モノの崇拝:所有・収集・表象研究の新展開
研究の目的
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後期近代ないし大量消費社会の到来とともに、規格化された製品が世界中にあふれている。その反面、「モノの崇拝」とも呼ぶべき、モノの所有・収集・表象に関する異常な熱意が存在するのも事実である。モノの収集・展示・評価に特化した施設としての博物館が世界中で増殖していること、アート作品に対する常軌を逸した価格の付与、文化遺産に関する世界的な関心の高まりや、ブランド品に対する異常なまでの嗜好は、どのように考えればよいのか。さらに、整形医療やピアス、タトゥー等の身体加工の流行は、人間の身体を操作可能なモノとみなし、過剰なまでに関心と情緒を投入する身体=モノ崇拝の一形態ではないのか。
モノの崇拝は、人類学においては物神崇拝(フェティシズム)として、「異教徒」が実践する非合理的な慣習として、否定的に捉えられてきた。キリストの像や仏像など、観念体系に支えられたモノが崇拝されるときには一定の合理性が付与されてきたが、モノそのものが崇拝されていると思われたときには、西洋的合理の範疇外の慣行として否定ないし拒絶されてきたのである。しかしそれでは、現代におけるモノの崇拝はどのように考えればよいのか。博物館や美術館に陳列されるモノを恭しく眺め入る多数の来館者や、世界遺産として「聖別」された遺跡や建造物を訪れることで感動を得ている観光客、ブランド品に数ヶ月分の給料を支払う消費者は、モノ崇拝の一変形とはいえないのか。
「君がどんなものを食べているか言いたまえ。君がどんな人間であるか言いあててみせよう」。美食家サヴァランのことばをおそらくもじって、ダニエル・ミラーはつぎのようにいう。「われわれが誰であるのかを知りうるのは、物質の鏡(a material mirror)に見入ることによってでしかない」。かくしてモノは、たんに受動的な存在なのではなく、私たちを作り、私たちの社会をかくあらしめているエージェントとして理解されることになる(アルフレッド・ジェル)。この考えが示すような独自の論考を、ジェルが「美の人類学」をめぐっておこなったのはおそらく偶然ではない。私たちが美に見入るとき、効用と機能を優先する日常的意識が停止されるだけでなく、私たちは作品に魅入らされ、動かされる。そこに生じるのは、人間とモノとのあいだに一般に定立されている能動/受動、主体/客体、精神/事物などの二分法の解体であり、私たちは自己の存在と意識がモノに支えられていることを理解するのである。
たとえば記憶をとりあげよう。私たちの意識の大半は記憶によって構成されているが、モノを伴わない記憶ははたして存在するのか。それのみならず、私たちの日々の生活は、眠り、食事をし、本を読み、テレビや新聞を眺めることに費やされているが、それらはすべてモノをともなった行為である。もしそれらの行為の遂行に必要なモノがなくなったなら、私たちの生活は根底から変わるであろう。とすれば、私たちの生活世界そのものがモノによって支えられ、制御されているわけである。このように人とモノとがたがいに媒介しあいながら世界を構成していることを、フランスのブルーノ・ラトゥールは「アクター・ネットワーク論」のことばで示している。一見分かりにくい概念ではあるが、それは私たちの日常的な意識のあり方そのものなのである。
このような日常的意識のあり方に対し、モノの崇拝と呼びうる現象は二重に対立している。それは、まずモノを人間の操作可能な客体におとしめた上で、特定のモノに対して過剰な欲望を備給するものである。このような操作は、どこから、どのようにして生じたのか。人間とモノとのあいだの相互作用を解体させたのが、デカルトにはじまる近代の認識論であり、それをさらに一般化させたのが、モノの生産過程を使用者の目から切り離した商品経済の浸透であるのは疑いあるまい。ベンヤミン流にいうなら、モノと人間とがたがいに影響しあう礼拝価値(=アウラ)を有していたモノが、「複製技術時代」になるとその影響力を削がれ、展示と所有の対象とされるようになったということである。とすれば、モノの全般的な価値低下と一部のモノの特権化をもたらしたのは、商品経済の浸透であるとともに、教会や寺院のモノを脱コンテキスト化させたミュージアムでもあることになる。
このように考えると、現代におけるモノの崇拝を考えることは、人間とモノの関係性の歴史的変容と、それをうながした一連の制度的変容を問題化することになるはずである。モノの崇拝の背後には、いかなる制度や認識体系が存在するのか。人びとはモノに対していかなる概念化をおこなっており、その概念化はかれらの自己意識や社会観にいかなる特性を与えているのか。タトゥーや整形、臓器移植にいたるまで、今日の人間の身体は日々の操作の対象とされているが、それは身体のモノ化を意味するのか。もし身体が一個のモノとなっているとしたら、それと対になる精神もまたモノ化されているのか。
