません。その中心的テーマは、存在論的哲学そのものではなくて、あくまで個々の臨床場面において、一個の現存在としての患者に徹底的にかかわること、このことであります。
今ここに現に生きている、現存在としての患者の自己というものは、自然科学的な分析の対象であるよりも、危機に瀕して変容する世界内存在そのものである。したがって、現存在分析とは、自己を生きながら、自分を認めたり、あるいは見失っていく、そうした実存の運動、つまり世界内存在の変容を記述することであると彼は考えます。
こうしたビンスワンガーの現存在分析というものは、特に統合失調症(精神分裂病は二、三年前からそう呼ばれるようになった)や躁うつ病の患者との出会いの中で深化されていきますが、そこで中心的な方法となったのが、患者の夢の分析です。
現存在分析の対象というのは、先ほどのベイトソンの考えに関係しますが、夢の中の私やその他の人々ではなくて、夢の中に登場するすべてです。つまりそこには人が登場するし、いろいろなモノが登場するし、動物があり、植物があり、それらの空間があり、出来事があると。そうしたすべてがくり広げる実存、つまり流動する夢の運動が分析の対象なのだというのが彼の考えです。
彼の有名な論文は、1930年にチューリッヒで発表されました「夢と実存」です。それは後に本になりますが、そこでビンスワンガーは(ガストン・バシュラールなんかの影響もありますが)、夢の中の実存がある一定の空間的な意味方向に沿ってさまざまな様態をあらわすことにくり返し注目します。たとえば、上昇と落下、浮遊と跳躍とか、拡張していくあるいは縮小していく、それから充満していくものと空虚なもの、明るいものと暗いもの、そうした空間的な意味方向というのが重要なのだ、と彼は考えます。
特に重要なのが、垂直軸に沿った実存の意味方向としての上昇と落下です。飛翔とか上昇、ゆらゆら海の上で揺れるとか、それから空を飛んでいくとか、あるいは突如として落下していくとか、沈下していく、海の中に沈んでいくとか。そういうイメージが、夢および覚醒時における感情や気分を表現すると同時に、実存のきわめて本質的な次元を構成しているのだというのが、ビンスワンガーの視点です。上昇と落下の運動イメージが、実存の基盤としての自己と外界、他者との関係、あるいは自己と共同世界との関係というものを構成している、それが大きな理由です。
夢における落下や沈下のイメージは、それに伴う驚きや幻滅とか悲しみとともに、ただたんに隠喩的、あるいは詩的な表現ではないのです。そこには実は、夢見る自己が世界の中で堅固な支えを失い、あるいは他者と共同世界との共生の基盤というものを失って揺らいでいるということが示されるわけです。現存在分析の基本的な対象として、ビンスワンガーは内的生活史という概念を提起します。これはいわゆる生物的な生命機能の連続性というものではなくて、生きていく自己が内的経験の連続性の中で展開していく歴史性というふうなものと考えたらいいでしょう。
夢は未来を告知するとしばしば言われます。フロイトが言うように、夢が無意識の中からひそかに発現してくるもの、あるいは願望の充足というものに関係するとすれば、それはむしろ過去の再現ということになります。逆に現存在分析では、内的生活史とはこれから展開しようとする未来に向けての表現、つまり自己の可能性の表現なのだということがポイントになるのです。しかし、こうした予兆は必ずしも夢の中で直接的に表出されない。多くの場合、その人の自由がむしろ拘束され束縛されている状態を表出することによって、逆にそこから解放されるべき道、ミシェル・フーコーの言葉を使えば、人間の根源的な自由を明るみに出していくということになります。
さて、このようなビンスワンガー・初期フーコー的な夢の現象学的記述は、夢体験、夢語りといった人類学的テーマとどういうふうにつながり、どんな意義があるのかということを考えてみましょう。
まず2つポイントがあります。第1は、現存在分析による記述というものが、20世紀人類学においてしばしば見られた象徴分析の意味論的な理解から脱することによって、個人の内的生活史というものを民族誌的文脈において、覚醒時の経験や実践に結びつけて理解する可能性を示したことです。
2番目は、現存在分析が、夢から覚醒への運動というものを提起することによって、夢の体験の延長に、日常的実践が変化する契機をつかもうとすることです。この変動への視点こそが、夢体験とか、夢語りとか、夢占いなどの人類学的理解に大きく貢献すると言っていいと思います。現存在分析の主要テーマは、人びとが日常の実践の中でみずからを変え、世界への新しいかかわり方を模索していくような、そういう局面に非常に強くかかわってくるという点で意義があると考えます。こうした夢から覚醒への過程というものは、憑依に対する理解にも大いに有効であります。

