国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

アラブ世界における音文化のしくみ

共同研究 代表者 堀内正樹

研究プロジェクト一覧

目的

「アラブ」という政治的な民族意識が中東に芽生えたのは19世紀であり、20世紀の植民地経験を通じてそれは社会・文化分野でも様々な問題を孕みながら成長してきた。今日「アラブ音楽」と呼ばれるものも、西欧との邂逅とその後の西欧への対応をめぐって20世紀に形成されたナショナリズム的性格を有していると考えられる。

本研究が目指すのは、現在アラブ各地およびその周辺で展開する「アラブ音楽」の多様性と共通性を具体的に明らかにする作業を通じて、(1)アラブの音楽ナショナリズムが如何に形成されたのか、(2)それにもかかわらず、音楽が千数百年来の多元的なネットワーク的技芸・知識として如何に持続性を保ってきたのか、を実証することであり、さらに(3)近代西欧の「音楽」概念が捨象することになった詩や説教、祈祷、学問的・宗教的語り、民話、儀礼、舞踊、医療などと音楽との緊密な結びつきを「音文化のしくみ」として再発見することを目指す。

研究成果

ヨーロッパ人の影響下でカイロで開催された「アラブ音楽会議」(1932年)が、いわゆる「アラブ音楽」という概念の誕生の端緒となったことが、その後の各地の音楽の展開を比較することによって確認できた。そうしたヨーロッパのインパクトについて、本研究会は3点を重要な特徴として検出した。

一つは「トルコ」「イラン」に次いで「アラブ」も「民族」として、本来は切り離されることのなかった人間の広範なネットワークから切り分けられたこと、つまり「民族の創出」であり、二つめは「音楽」という概念がヨーロッパ的な「芸術」という名の下に、それまで生活を形作っていた豊饒な音の世界を矮小化させたこと。三つめは、他の感覚よりも視覚が優先されるようになり、楽譜が音自体よりも重視されるという逆転現象が生じ、その結果、個性やオリジナリティーというきわめて不自然な考えがもたらされた。こうした三つの特徴が一体化して、音楽ナショナリズムが展開した。しかし音楽ナショナリズムは、その後の国分けシステムに呼応した「国家の音楽」の創出という異なる使命も担った。「民族」が多くの「国家」を包摂するという中東に生じた政治事情が、音楽ナショナリズムにも反映されたわけである。

音楽分野においてこうした共通性と多様性の両立を可能にしたのは、語彙や概念の柔軟性であることが判明した。じつに多くの音楽語彙が広い地域にわたって共有されているにもかかわらず、その具体的な意味内容は千差万別であることがわかったのである。この現象を読み解く鍵は「身体化」にある。音が本来持っている「リアリティーを作り出すちから」(つまり身体化)の地域ごとの多様性が語彙の柔軟性によって担保され、他方語彙の共有を通じて、多様な身体化が相互に結びつけられる。

そして語彙を統括する中心的な権威を持たないことが、こうしたネットワーク的な技芸・知識の存続を支えていることも検証できた。そこではいわゆる音楽現象が依然として儀礼・舞踊・聖典読誦などと不可分であることも、身体化のあらわれとして確認できた。このようなコミュニケーションのあり方こそおそらく千数百年におよぶ本来のグローバリゼーションの特徴でもあり、ヨーロッパの影響はその中に消化・吸収された、というのが本共同研究の得た結論である。本来のグローバリズムのしくみの原型を得たと言ってよいだろう。

2009年度

研究成果は、広範な認知を得るため、一般の書籍として出版することを予定している。原稿は各研究員がすでに草稿を書き終え、400字詰め原稿用紙に換算して約500枚ほどになっている。なるべく早く表記の統一や分量等の調整作業を終えた上で、出版社の了承を得る予定である。それを受けて出版助成を申請したい。2009年度は早い時期に研究会を開催し、残った問題点の整理や概念解釈の統一を徹底させ、秋までに最終原稿を完成させる。なお、この研究成果は研究の性格上楽譜等の図表や表記記号に特殊なものが頻出するため、出版社との打ち合わせに時間がとられることが予想されるが、遅くとも2009年度内の出版の実現を目指す。

【館内研究員】 西尾哲夫
【館外研究員】 青柳孝洋、新井裕子、飯野りさ、小田淳一、小杉麻李亜、斎藤完、谷正人、樋口ナダ、樋口美治、水野信男、米山知子
研究会
2009年6月6日(土)13:00~18:00(国立民族学博物館 第1演習室)
2009年6月7日(日)9:00~13:00(国立民族学博物館 第1演習室)
全員「研究成果報告書出版の準備と打ち合わせ」

   ※研究会は延期

2009年11月14日(土)13:00~18:00(国立民族学博物館 第1演習室)
2009年11月15日(日)9:00~12:00(国立民族学博物館 第1演習室)
全員「研究成果報告書に関する最終打ち合わせ」
全員「共同研究の今後の発展形態に関する討議」
研究成果

