国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

在学生の研究内容 ヨトヴァ・マリア・イヴァノヴァ 平成21年度 海外学生派遣事業研究成果レポート


ヨトヴァ・マリア・イヴァノヴァ

海外学生派遣事業研究成果レポート

1. 事業実施の目的
博士論文作成に係る資料収集およびラズグラッド地域における補足調査

2. 実施場所
ブルガリア、ソフィアおよびラズグラッド地域

3. 実施期日
平成22年3月2日(火)から3月30日(火)

4. 事業の概要
 本調査は、ヨーグルトの生産・消費などについて統計資料を収集すること、地方の乳業会社で聞き取り調査をおこなうこと、および現代の人びとの日常食生活について調査をおこなうこと、この三点を主な目的とした。ヨーグルトの消費と生産に関する基本的なデータを確保するために、ソフィアにある乳加工工業会、国立統計研究所、国立栄養研究所を訪問し、資料収集をおこなった。また、ブルガリア人の食生活におけるヨーグルトの位置付けを明確にするために、一週間インフォーマントに日々のメニューに関して日記(Daily Menu Diary)をつけてもらい、首都ソフィア(18名)とカザンラク地域(22名)のデータを取得した。また、日記をつけてもらう以外に、協力者の一部に対して、彼らの食習慣や食生活についてインタービュー調査をおこなった。現段階では、データの整理と処理に取り組んでいるため、本報告では主に地方の乳業会社への調査について記述する。
  1. 調査地域
    (1.1) ラズグラッド地域
     ラズグラッド州は、北東ブルガリアの“風変わりな森”を意味するルドゴリエという地方に位置する。首都ソフィアから約400キロ、バスで5時間程度の離れた場所である。紀元前3世紀のトラキア古墳や古代ロマの遺跡などが数多く残っており、歴史学者や考古学者の関心を寄せている。ラズグラッド市と周辺の村では、もっとも特徴的な地元の民族グループカッパンツィは、7世紀にアジアから移住した遊牧民族のプロト・ブルガリア人の直接の子孫であり、スラブ系の民族とは交わっていないとされている。ブルガリアの民俗学研究では、伝統儀式、生活習慣、民族衣装、伝統料理などの面で、ブルガリアの他の地域の民族グループとは異なる文化伝統を持つと主張されている。現在、他の地方と同様に高齢化・過疎化が進むなかで、ブルガリア北東部住民にとっての文化遺産といわれるカッパンツィの儀式、歌、踊りの伝統や生活習慣の保存・普及活動が、2000年以降活発になっている。また、2001年から毎年7月末にヨーグルト祭りが開催されており、いまや本地域の最大のイベントとなっている。その背景には、また、2000年代以降に全国で広まった農村地域における地域振興の動きや、グローバルな傾向としてのオルタナティブな観光発展の影響がある。そこで、伝統食品や伝統料理の祭りをはじめ各地の特色を活かした行事が地域の自治体やNGOの主導で全国へ開発されてきた。ヨーグルト祭りの開催場所に関しては、ラズグラッド市近郊の村ゲツォヴォが昔から本地域において「自家製ヨーグルトをもっともおいしく作るという定評があることで定着したといわれている。
    (1.2) スモリャン地域
     スモリャン州(人口4万人弱)は、ソフィアから南西に約250キロの離れた場所、ブルガリアの南部を東西に走るロドピ山脈に位置する。古代トラキア人の神ロドパにちなんで名づけられたこの山脈では、竪琴の名手楽神オルフェウスが暮らしていたといわれている。平均標高は896m、最高峰は約2,200mであり、約1,400mと1,700mに準平原面が連なり、これを移牧に用いている。ロドピ山脈は長寿者が多い「長寿の山」として知られているため、放牧中の牛や羊が見える穏やかな山の風景は、国内の乳製品だけではなく、日本の「明治ブルガリアヨーグルト」をはじめとする中国や韓国の乳業会社の乳製品の宣伝にもよく出演している。ほとんどの家庭では牛や羊を飼い、自家菜園で作った野菜で食をまかなっている。ジャガイモや豆などの野菜栽培、プラムやリンゴなどの果樹栽培、羊と牛の牧畜が盛んである。社会主義体制下では、羊の頭数は現在の約5 倍であったが、1989 年以降の社会主義体制の崩壊によって、羊も牛も激減した。しかし、昔ながらのミルク加工技術が継承されているところもあり、他の地域では見られないロドピ地方ならではの伝統的乳製品が作られている。それは、希少価値と品質が高いものとして、全国で人気がある。またロドピ山脈には、壮大な渓谷と洞窟、きれいな湖、ブルガリアで最大規模の松林があり、夏はハイキングに、冬はスキーに最適であるため、四季を通して数多くの観光客が訪れる。