2.夢から憑依へ
写真1 そこで、夢と憑依の関係および憑依における行為主体の変化、こうした問題について、北タイの事例の中で見ていきましょう。
北タイでは、一般に憑依は、超自然的な存在である精霊が人の身体に侵入して、そこに苦痛や苦悩をもたらす現象だというふうに考えます。なかでも自然の中にすむ精霊あるいは妖術霊などの憑依がよく知られ、それらは外部から人間身体に侵入して破壊的な効果をもたらすことになります。北タイにおける「人格」というものは、自律的精神やパーソナリティーのようなものではなくて、生命本質であるクワンに関係し、その生命本質と身体の関係、つまり心身の平衡関係によって維持されると考えられます。
したがって、憑依とは、精霊が外から身体に侵入するというふうに言われます。つまり、外的な力としての精霊が、身体に侵入して心身関係のスキーマ、図式を攪乱して、そこに苦痛と苦悩がもたらされる。写真に見られるように(写真1)、精霊や妖術霊が憑依した場合、悪霊払い師が治療をするわけですけど、こうした急性の憑依というものは、非常に苦痛と苦悩をともないます。
しかし、もう一つここで重要なことは、憑依には別の形態があるということです。それは「顕在的憑依」と呼びますけれども、憑依した人が全く別の人格をもった行為主体として、人々の前に登場するわけです。
霊媒はそうした憑依を実現することによって、占いや病気治療などの職能を行う行為主体になっていくわけです。北タイでは職能者としての霊媒はマーキーと呼ばれますが、ここでは霊媒というふうに日本語で呼んでおきます。霊媒には自然を支配する精霊とは性格を異にする守護霊というものが憑依します。それらは善意に満ちて利益をもたらし、病を治療したり、占いによる託宣も与えることになります。霊媒とは、長い病と苦痛、苦悩の果てに、守護霊が憑依する技法、テクニックというものを習得してみずから霊媒となった、そういう人たちです。苦痛と苦悩の続く長い期間、さまざまな悪夢に悩まされることが多いわけですけれども、そうした夢の中の苦闘と苦悶の末に、あるときにさまざまな拘束から解き放たれるような夢を見ることがあります。
図版1 私は1985年以来、霊媒の夢の語りを収集してきましたが、ここではチャンタという老婆(今年で85歳)の夢体験を検討してみようと思います。彼女は半世紀以上前になりますが、25歳のときに原因不明の病気にかかって、失神発作をくり返していました。ある日、彼女は夫とともにチェンマイの城趾の一角にある堡塁で催されている、古いチェンマイ王国の「國の基」のお祭りを見に行こうとしました。そこでは霊媒たちもたくさん集まって、チェンマイ王国の守護霊に敬意を表するお祭りをしていました。しかし彼女がそこに着くと、そこでまた失神して深い眠りに入ってしまいました。その後家に帰っても、夢の中にずっと浸っていました。 そして彼女は数日の間に、今日まで、つまり半世紀後まではっきり覚えている3つの夢を見るわけです。それがこのテクストであり(図版1)、第1の夢、第2の夢、第3の夢というふうにここでは呼んでおきます。
まず第1の夢ですが、4人の男に連れられていくのですが、自分の足が重くなってずるずると引きずっていきました。とにかく必死になって歩いていると、突如として気がつくと、自分の足が象の足になっていて上半身は人間であったのです。それに気がついたときに、夢から覚めてしまった。それで、自分は完全に死ぬのだというふうに思うわけです。
それからしばらくして第2の夢を見る。そのときは、男に連れられ自動車に乗せられていくのですけれども、乗っていると、それが建物のような空間に変わって空をどんどん飛んでいく。ところが、その男に、おまえここから落ちろということを言われて、自分は恐怖におののいて落下する寸前に夢から覚めてしまします。
ここまでが、先に述べました現存在分析の対象として、非常にぴったり合うのですが、第3の夢で、彼女はある1つの転換を果たしていきます。第3の夢の中では、お寺に連れて行かれます。そして、そこで霊媒のような人に会います。霊媒は1メートルほどの剣をもって踊り、その刃に触れると眩いばかりに水が真鍮の容器の中にしたたり落ちます。彼は彼女にその聖なる水を飲むように勧めるわけです。彼女は、これを飲んだら病気が治りますようにと祈るのですが、そこで夢から覚めてしまいます。この直後から、彼女の身体には恒常的に守護霊が憑依するようになって、守護霊が言うさまざまな禁忌を遵守することによって、数カ月ほどの間に霊媒としての生き方に確信をもつようになっていきました。
