大究竟思想の成立過程 (2004-2006)
目的・内容
本研究は、チベット仏教のニンマ派、及びポン教と呼ばれる宗教伝統において継承されている大究竟思想と呼ばれる宗教思想について、次の四つの段階を設けて、その成立過程を明らかにすることを目的とする。
- 大究竟思想の起源に関する歴史文献・諸言説の吟味:大究竟思想の起源に関する歴史文献・論文の研究を通じて、その異同を明らかにした上で、従来の学説を再検討する。
- 大究竟思想の初期形態の研究:大究竟思想の初期形態を明らかにするために、大究竟思想の最古期に属する典籍の精読・研究を行う。
- 他の宗教伝統との思想的影響関係についての研究:他の宗教伝統との影響関係について、特に中国禅との関係を中心に研究を行う。
以上3つの研究を総合的に吟味した上で、本研究の目的である(4)大究竟思想の成立過程について明らかにする。
活動内容
2006年度活動報告
古密呪派の大究竟思想は、従来の主要な学説では古代チベットにおける仏教移入後、仏教思想が中国禅の影響を受けて徐々に形成されたものであると考えられてきた。しかし中国禅との交流が活発になる以前に成立した古密呪派の初期大究竟典籍には既に今日の大究竟思想の中核的部分を見出すことができる。それ故、古密呪派における大究竟思想の思想的核心については、チベットへの仏教伝来以前に既に萌芽的思想の成立をみていたと理解されるべきであるとの知見を得た。
大究竟思想は11世紀頃に盛んになった新訳密教運動に刺激され、父・母タントラをはじめとするインド密教の諸実践を自身の宗教伝統の中に取り込むに到った。インド密教と大究竟思想の混在は、その後十分に整理・理論化されることが無かったため、古密呪派はその理論的齟齬について仏教諸派から批判を受けることになる。しかし14世紀になると古密呪派の代表的思想家であるロンチェン・ラプジャムの出現によって古密呪派の大究竟思想は新たな時代を迎えることになった。彼は大究竟思想と仏教思想との調和・融合の道を模索し、仏教思想との理論的齟齬を解消するかたちで大究竟思想の体系化を行った。
古密呪派における大究竟思想の成立過程には、同思想の「仏教化」への強い志向が認められる。こうした仏教化の傾向は、宗教思想上の要請によるものでは必ずしもなく、寧ろ大究竟思想をチベットの主要な宗教勢力である仏教伝統の中に位置づけることことで、古密呪派をチベット仏教の一教派として存続せしめるために為されたものであるという側面が強い。この意味において古密呪派における大究竟思想は、仏教思想から一定の距離を保って大究竟思想を体系化・継承したポン教とは異なっている。本研究では、一連の研究活動を通じて以上のような知見を得たのと同時に、今後の大究竟思想研究における、古密呪派とポン教の比較研究の重要性を確認するに到った。
2005年度活動報告
本年度は大究竟思想と中国禅との関係について研究を行った。先ず初期大究竟思想の形而上学における中国禅の影響については、ニンマ派の論書『禅定灯明』に中国の禅師の名が挙げられていること、また南宗禅系の教義である「体・用」、及び、法に聖・俗の二側面を設ける思想がそれぞれ、大究竟思想に見られる真理の三位相、及び清浄・不浄の顕現の教法と類似しており、また真理位相が自ずから生まれる(自生)という思想と類似したものが南宗禅にも見られること等から、両者の思想上の親和性は明かであり、大究竟思想がその初期段階において南宗禅からの影響を受けたことは疑い得ないと思われる。
しかし従来、大究竟思想と中国禅の共通性の中心が頓悟・無努力を説くことにあるとされてきた点に就いては、大究竟思想中期の代表的思想家であるロンチェン・ラプジャムの著作と資料として検討した所、幾つかの重要な変更が必要であるとの知見を得た。彼の著作においては、頓悟は真理位相と世俗位相が本来一であることを体得した者、乃至「上の機根」と呼ばれる優れた能力を予め持つとされる者のみにおいて可能とされており(『大車』等)、頓悟・無努力は特殊なものとして説かれている。また大究竟思想が「基・道・果」という修道段階を欠いていることによって、同思想を中国禅系であるとする見解が従来の研究に見られるが、基・道・果は『心性自己解脱論』・『真如の宝蔵』等においては明らかに認められるものである。
以上の研究から、ニンマ派の大究竟思想においては、その初期段階において南宗禅系の教義上の影響を受けたことは明かであるが、その初期と中期とでは幾つかの相違があり、とりわけ中期に於けるその体系化の過程においては、中国禅とは区別された独自の思想的発展を果たそうとする傾向が見られるとの知見を得た。
2004年度活動報告
本年度は大究竟思想史に関する研究、及び初期大究竟思想の研究を行なった。先ず大究竟思想史の研究に就いては、古密呪派が伝える諸文献にあたり、その多くがガラップ・ドルジェ、マンジュシュリーミトラという後期インド密教期に活躍した思想家にその起源を帰しているという知見を得た。従来の学説では、大究竟思想は主としてその教義上の類似という観点から、古代チベットにおける仏教移入後、仏教思想が中国禅の影響を受け形成されたものと考えられているが、チベットにおける仏教移入以前、即ち八世紀以前のインド密教の発達期に活躍した思想家の著作に、既に大究竟思想の初期形態と思われる記述が見られることから、大究竟思想の形成過程を見るためには、インド密教の発達期にみられるこうした大究竟思想の萌芽的思想と、その形成過程に影響を与えた中国禅の思想という、二つの観点を総合的に研究する必要があることを理解した。
また、初期大究竟思想の研究については、ヴァイローチャナの手になるとされる五書を中心に研究を行った。これらの典籍にみられる基本思想は、概念的思考からの超越、真理位相としての原基のあらゆる相対からの超越、修習における無努力の強調、取捨という概念からの離脱、現象世界の本来清浄性であり、後に体系化をみる大究竟思想の基本思想が既に素朴なかたちで表現されていることが分かった。また、これらの五書は今日では大究竟思想の心部の基礎文献と位置づけられているが、その中に既に界部・教誨部という形で分類される大究竟典籍に見られる思想の原形が見出されるとの知見も得た。従って、これらの初期文献が大究竟思想の形成過程において如何なる思想的変遷を経たかという問題については、さらに広範な典籍にあたり研究を継続する必要があることを確認した。