以上のように本研究は、現代において新たな形態をとりつつある人間とモノとの関係性について、多角的かつ斬新な視点から理解を深めようとするものである。国立民族学博物館の機関研究として、「文化人類学の中核を占めてきた物質文化研究を今日的条件に接合させ」る分野としての「マテリアリティの人間学」が推進されており、本研究はそうした課題に合致した研究領域として、いっそうの発展が期待されているものである。
研究の内容
本研究は複数のテーマを包摂しうる。さしあたって具体的に考えられるのは、以下の諸テーマである。
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ミュージアムと展示の研究
モノをうやうやしく陳列し、特別な態度をもってそれに接することを要求するミュージアムこそは、モノ崇拝のすぐれて近代的な形態にほかならない。ミュージアムについては、「国民創出のカルトである」(ポミアン)とか、「文明化の儀式」(ダンカン)とかさまざまに論じられてきた。このとき、国民国家と「文明」が地球上を覆い尽くしている今日、ミュージアムにはいまだに固有の使命があるのか。あるとすれば、それはなにか。ミュージアムを構成する二つのカテゴリーである博物館と美術館を区別するのは、どのような制度であり、認識であるのか。ミュージアムを維持するのはいかなる力の体系であり、それは社会を構成する力の体系といかなる関係にあるのか。ミュージアムの一形態としての民族学博物館とともに発展してきた人類学は、おなじ経緯を有する美術史とともに、これらの問いについて問うことが求められているはずである。 -
モノの記憶の研究
後期近代とは、2つの世界大戦や、大量殺戮を伴う民族紛争や「人種浄化」、津波や地震に代表される自然災害など、大規模な破壊の時代でもある。これらの破壊は、多くの人命を失わせ、モノを消失させてきたが、喪失された人間やモノや行為はどのようにして記憶されることができるのか。また、モノの記憶をめぐっては、さまざまな立場の人間によるさまざまな語りが可能であり、そこにはつねに政治的ベクトルが作用するはずである。複数の語りが存在する場合、どのようにして支配的な語りが形成されているのか。支配的な語りに抗する語りは、どのようにして、また何を支えとして語り継がれることができるのか。モノの記憶についての研究は、集団のアイデンティティの形成や、語りの政治性、複数の語りの共存可能性など、人類学や隣接諸科学にとっての中心的な課題を発展させる可能性をもっている。 -
モノとしての身体の研究
モノはその定義からして代替可能なものであり、その対極に位置するのは、唯一無二としての本物(ベンヤミンのいうアウラを有するもの)であり、代替不可能なこの私=精神+身体であろう。しかしながら、移植医療の発達は人間の身体の一部を他者のそれによって代替することを可能にしたし、整形医療や化粧、タトゥーやピアスなどの流行は、身体表面に対する過剰なまでの関心の表出にほかならない。身体が一つのモノとみなされ、それゆえに代替可能であると考えられるとすれば、それに支えられてきた人間の精神=自我もまた固有性を失い、代替可能とみなされるのか。あるいは、もともと精神などは代替可能なものであり(すなわち固有性は存在せず)、固有の容貌をもつ身体のなかに閉じ込められていたがゆえに、固有性を付与されていただけなのか。モノとしての身体に対する過度の関心とその関係性の変容を研究することは、後期近代における自我や人間の観念についての問い直しにつながるはずである。
2011年度成果
今年度の研究実施状況
12月下旬に、フランスの人間科学館のJane Cobbi、Frederic Julian准教授と会って、次年度に実施する国際シンポジウムの詳細について協議し、ただちにその準備に入ることを確認した。
2月17,18日に国際シンポジウム「アフリカを展示する―ミュージアムにおける文化の表象・再考―」を実施した。
3月18日に国内シンポジウム「記憶・歴史・表象――博物館は悲惨な記憶をどのように展示するか」を実施した。
研究成果の概要(研究目的の達成)
本年はフランスの人間科学館およびTechniques et culture 誌と連携して、フランスで国際シンポジウムを実施する予定であったが、相手機関の準備不足により実施できなかった。このシンポジウムについては、翌年度に実施するために詳細を協議し、準備している。
他の研究内容に関しては、おおむね実現できた。
機関研究に関連した成果の公表実績(出版、公開シンポジウム、学会分科会、電子媒体など)