ここで語られた夢の内容においては、もちろん「私」というものが全面に出ていますが、実は先ほどの現存在分析の方法から言ったら、「私」そのものを取り上げたらいけないのですね。つまり、これらのさまざまなイメージの全体を、自己が世界との関係の中でみずからを見失ったり、また回復しようとする運動として理解していかなければならない、私はそう思うわけですね。
この連鎖する3つの夢について、要するに、基本的には先ほど言いました内的生活史として理解しようと思います。そうしますと、一番重要なのは、死の夢です。第1の夢にあらわれ、そして第2の夢にもあらわれる、まさに自分の死に直面した夢です。第2の夢では空を飛んでいく、希望とか自由に向かって飛翔しようとしていくかに見えますが、同時に死に直面せざるを得ないという、切迫した実存の運動をここに見ることができるわけです。
この死に直面する夢というのは、現存在分析では非常に重視されます。つまり、夢における死のイメージというのは、次のステップへの跳躍台のようなもので、新しい生への転換の予兆というふうに見ることが可能であると考えるわけです。ミシェル・フーコーは、ハイデッガーに依拠しながら、いわゆる死の先取りを強調します。夢の中で死の先取りし、それを運命として受容することによって、患者にとって大きな転換点が訪れるのだというふうに彼は考えるのです。
先ほども触れましたように、第3の夢は、もう現存在分析の対象からすでに離れて、日常世界で自己にとって起こりうる可能性のイメージとしてでてくるわけです。ここで重要なポイントをおさえておく必要があります。現存在分析というのは、いわゆる精神療法家が治療のために行っていく臨床的な行為であります。現存在分析の場合には、ビンスワンガーによる患者の症例の分析をずっと見ていても、夢の移り変わりのあるポイントで、たとえば死の夢の見た時点でそこに転換点があるのだということを指摘するわけです。つまり自由への予兆というものがここにあるのだということを示唆してやることで、彼、彼女が回復していくことを手伝っていくわけです。しかし、私が扱っているチャンタの夢の場合には、精神療法家なんていうのは関係ありません。
注意しなければならないのは、精神療法家が介在する精神医学的臨床環境とちがって、チャンタの場合には、精神療法家というのは完全に不在であって、霊媒カルトやそこにおける治療というものが、彼女の目の前にあったということです。夢における彼女の解放というのは、霊媒カルトがあるような身近な日常生活をめぐる彼女自身の想像力に由来していると考えた方がいいということになります。
それでは、その後はどうなるのだということですけども、ここでもやはり、内的生活史の視点ということから見ていこうと思います。憑依というのは、自己と他者、自己と共同世界の関係の新しい位相を作りだすことなのだというふうに、私は長年考えております。「霊媒になる」ということは、自己と他者、そして外的な力の作用の諸関係というものを作り直すことであり、そこに新しい自己の構築というものを見ることができると、こういうふうに言っていいと思います。
では、自己と他者との新しい関係は、憑依においてどのようにしてつくられるのかということが次の問題です。しばしば、これはおかしな話なのですが、霊媒は憑依している間、自分を全く別の者として感じ、考え、語り、行動しており、憑依から覚めて日常の自分へ戻ると、何をやっていたのかまったく覚えてない、とよく言います。これは健忘と言われますが、健忘をともなう別の意識状態へ変化することは、最近の精神医学では、特にアメリカの精神医学が優勢になって以来、「解離」のメカニズムによって説明するわけです。そこでは、この憑依というのは、典型的な解離性同一性障害というふうに、病名をちゃんと付けて治療の対象になってしまいますが、人類学ではそうは考えません。
しかし、憑依においては確かに別の行為主体、別の人格に転換することをきっちり人類学が理解していかなくてはならないのです。もちろん、そこには意識の断絶はあるのです。そこで北タイの憑依に対して1つの人類学的解釈を示すとするならば、日常の人格というのは、先ほど言いましたクワン(魂)、つまり生命本質と身体との平衡関係によって構成されるのですが、憑依の場合には、それが守護霊と身体の関係に置きかえられていくと言ったらいいと思います。
