国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

客員研究員の紹介

ダリマ・ツィビーコヴナ・ボロノエーヴァさん
Darima Tsybikovna Boronoyeva

紹介者:小長谷有紀(研究戦略センター教授)
ブリヤート人とは誰なのか?

ダリマ・ツィビーコヴナ・ボロノエーヴァさんは、ロシア連邦ブリヤート共和国のブリヤート国立大学歴史学科の上級講師を勤める、ブリヤート人研究者であ る。ブリヤート人は、ロシア連邦のほか、モンゴル国と中国内蒙古自治区の3ヶ国にまたがって居住するモンゴル系の人びとである。このうち、ロシアに住むブ リヤート人は17世紀後半以降、帝政ロシアの支配下に入り、ソビエト連邦を経て、現在、ロシア連邦内の1つの共和国とふたつの民族自治管区を構成してい る。
彼女は、1968年、ブリヤート共和国の東南部、モホルシビル区のクソータ村で生まれた。10歳のとき、姉の大学進学を機に、一家は共和国の首都ウランウ デに移住する。そして、唯一ブリヤート語教育のおこなわれていた民族学校に転入した。当時すでにブリヤート人たちの生活言語はロシア語であったが、この学 校では、数学、社会、物理などの一般科目をロシア語で学ぶと同時に、ブリヤート語とブリヤート文学も学ぶことができた。また、クラブ活動もさかんで、民族 舞踏や民族楽器にも親しんだ。こうして彼女は「母語」を「学校」という制度のなかで習得したのであった。

モンゴル人からの問いかけ

この10年制学校を主席で卒業した彼女は、経済学科への進学を希望していたが、叶わず、イルクーツク大学歴史学科に進学した。ここで彼女は、B.B.スビ ニーン教授と出会う。彼はロシア人でありながら、モンゴルを愛してやまない歴史学者であった。そして彼の指導のもとで、モンゴル人民共和国へ研修におもむ いた。草原では、天空に羽ばたくがごとき鹿の描かれた「鹿石」、おそらくは葬られている人をかたどったであろう「石人」など、散在する遺跡をめぐりなが ら、教授の解説を聞いた。
一方、ウランバートルでは、当時、技術援助のために滞在していたロシア人労働者から聞き取り調査をおこなった。スビニーン教授は「いずれ時は過ぎ、モンゴ ル人たちは私たちロシア人のしたことを忘れるだろう。なるほど良質の建物ではないかもしれないが、私たちロシア人はモンゴルのために尽くしたのだ。それを 記録しておきたい」と語った。そして、それはまさしく予言となって今日、的中している。
ただし、ダリマさん自身はむしろ、モンゴル人に対する一般のロシア人の抑圧的な態度を垣間見た。と同時にまた、モンゴル人のダリマさんへの不信感もかぎ とった。「あなたはなぜロシア人といっしょに行動しているのか?」「ブリヤートは(ロシアの支配下に入る以前は『ブリヤート・モンゴル』という名前だった のに)、なぜ『モンゴル』という言葉を抜き取ったのか?」といった質問攻めにあったのである。そして、彼女自身の問いが始まった。「ブリヤート人とは誰な のか?」と。

「モンゴル」あるいは「ブリヤート」

1991年、大学を卒業して、ウランウデ市に戻り、結婚し、しばらく育児に専念したあと、95年ブリヤート師範大学(現在の国立ブリヤート大学)の大学院 に入学する。L.L.アバーエヴァ教授の指導により、中国内蒙古自治区に暮らすブリヤート人の研究に没頭した。フィールドワークにもとづいて、彼らの多層 的なアイデンティティのさまを明らかにし、博士候補(Ph.D.に相当)の学位論文として「中国内蒙古におけるブリヤートの歴史と文化の民族誌的研究」を 書き上げた。
「ブリヤート人とは誰なのか?」という問いかけは今なお続いている。「現在のブリヤート共和国の若者たちは、自分のことをモンゴル人だとは思っていない。 単にブリヤート人だと思っている。こうした自己認識は、明らかにソ連時代に政治的に創られたものである。しかし、たった50年のあいだに『モンゴル』とい う言葉がなくなったのも不思議である。あるいは『ブリヤート・モンゴル』という言葉も作為的に創られたものなのかもしれない」と彼女は考える。歴史資料の 中から、どんな文脈で「モンゴル」あるいは「ブリヤート」と自称してきたのかを検証していこうとしている。

ダリマ・ツィビーコヴナ・ボロノエーヴァ
  • ダリマ・ツィビーコヴナ・ボロノエーヴァ
    Darima Tsybikovna Boronoyeva
  • 1968年生まれ。
  • ブリヤート国立大学(ロシア・ブリヤート共和国)文学部歴史学科上級講師。
  • 2003年1月から12月まで国立民族学博物館客員部門教授。研究テーマは、「モンゴル伝統文化の民族的差異化現象について」。
『民博通信』第102号(p.28)より転載