本年度は研究成果の出版に関する準備が中心的な作業となった。研究会においては、すでに準備しておいた共同研究員各自の出版用原稿を持ち寄り、最終的な詰めのための討議を行った。また本の末尾に掲載する「座談会」の原稿について、全員で最終的な検討を行った。

研究成果は2010年2月にスタイルノート社から一般書籍として出版され、本研究の社会還元が実現した。本研究は当初より、いまだ我が国ではよく知られていないアラブ・中東世界の音文化を一般に紹介することを大きな使命と考えていたが、同時に知識を専門的につきあわせて整理し、現地に還元することも重要な目的と考えた。前者については出版をもって目的は果たされたが、後者の目的については今後各自がそれぞれのフィールドに戻って、国内や現地で演奏公演や学術発表を通じて実現することが合意された。

なお、本研究の成果の一部として、堀内と西尾が「みんぱく公開講演会」にて、それぞれアラブ音楽とベリーダンスについて発表した。

2008年度

本年度は前年度に行ったアラブ各国の音楽の旋法、リズム、奏法、歌唱法、楽曲構成、音階、楽器、歌詞の種類と構造、演奏者、演奏単位等の比較作業を継続するとともに、上記研究目的の(1)と(2)についての結論を出す。

さらに(3)について、音文化の他の構成要素(詩、祈祷、学問的・宗教的語り、民話、儀礼、舞踊、聖典朗唱等)との関係の洗い直しを行い、はたして「音楽」や「アラブ」という概念が成立するのかについての最終的な検討を行う。 同時に、本年度は研究の総括として刊行物の公刊を準備する。研究参加者による報告論文をベースに、共同討議で得られる比較結果をまとめ、討議記録とともに公表する。

また重要なアラブ音楽の用語の比較表などの資料も作成して、研究成果に添付する予定である。

研究の最終年度であるため、これまでの研究の総括にあわせて、積み残された課題を整理し、次の段階の研究計画と研究組織のあり方を構想する。

研究会
2008年5月10日(土)14:00~18:30(国立民族学博物館 第1演習室)
2008年5月11日(日)10:00~12:30(国立民族学博物館 第1演習室)
小杉麻李亜「再生されるクルアーン-口誦性と読誦」
西尾哲夫「ベリーダンス」
小田淳一「楽曲生成モデル」
2008年7月5日(土)14:00~18:30(成蹊大学(東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1))
2008年7月6日(日)10:00~12:30(成蹊大学(東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1))
「研究成果報告書の準備討議-アラブ音楽の成立をめぐって」
堀内正樹・水野信男
2009年2月28日(土)13:00~18:00(国立民族学博物館 第3演習室)
2009年3月1日(日)10:00~14:00(国立民族学博物館 第3演習室)
「アラブ音楽の旋法とリズムをめぐる総括討議」(全員)
研究成果報告書の編集にかかる打ち合わせ(全員)
研究成果

第1回研究会では、小杉麻李亜が、倫理上明確に音楽と一線を画するイスラムの聖典クルアーンの読誦術と音楽の旋法の実質的連続性を指摘した。中東の音文化の質的・量的な広がりを確認するうえでの大きな貢献になった。西尾哲夫は、ベリーダンスの誕生と世界中に広まるまでの過程を詳述し、文化を越える音の身体性を分析した。ダンスの受容・拡散のプロセスにおいて多義性と多声性が不可欠な条件となっていることを明らかにするとともに、受容の限界についても問題を提起した。小田淳一はアンダルシア音楽を素材にして楽曲生成モデルを作成し、音を身体性や意味の場から切り離して純粋に情報学的な解析を試みることによって、図像や建築などにも拡大し得る形式的連続性を指摘した。文化の客観分析の可能性を拓く野心的な試みだった。

第2回研究会は全員でこれまでの研究の総括討議を行った。特にアラブ音楽の成立をめぐる状況についての共通認識を整理した。

第3回研究会も全員で総括討議を行い、アラブ音楽の旋法とリズムをめぐる問題に一定の結論を出した。また研究成果報告書の編集方針についても協議した。

2007年度

現在アラブ音楽に用いられているさまざまな用語は場所によって異なった意味をもっているので、2007年度はそうした用語の整理を通じて、比較に用いる範疇の整備を行う。旋法、リズム、奏法、歌唱法、楽曲構成、音階、楽器、歌詞の種類と構造、演奏者、演奏単位等が予想される範疇であり、それらに付与される語彙のリストアップと意味解析を行うことが具体的な作業になる。この作業は研究参加者が専門とするイラク、シリア、レバノン、エジプト、チュニジア、モロッコ等の事例を順次発表する中で相互的に検証されることになる。研究の進捗状況に応じて、共時的にはトルコとイランの音楽事情と、また通時的には中世の音楽理論と、随時突き合わせ作業を行うことになる。なお民博所蔵の中東の楽器標本、音響・映像資料を再調査し、完全なデータベースも作成する。この作業および研究会には各地の大学院生等の協力も求め、若手研究者育成の一助としたい。