写真2 守護霊が憑依する場合に、北タイでは有名な多くの神格がありますが、それらは威厳ある男性的神格が大半です。ところが、最近では少し変化が見られ、中国の観音菩薩だとか、アニメの主人公みたいのが入ってきて、そういうものが守護霊として憑依する。それから山地民の守護霊ですね。この写真(写真2)に見られるのは観音菩薩と山地民の霊が憑依した姿です。
こうなってくると、何か仮装舞踏会みたいな感じ、あるいはニューヨークのドラーグショーみたいになってきて、異性装者のお祭りみたいな感じになってくるのですけども、これが現在の北タイにおける憑依の姿であります。どう見ても、滑稽な感じがします。
滑稽かどうかはどうでもいいのです。いや、どうでもよくはないのですけどね。(笑)ここで私が強調したいのは、何でこんな変な格好して、変なものが憑依して、それで何で楽しいのかということです。それは一言で言えば、力というか、権力へのあこがれというものでしょうか。権力としての他者になり切る、それによって別の行為主体というのを作っていくこと、それが楽しいのですね。
これは大きなポイントであります。それを説明するには、例えばヴァルター・ベンヤミンの「模倣能力について」(1930年)の議論が、さらに人類学ではマイケル・タウシックが展開した「ミメーシス論」がたいへん参考になります。つまり、憑依とは他者を身体によってコピーすること、すなわち「能動的に服して他者になる」ことです。そこで、他者のイメージというものは身体によって知られ、そして身体によってとらえられる。つまり、他者を知ろうと思えば、それが植民地権力を代表する軍人であり、行政官であろうとも、そいつらが何であるかということを知るためには、彼らを身体ごと模倣してみる。彼らをみずからの身体に憑依させてそれを演じていくと。これが重要な技法で、有名なカメルーンの「ハーカ運動」についてたびたび人類学的には語られるところであり、たまたま本日亡くなった有名な民族誌映画作家ジャン・ルーシュの作品によってこのハーカは有名になりました。
北タイの憑依を考える場合にも、このミメーシス論の視点というのは非常に重要だと考えます。つまり霊媒が作りあげる守護霊というのは、似たものであると同時に異なるものです。似ても似つかぬ類似物なのです。何となく似てるのですけれども、実際にはまったくちがう、まがいものです。それは権力そのものの本質(イデア)の支配のもとで作られる、非常に似通ったコピーではなくて、あくまで見せかけの「シュミラークル」(類似物)です。憑依というものは、この根拠のない見せかけと表面性への執着、徹底的にこの偽物を作ろうという、そういう執着に由来していると考えられます。
霊媒カルトなどに集まるクライアントたちは、憑依したその守護霊というのが真正の権力であるというふうには、もちろん感じておりません。あれはうそであると知っています。しかし同時に、そうした守護霊が真に病を治して的確に運勢を占ってくれると、そういうことを期待するわけです。要するに霊験とか効力こそが重要であって、それが真正な権力、権威に由来していようがなかろうがそんなことは問題ではないのです。
コロンビア大学のロザリンド・モリスが、やはり私と同じように北タイの憑依を研究しましたけれども、彼女は複製芸術である映像、写真と憑依というものを重ね合わせて比較して論じています。写真技術など近代の複製芸術はいわゆる模倣によって対象の表面性を重視した類似物を作りだしますが、それこそがモダニティにおける新しい経験に接近する道なのだと考え、憑依もそれに似ているわけです。

3.夢占い
図版2 最後に夢占いの問題に入っていきたいと思います。霊媒たちは、かならずしも夢占いを積極的あるいは専業的にやるってわけではありません。普通は一般的な運勢占いをやっていて、時たま夢占いもやるのです。この夢占いというのは非常におもしろいのですが、あまり見ることはできないのです。そこで、古い文書に「夢直し」の話がたくさんでてくるので、いろいろ調べていたら、こんなのがありました。
今日都市ではこういうこと言わなくなりましたが、20世紀の中頃まで農村ではこんなことをしきりに言っているのです。このテクスト(図版2)では「夢の中で太陽が沈んだら父が死ぬ、月が沈んだら母が死ぬ」と言っています。そして、これらを「夢想」(ニミット)というふうにタイ語で呼んでいます(パーリー語ではニミッタ)。夢想(ニミット)とは本来、瞑想修行においてある悟りを得た段階にあらわれる夢想を指すのですが、北タイでは普通の人が夜明けに見る明晰夢をもニミットと呼んでいます。特に悪い夢想あるいは夢を見た場合、夢直しをしなければいけない。次の例では、黒犬、赤犬、まだら犬を見たら、それは妖術霊が徘徊しているから、それを祓う術を心得た、つまり悪霊祓いをする職能者を訪ねて夢直しをしろというふうなことを言っているわけです。