2月17,18日に実施した国際シンポジウム「アフリカを展示する―ミュージアムにおける文化の表象・再考―」については、各発表をもとに英文で出版の予定である。
3月18日のシンポジウムは、公開シンポジウムとして実施した。
2010年度成果
研究実施状況
今年度は2つの国際シンポジウムを実施し、来年度実施予定の国際シンポジウムに向けて海外の研究機関との協議をおこなった。
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平成22年6月22日国際シンポジウム
「文化遺産の返還とその後-アラスカ州コディアク島の仮面の返還をめぐって-」 -
平成22年10月30日31日国際シンポジウム
「アート・表象・世界――エル・アナツイから出発して」 -
平成23年3月12日~26日
フランス社会科学高等研究院、人間科学館、ケブランリー博物館、ドイツ歴史博物館、ユダヤ博物館、大英博物館、ピットリヴァース博物館等と、次年度の国際シンポジウムに向けての協議。
研究成果概要
本年度は2つの国際シンポジウムを実施し、上記の研究目的の1.については大きな成果を上げることができた。
6月の国際シンポジウムは、国際文化会館との共催で実施したものであり、文化財の保存と返還をめぐる社会的背景や倫理について、深い議論が交わされた。
10月のシンポジウムに関しては、国立民族学博物館の特別展示「彫刻家エル・アナツイのアフリカ」に合わせて実施されたものであり、美術館と博物館の相違と類似性、アートと器物、アートの持つ力、双方の語りの相違等について、深い議論が交わされた。
なお、いずれも、公表実績に見るように、その成果を出版公開する予定である。
公表実績(出版、公開シンポジウム、学会分科会、電子媒体など)
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平成22年6月22日国際シンポジウム
「文化遺産の返還とその後-アラスカ州コディアク島の仮面の返還をめぐって-」
講演者:ジェームズ・クリフォード・カリフォルニア大学サンタクルーズ校特別教授
パネリスト:吉田憲司・国立民族学博物館文化資源センター・教授
岸上伸啓・国立民族学博物館先端人類科学研究部・教授
太田好信・九州大学大学院比較社会文化研究院・教授 -
平成22年10月30日31日国際シンポジウム
「アート・表象・世界――エル・アナツイから出発して」
パネリスト:
シルベスター・オベチエ・カリフォルニア大学・教授
スーザン・ヴォーゲル・ニューヨーク大学・教授
水沢 勉・神奈川近代美術館・副館長
稲賀繁美・国際日本文化研究センター・教授
川口幸也・国立民族学博物館・准教授
竹沢尚一郎・国立民族学博物館・教授
1.については、クリフォード氏が日本でおこなった他の講演を含めて単行本として出版される予定である。
2.については、昨年実施した国際シンポジウムの成果発表とあわせて、単行本として出版する予定である。
2009年度成果
研究実施状況
今年度は、本研究の第一年度ということもあり、海外の研究者との連携の強化に努めた。
11月17日に、Barbara Kirshenblatt-Gimblett(ニューヨーク大学教授)を迎えて、「博物館において過去を表象すること:ユダヤ人のケース」の題で国際セミナーを開催。
12月7・8日に、京都大学と共催で国際シンポジウムを開催。発表者は、Maurice Godelier(フランス社会科学高等研究院教授)、関根康正(日本女子大学教授)、春日直樹(大阪大学教授)、竹沢尚一郎(国立民族学博物館教授)、Boris Wastiau(ジュネーブ民族誌博物館館長)、Paul Faber(トロッペン博物館主任学芸員)、吉田憲司(国立民族学博物館)である。
3月には、国際交流基金、兵庫県、読売新聞社などと共催で「世界災害語り継ぎフォーラムを」開催する予定である。
研究成果概要
本年度は第一年度であるため、成果については現在取りまとめ中である。2009年度研究実施状況に述べたような観点から3つの事業を実施しており、多くの参加者を集めることができたほか、研究テーマの絞り込み等についても着実に深化している。
国際セミナーと国際シンポジウムの成果については、出版に向けて鋭意努力中である。
公表実績
- 国際セミナー「博物館において過去を表象すること:ユダヤ人のケース」の開催(2009年11月17日国立民族学博物館)。
- 国際シンポジウム「21世紀の人類学と民族学博物館」の実施(2009年12月7-8日、京都大学、国立民族学博物館、京都大学と共催)
- 国際フォーラム「世界災害語り継ぎフォーラム」(2010年3月20-22日、よみうり神戸ホール、JICA兵庫国際センターホール、国際交流基金、兵庫県、読売新聞社と共催)







