国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

客員研究員の紹介

文玉杓さん
ムン・オクピョ

紹介者:中牧弘允(民族文化研究部教授)
韓国における女性人類学者のパイオニア
出会いと経歴

文玉杓(ムンオクピョ)さんは韓国学中央研究院の教授である。勤務先はもと精神文化研究院と称し、朴正熙大統領の肝いりで創設された研究所である。李王室の蔵書を引き継ぐとともに、漢学や韓国の社会・民俗、そして人類学をまなぶ大学院生の教育にもあたっている。200人ほどの院生のうち人類学専攻は約1割の20人前後であるという。

文さんとの最初の出会いは1999年に民博で開催されたJAWS(Japan Anthropology Workshop)だった。わたしが組織した「現代日本の社縁文化」のパネルで川崎市の任意団体である「生活学校」「いたかの会」「平成ボランティア協会」について報告していただいたのが縁である。以来、そのパネルの英語および日本語による出版をとおして、またJAWS の後続の大会などで交流をかさね、今回、半年というみじかい期間ではあるが民博におよびすることができた。

文さんは小柄で、一見ひかえめな韓国女性である。だが、すこしつきあってみるだけで、その芯のつよさは容易に感知される。学歴をみると、韓国でも文化人類学が男性中心の新興の学問であった時代、1960年代末から70年代初頭にかけてソウル大学の人類学科にまなんでいる。ちなみに、人類学のコースは1961年に開設された。その後も大学院へ進学し、修士論文では韓国の家族計画の問題に取り組んだ。そして1975年にオックスフォード大学に留学し、日本語を勉強しながら、日本でのフィールドワークにそなえた。経歴から察するに、まさに韓国における女性文化人類学者のパイオニア的存在のひとりであったといえよう。しかも、筋金入りである。

長子をのこしてフィールドへ

そしてこのたび、本コラムのためにインタビューをして驚愕した。日本の奨学金を得て、オックスフォード大学に提出する博士論文の調査のために来日した時、生後1 カ月の長子を韓国にのこしてきたというのである。姑や実妹たちが世話をしてくれたそうだが、夫君も「留学をやめると一生後悔する」といって支援してくれたという。だが日本へのフライトでは涙にくれたと明かしてくれた。

その夫君は金光億氏。中国・台湾の人類学的研究で著名なソウル大学教授である。つまり人類学の縁で結ばれたおしどり夫婦というわけだ。だから理解があるのは当然だが、それにしても文化人類学という学問には、いくらフィールドワークのためとはいえ、私生活ではつらい犠牲を強いられる面がある。その後、オックスフォードで論文を仕上げるのに1 年かかったそうだが、そのときも幼少の息子の面倒は韓国でみてもらったという。金氏も台湾での長期現地調査があり、10年間の結婚生活のうち5年間はすれちがい、夫婦喧嘩をする暇もなかったと述懐しておられたが、特異な家族であったことはまちがいない。

群馬県でのフィールドワーク

日本では東京大学の文化人類学研究室に籍をおき、群馬県の片品村に16 カ月間住み込んだ。そこは尾瀬にちかく、山を越えると日光である。温泉があり、冬はスキー場でにぎわうが、もともと養蚕がさかんな土地柄だった。農家に下宿し、枝豆をもぎ、野沢菜を洗いながら、変貌する村を観察した。養蚕の手伝いをしているときにハチに刺され、手がふくれあがったこともあったという。囲炉裏が冬の生活の場から消えかけ、スキー場に仕事をもとめる時代だった。その成果はFrom Paddy Field to Ski Slope: The Revitalization of Tradition in Japanese Village Life(Manchester University Press, 1989)として公刊されている。

現在の研究

観光収入をあてにする日本の村落生活の調査はのちに韓国における日本人観光客の研究にもつながっていった。 目下取り組んでいるのは「西陣の文化史」である。また、日本の植民地時代の文化政策についても、とりわけ家族の比較文化の側面から研究をつづけている。これからも日韓の文化について、またその遭遇と交流について精力的に打ち込まれることを期待したい。

文玉杓 ムン・オクピョ
  • 文玉杓 ムン・オクピョ
  • 韓国学中央研究院、韓国学大学院教授。
  • 2006年9月から国立民族学博物館外国人研究員(客員)教授。
  • 研究テーマは、西陣織の文化史。
『民博通信』第116号(p.28)より転載