多くの古い文書の例で注目しなければならないのは、夢にあらわれるさまざまな夢直しの方法というのは、実は村落社会の秩序というものを強く反映していることです。特にその空間的な秩序ですね。例えば、こういう夢見たら、仏陀の像の前で夢直しせよとか、門のとこで夢直しせよとか、村の大樹のもとで夢直しをせよとか。まただれかに相談することも重要で、だれかにしゃべらなければいけない。しゃべることによって夢は直されて、凶兆の夢は吉兆の夢に転換するという場合もあります。だから、その相手が必要で、それはお父さん、お母さんであったり、在家信者の代表であるとか、戒律を遵守する者であるとか、長老であるとか、悪霊祓い師とかです。つまり人が悪い夢を見た場合、夢直しの実践をとおして、村社会の秩序にすべて還元されていくわけです。夢直しというのは村の権威と秩序を作りあげていく実践なのです。
図版3 ところが、今日の夢占いや夢解釈は、それほど秩序や規範に関わるものでもありません。特に都市の夢占いや一人で夢占いの手引き書を見ながら占うような場合は、もっとちがった特徴が見られます。皆さんおそらく薄々感じているところかと思いますが、アナロジーによる解釈というのがそれで、それは世界中古くから見られることです。アナロジーによる夢の解釈が徹底化してくると、夢のイメージは孤立した1対1対応、1対2対応の記号解読になっていくわけです。夢占いは、類比による解読に収斂していくというふうに言えます。例えば、このテクスト(図版3)は自分で占う夢占いの手引き書です。最近こういうのがたくさん出回っています。 この半世紀ほどタイではどこでも見られます。例えば、左側の死んだ人は、これは吉兆の夢であるとか、右側のところでは、妊婦の夢を見たらどうかとか、その下は飛行機の夢とか、それから左の下はコウモリの夢とか、つまりイメージとその意味の間の1対1対応の記号解釈を示していくわけです。さらに興味があるのは、一番右の欄です。番号がバラバラッと書いてありますね。これは要するに、宝くじの当選予想番号です。(笑)占い手引き書では、下2桁と下3桁の予想番号をこうやって必ず示すのです。今や夢占いの最大の目的は、宝くじの当選予想占いなのです。いや、すべての占いはこれに帰着するのです。今日の夢占いの最大の効能は宝くじ予想であるというわけです。
それでは、霊媒が占いやればどうなるのだということを、もう少し綿密に見ておきましょう。霊媒はそういう記号解読だけではなく、かなり手の込んだことをやっています、すべての霊媒というわけではないのですが。つまり、先ほど言いました現存在分析にかなり近いようなことをやっているのです。このテクスト(図版4)はクライアントであるHIV感染者(エイズ患者)の夢に対して、ある霊媒が示した解釈を記したものです。彼の夢では、白いフクロウが空に向けて飛び立った。その次にぱっと画面が変わって、お父さんとお母さんがお寺の中で仏像を前に祈っていた。クライアントの彼がそうした夢のイメージについて話し終わると、その後延々と、クライアントと霊媒との間で話が続くわけです。おまえはどうして、どこでエイズに感染したのだ、その後どのように治療したのか、家族はどこにいるのか、身体の調子はどうか、とにかく長々とやるわけです。
そうした長い対話のあとで何を言うかというと、それがテクストの2段目です。フクロウは普通は凶兆だけれども、ここでは違う。空へ舞い上がる白いフクロウは、遠くの地からの便りである。お母さんとお父さんのもとへ帰りなさい。あなたの夢は病気からの回復を示す吉兆の夢なのだ。したがって、故郷のお父さんとお母さんを訪ねて、みずからの祖霊に対して鶏を2羽ささげて供養しなさい、というふうなことを言うわけです。
ここでは要するに、単純な記号解読ではないのです。つまり霊媒は何を告げたいのかというと、お母さんとお父さんのもとに帰ること、一時的にでも帰ることが、彼の回復にとっての選択可能な行動だということを告げたいわけです。つまり、仏教への帰依だとか、祖霊の供養だとかということもそこには絡まってくるのですが、そうしたものを規則とか規範として見るのではないのです。1個の人格というものが、その病の危機から脱しようとするときに、彼にとって選択可能な行動というものを、霊媒は助言しているのです。