  2. 調査対象
     現代ブルガリアにおいて、247件の乳業会社があり、300程度のヨーグルトのブランドが存在している。そのなかで、ブルガリア全国へ販売を網羅できる製造業者は、10件にも至らない。製造業者のほとんどが、各地方における小規模な乳加工工場である。これまでの研究調査では、ブルガリアのヨーグルト食文化に大きな影響を与えている「伝統派」の国営企業LB社および、「革新派」のグローバル大手企業ダノン社を取り上げてきた。しかし、地方のヨーグルト製造業者で調査する機会はほとんどなかったため、そのような小規模の会社が、ポスト社会主義期におけるヨーグルト食文化の再創造プロセスにおいてどのような存在であるのか、また地域のレベルでどこまで影響を与えているのかについて考察することができなかった。したがって、今回の調査では、地方の会社に焦点をあて、会社の生産体制やマーケティング戦略、地域の行事や住民の活動とのかかわりを明らかにすることが、主要目的のひとつとなった。
     それを達成するために、調査地域である北東ブルガリアのラズグラッド州およびロドピ山脈のスモリャン州の乳業会社へ連絡をはかり、有限会社ステム・テズドジャンアリ(以下ステム社)およびロドパ・ミルク共同組合(以下Rミルク社)の協力を得た。具体的には、ステム社の社長、技術部長、生産担当者(合計4人)およびRミルク社の取締役、技術部長、チーズの職人、ホテルのマネージャー(合計5人)に取材をとることができた。
  3. 調査項目
     聞き取り調査の際に用いた質問項目は以下のような内容を含んでいる。
    * 経営方針(会社の設立、経営思想、従業員、業務の内容)
    * 生産体制(生産能力、原料調達、製品の種類、生産カテゴリ)
    * 販売戦略(マーケティング戦略、販売促進、宣伝・広報活動、流通・販売ルート)
    * 地域活動(現地の農家との関係、地域行事への参加、住民の活動とのかかわりなど)。
  4. 調査結果
     このような調査項目について、ステム社とRミルク社への聞き取り調査から明らかになったことを並べて要約し、小規模の乳業企業のビジネス戦略について考察をおこなう。
    (4.1) 経営方針
     ステム社は1999年にラズグラッド市において設立された、従業員7人の家内企業である。会社を代表しているのは社長のTezdjan氏(34才、ラズグラッド州出身)である。父親は技術部長として全体の生産プロセスを管理し、母親は原料品質の検査を担当する微生物専門家である。3人とも、かつて会社設立以前に、社会主義体制下において独占的地位を占めていた国営企業(D.I.企業)のラズグラッド地方セルディカ乳製品製造所に勤務していた。父親は生産部長という高いポジションであり、ポスト社会主義時代において、国営企業の業績の急速な悪化を契機に、新たな機会を求めて独立起業をはたした。会社設立にあたり、新たな設備購入のため多額な資金融資を必要としたが、「ブルガリアヨーグルトの古くから味を守る」という強い理念のもとでビジネスを開始した。また、ノーベル医学賞を受賞した免疫学者メチニコフが本地域のヨーグルトからブルガリア菌を発見し、長寿不老効果があると発表しているため、本地域で生産された牛乳のみを使用し、「消費者の健康に役立つ製品を常に届ける」という希望を抱いている。
     参入当初はヨーグルトマーケットに競合他社がセルディカ工場、ダノン社と他の乳製品製造所の二件とほとんど皆無であった。そこで、セルディカ工場で養成してきた技術能力をそのまま活用し、新たなブランド名で既存マーケットに食い込むことができたが、現在は競争他社がひしめきあい、激しい状況にあるという。また、他地域からのブランドも数多く参入してきているため、生き残りを掛けて新たな企業戦略を模索しているという。