【館内研究員】 西尾哲夫、米山知子
【館外研究員】 青柳孝洋、新井裕子、飯野りさ、小田淳一、小杉麻李亜、斎藤完、谷正人、バダンナダ、樋口美治、松田嘉子、水野信男
研究会
2007年6月23日(土)14:00~18:00(国立民族学博物館 第1演習室)
2007年6月24日(日)10:00~12:30(国立民族学博物館 第1演習室)
樋口美治、バダン・ナダ「イラクの音楽-イラキ・マカームを中心として」
全員「成果出版の企画案についての打ち合わせ」
2007年10月20日(土)14:00~18:30(国立民族学博物館第1演習室)
2007年10月21日(日)10:00~12:30(国立民族学博物館第1演習室)
谷正人「イランの音楽」
新井裕子「中世の音楽理論における旋法とリズムについて」
2008年3月1日(土)14:00~19:00(成蹊大学(東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1))
2008年3月2日(日)10:00~13:00(成蹊大学(東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1))
斎藤完「トルコの宮廷音楽」(仮題)
米山知子「トルコ・イスタンブルにおけるアレヴィーのセマー」(仮題)
研究成果

第1回研究会においては、樋口美治とバダン・ナダが現代イラクに於ける「イラーキー・マカーム」と呼ばれる古典音楽の構造とその歴史的変遷を共同発表した。マカームを軸としたアラブ音楽の持つ柔構造の他地域との共通性が明らかになった。第2回研究会では、谷正人がイラン音楽の「即興性」を批判的に分析した。その手法は中東音楽一般に妥当するものであり、中東の音楽の外在的・実体論的分析が無意味であることがあらためて確認できたことは大きな収穫であった。また新井裕子はアラブ音楽のふたつの柱である「旋法」と「リズム」に焦点を絞って、アッバース朝期から中世後期にかけての音楽理論の変遷を発表した。その報告は通時的共同研究に展望を与えるものとなった。

第3回研究会では齋藤完が、「オスマン音楽」が20世紀前半の西欧化と脱オスマン化を経て20世紀後半に復活するプロセスを詳細に分析した。音楽が西欧化・近代化と如何に折り合いをつけたか、またナショナリズムと如何なる関係があるのかが明らかにされた点で有益な議論となった。米山知子はトルコの神秘主義教団の旋舞を中心に、身体技法とパフォーマンス分析を発表し、音楽と身体性の関係を明らかした。

2006年度

2006年度は、前述の「第1回アラブ音楽会議」の報告書の解読を通じて、当時の人々が「アラブ音楽」をどう理解し、また「アラブ音楽」を成立させる際に如何なる障害を感じたか、といった研究全体の問題の所在に関わる共通理解を得る。その際、この会議を契機とした西洋音楽への対処を通じていわば「音楽ナショナリズム」がアラブ世界に生じてきたこと、しかしそれ以後もアラブ各地の音楽事情にはそれほど統一的な動きは見られず、相互にオーバーラップしながらも、個別に西洋音楽への対応を模索してきたこと、などの認識が共有化され、次年度以降の作業の前提理解となるだろう。

なお研究期間全体を通じて、民博所蔵の中東の楽器標本、音響・映像資料を再調査し、完全なデータベースを作成するつもりである。この作業および研究会には各地の大学院生等の協力も求め、若手研究者育成の一助としたい。

【館内研究員】 西尾哲夫、米山知子(大学院生)
【館外研究員】 青柳孝洋、新井裕子、飯野りさ、小田淳一、小杉麻李亜、斎藤完、谷正人、バダンナダ、樋口美治、松田嘉子、水野信男
研究会
2006年12月16日(土)14:00~ / 17日(日)9:30~(第1演習室)
堀内正樹「趣旨説明およびモロッコの音文化」
水野信男「補足説明:アラブ音楽の来し方・行く末」
2007年3月3日(土)13:00~ / 4日(日)9:00~(成蹊大学:東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1)
飯野りさ「アレッポの伝統歌謡:タラブとインシャードの相互補完関係に関する一考察」
青柳孝洋「レバノンの音楽」
研究成果

第1回研究会において、堀内正樹が共同研究全体の趣旨説明を行った後、水野信男が補足説明を行い、全員の役割分担および研究の進め方について討議した。続いて水野が「カイロ音楽会議1932」に関する発表を行い、この会議がアラブ音楽成立の大きな契機になった旨の共通了解を得た。堀内は「モロッコの音文化」についての分析の具体的な提示を行い、次回以降の研究発表のたたき台を提供した。

第2回研究会では、飯野りさが「アレッポの伝統歌謡:タラブとインシャードの相互補完関係に関する一考察」を発表し、シリアにおける伝統音楽の変遷を宗教歌謡と世俗歌謡の補完性を軸に説明した。またシリアで用いられているマカーム(旋法)のリストを提示し、他地域との比較のための有益なデータとなった。青柳孝洋は「レバノンの音楽」を発表し、伝統的古典芸術音楽と民俗音楽芸能および現代ポピュラー音楽の相関を、音楽教育の制度的変遷に絡めて分析した。同時にアラブ大衆歌謡を成立させる社会条件の分析も行い、音楽社会学的な研究視点の重要性を提起した。