このような霊媒の夢占いのテクニックを見ていくと、実は現存在分析との関係でおもしろいことが分かります。もう一度、霊媒とクライアントとの関係に焦点を当てますと、つまりその対話では霊媒はクライアントの内的生活史にぐいぐいと入り込んでいるのです。そこでは、過去を掘りさげるのではなく、むしろ内的生活史の未来へと展開していくことが、この占いの非常に重要なポイントになっているのです。霊媒の夢占いは、クライアントとの夢のイメージについての対話を通して、内的生活史の軌跡をたどって、その延長線上に来るべき行為の道筋をつけていくわけです。
2世紀ギリシャのアルテミドーロスの『夢判断の書』というのがありますが、北タイの霊媒の夢占いをこれと比較すると非常におもしろいのです。フーコーは若干28歳でビンスワンガーの「夢と実存」の序文を書くのですが、その後、彼がエイズで死ぬ1984年に、『性の歴史』の2巻、3巻を出すわけです。その3巻が『自己への配慮』と題されていて、第1章に「快楽の夢」という文章があります。これがアルテミドーロス論です。つまりフーコーは若き頃に夢に没頭して、そして最後にやはり夢にもう一度帰っていったわけです。
このフーコーの議論とアルテミドーロスのテクストそのものをきちっと読みますと、おもしろいことが分かってきます。アルテミドーロスの本は夢占いの手引き書ではありますが、2世紀において、各地における夢占いについてのフィールドワークに基づく一次資料を駆使して書きあげた、夢の社会人類学とも言うべき非常に高度な研究書です。こんなものがあると、今日の社会人類学は何をやっているのだということになるのです。アルテミドーロスの夢解釈を克明に検討していきますと、夢解釈というものは、法や規則や道徳規範への機械的適用であってはならず、経済、地位、その人が置かれた固有の状況、他者との関係、身体の調子など、いわば夢見る行為者の存在様式に決定的に依存するような形でもって判断がなされなければならないことを説いているのです。
したがって、その夢のイメージというのは、性的な活動、家族、社会、経済、さまざまな条件との関連をたぐりながら解釈され、その人にとって適切な行為の行われ方を予兆として示す、こういうことなのです。そこでフーコーはこれを「生存の技法」、ギリシャ語で「クレーシス」と呼びますけれども、それが夢解釈というギリシャ人の個人にとって生存に必要不可欠な活用とか技法としてとらえたわけです。道徳とか規範などから解釈をするのではなく、あくまで個人の生を中心に据えた重層的な解釈に基づきながら、その内的生活史に入り込んで、そこから予兆というものを取りだしてくること、これがアルテミドーロスの夢占いであったわけです。これは結局、北タイの霊媒の夢占いにも共通していると感ずるわけです。

おわりに
最後に、まとめておきましょう。私はこれまで夢や憑依の体験というものが、どういうふうに日常の社会的経験に結びついているのかという問題を考えてきました。基本的に、夢とか憑依というのは、歴史上自己と他者、社会との関係を表現するきわめて重要な認知の様式であります。そうであるならば、夢語りや夢の解釈、夢占い、霊媒の託宣などは個人の私秘的でプライベートな心理的な体験として、理性と合理性の彼方に神秘化されるべきものでは決してなく、日常の社会的経験の中において、正当な位置が与えられなければならないと考えます。それをやるのが、夢の人類学だろうというふうに思うわけです。
 北タイの夢占いというのは、クライアントとの持続的な対話を通して、内的生活史へ介入するという点で現存在分析と共有するものをもっています。しかしながら、それが現存在分析と異なるのは、クライアントの日常の相互行為と、そこに作用する権力関係というものに非常に強い関心を払っているとでしょう。それが大きなちがいでしょうし、また精神療法という科学的臨床的関係とはまったく無縁な日常世界の中で治療し、未来のあるべき行為を予兆として指し示すわけです。
こうして夢占いというものは、内的生活史と現実の出来事の双方に対する解釈学を通して、その人の住みなれた日常において自明のものと見なされているような自己と他者、自己と共同世界との関係というものを読み直していくことです。もう一度読みなおしていくことによって、その人にとっての世界との新たな関係を夢のイメージから予兆として示すこと、これが夢占いなのです。霊媒が夢を回路とする覚醒によって、新しい行為主体へ変貌するように、夢占いが指し示す予兆というものも、自己と新たな世界経験へと導いていく可能性をもっているのだと考えたいわけです。本日の私の話はここで終わりにしたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。