国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

ガリラヤ地方とレバノンのキリスト教徒によるアラブ・ナショナリズムの再考(2015-2017)

科学研究費助成事業による研究プロジェクト|基盤研究(C) 代表者 菅瀬晶子

研究プロジェクト一覧

目的・内容

本研究は、中東・イスラーム世界の宗教的マイノリティであるアラブ人キリスト教徒に焦点を絞り、彼らが歴史的パレスチナ北部のガリラヤ地方とレバノンにおいて、アラブ・ナショナリズムの誕生と発展にいかなる影響をおよぼしたのかを追究するものである。歴史学と文化人類学の二方向から、19世紀から20世紀前半にかけてアラブ・ナショナリズムに与えた影響を考察し、彼らの業績を再評価するとともに、今日のアラブ・ナショナリストや一般市民の政治観にいかなる影響をおよぼしているのかをあきらかにする。また、欧米的価値観によって定義されたアラブ・ナショナリズムの定義を、アラブの視点から再構築し、さらには現代のアラブ人研究者とともに研究を推進してゆくことをめざす。

活動内容

2017年度活動報告

本研究は、20世紀初頭のパレスチナにおけるアラブ人キリスト教徒ジャーナリストらの執筆活動を調査し、アラブ・ナショナリズムにおける彼らの貢献と、イスラーム社会のマイノリティであるキリスト教徒としての特徴を検証することを目的としてきた。ジャーナリストのうち、パレスチナ初のアラビア語紙であるカルメル紙の主筆であり、アラブ人によるシオニズム研究の先駆者となったナジーブ・ナッサールと、委任統治時代のパレスチナでひろく読まれたフィラスティーン紙の主筆イーサー・アル・イーサーにおもに焦点を絞り、その著作活動を追った。
活動をとおしての彼らの主張には、明確に共通点が存在する。そのひとつが宗派の別を越えたパレスチナ・アラブ人の結束であり、もう一点が農業を主とした産業振興への希求である。一見無関係にみえるこの二つの主張は、実はキリスト教会、ことにパレスチナで支配的なギリシア正教会への批判に基づいている。この姿勢がより明確にみられるのが、実際に教会との根深い対立を抱えていたイーサーであるが、正教からプロテスタントへの改宗者であるナッサールの私生活や地方有力者との協力関係の結び方からも、正教会への不信感はうかがえる。当時ギリシア正教会が否定していたアラブ・ナショナリズムを推進することで、彼らはギリシア正教徒よりもアラブ人としてのアイデンティティ確立をめざしたのである。また、農業振興の背景には、シオニストによる土地買収への危惧だけではなく、信徒への経済的支援により従属関係を築いていた、ギリシア正教会のコミュニティのあり方への批判があった。
以上のことが判明したが、論文は現時点で執筆段階であり、発表には至っていない。比較対象として想定していたものの、手記発見には至らず調査を中断せざるをえなかったカトリック教会のグレゴリオス・ハッジャール大司教とあわせて、今後2年間でより詳細な成果発表をおこなう予定である。

2016年度活動報告

本年度おこなった研究実績の内容は、以下のとおりである。
(1)資料収集とその精読、研究対象の絞り込み
昨年度までにイスラエルおよびパレスチナ自治区、さらには本年度エクセター大学およびベルリン自由大学で収集したナジーブ・ナッサールの著作物(おもに彼が主筆をつとめたカルメル紙の記事と、その再録書籍)を精読し、その内容分析を進めた。彼の活動の内容はシオニズムについてのパレスチナ・アラブ人コミュニティに対する啓発活動が中心であった1908~1914年と、パレスチナ各地を視察し、コミュニティの将来を見据えて産業の育成に取り組もうとした1919~1930年の活動に大別される。このうち後半部分で、当時のパレスチナ各地の教育機関や産業の様態について、詳細な記録を残していることがわかった。また、1920年代後半はナジーブの妻サーズィジュが責任編集をおこなった「女性のページ」の登場とともに、カルメル紙全体に女性解放運動への傾倒が強くみられるが、これに呼応してナジーブが「男性のページ」という一種のパロディコーナーをもうけ、男女同権社会構築のための啓発活動をおこなっていたこともわかった。ナジーブとサーズィジュの活動は不可分であり、次年度以降はサーズィジュを調査対象に含めることにした。
(2)パレスチナ・アラブ人コミュニティにおけるナジーブ・ナッサールおよびグレゴリオス・ハッジャールに対する認識の調査
グレゴリオス・ハッジャールについては、地元の研究者による講演会が開催され、キリスト教徒を中心に認知度が広まっている。しかしながら、彼がガリラヤ大司教在任中に記録を残していたとされる年報については、依然行方不明のままであり、研究の存続は事実上困難であることがわかった。一方、ナジーブ・ナッサールについては、ほぼ忘却されていることが確認できた。

2015年度活動報告

本年度はイスラエル国内、およびヨルダン川西岸地区内の研究機関および大学図書館に調査対象を絞り、以下の内容について調査を進めた。
(1)ナジーブ・ナッサールの全著作の所在の有無とその状態
調査の結果、全著作を所有している研究機関および図書館はないことが判明した。しかしながら、ナッサールが主筆をつとめたカルメル誌については、ハイファ大学とアル・クドゥス大学付属イスラーム文化研究所図書館、およびベツレヘム大学に所蔵が確認できた。その他小説や書簡集、エッセイ集については、ハイファ大学で一部のみ所蔵されている。カルメル誌の初期の連載記事をまとめた主著『シオニズム』については、アル・ナジャーハ大学図書館の特別保管室に所蔵されている。ハイファ大学のカルメル誌のマイクロフィルムは損傷が進んでおり、記事が部分的に欠落しているページも多い。これらはすでにオリジナルの段階で生じていた欠落であるが、欠落部分にナッサールの執筆箇所も多く含まれている。本研究課題において注目している、1908年~1920年の資料に欠落が多いのも問題点である。アル・クドゥス大学付属付属イスラーム文化研究所図書館とアル・アクサー図書館では、マイクロフィルムではなく現物が保管されているが、これも損傷が進み、閲覧に適した状態ではない。ベツレヘム大学には、カルメル誌の完全なコレクションが存在するが、機材の老朽化により現在は閲覧不可能である。
(2)データベース作成に向けての意見交換
ナッサール研究の第一人者であるベツレヘム大学のコスタンディ・ショウマリー教授、およびアル・クドゥス大学のハーレド・イヤーン氏と意見交換をおこなった。ショウマリー教授からは、データベースへの情報提供および監修の許可を得た。