     一方、Rミルク社は友人関係にある三世帯の協同事業で構成されており、1993年にスモリャン州のスミリャン村で設立された。従業員は22人であり、なかには社会主義時代においてD.I.企業で仕事の経験がある乳製品の技術専門家もいる。社長のMilkana氏(女、53 才)は元経済学者で、スミリャン村出身である。父親は、本地域において“The old master of cheese”(チーズの達人)だといわれている。Rミルクでは、Old Masterの伝統的技術ノウハウを大切にしながらも、高い衛生基準と厳しい品質管理システムを導入し、現地原産の牛乳・羊乳でロドピ山脈の伝統食品だけではなく、4種類のスイスやイタリアのチーズも製造している。事業の立ち上げ当初、西欧のチーズに強い魅力を感じていたが、ブルガリア市場にはそのようなニーズが当時存在していなかったため、ロドピ山脈の伝統的乳製品の製造からビジネスを開始した。「ブルガリア国内のために品質の高いチーズを広める」という高い理念のもと、スイス民間財団の6年間金利ゼロ資金融資と無償技術支援という新たな機会をうまく利用し、ロドピ山脈に製造工場を誘致した。それから新市場の創出に向けて注力し、同時にビジネスの新たな展開として、乳製品製造所の近隣で“Dairy House”という名前のゲストハウスも設立した。そこでは新規に訪れた観光客に対して現地原産乳製品や伝統料理を提供することで、ロドピ山脈の観光地としてのポテンシャルを活用しながら、チーズの口コミ効果を狙う活動も展開している。
     両社ともに小規模な会社であるものの、会社設立の契機は社会主義崩壊以降にブルガリア国内の乳製品マーケットの機会創出に向けて独自の着眼点でビジネスを展開している。その際、社会主義時代において国営企業のもとで蓄積してきた技術能力や職業経験に基礎を置きながらも、EUの品質基準および西欧の新規設備を導入し、ブルガリアの乳製品市場のニーズに合わせた商品を製造している。両社においても、「伝統の味」および「現代技術」というキーワードが会社のスローガンのようなものとなっており、「ブルガリアの消費者に常に品質の高い伝統食品を届ける努力する」という経営理念に深く根付いている。
    (4.2) 生産体制
     ステム社の生産設備はブルガリア国内およびEUともに検定証・認可証を取得済ではあるものの、原料となる牛乳は、地域の横つながりを重視し、EUの衛生基準を満たせないラズグラッド市近郊のセイドル村の小規模酪農家から調達しているため、国内のみの生産・販売に限定している。また、1日当たりの生産能力は1トンと低いため、国内以外に新たな販売チャネルを開拓する希望がない。同社の生産の80%はプレーンヨーグルトであり、2つの種類(乳脂肪の2.0%と3.6%)がある。設立当初は、羊乳と水牛のヨーグルトも製造していたが、羊・水牛の乳が牛乳よりおよそ2.5倍も高く、乳製品の最終価格も高いため、現地の消費者の購入力を超える「贅沢な食品」として販売が困難であると判断している。
     一方、Rミルク社は、1日あたりの生産能力は牛乳2~2.5トン程度であり、11種類と多様なチーズが主要な製品を取りそろえ、一部イタリアやスイスのチーズも生産している。原料となる牛乳および羊乳は芳醇な香りを放つ牧草の特徴から、ロドピ山脈においてお墨付きを得たものを50km圏内の兼業農家から調達している。しかし、この地域の農家も小規模でEUの衛生基準を満たしていないため、同社もステム社と同様に、生産設備に関しては検定証を取得しているにもかかわらず、国内限定で生産・販売している。
    (4.3) 販売戦略
     ステム社はヨーグルトを主に現地の中小規模の販売店(スーパーや食料品店)へ販売展開している。スーパーにおいては、チェーン店オーナーとの関係が重視され、店頭にいかに暴露スペースを確保するか、また販売促進のためにどのような価格協定を結ぶかが重要なカギとなる。一方、小規模の食料品店においては、店員の好みで消費者へ製品が販売されることが多いため、個人的なつながりが重要な決め手となる。また、現地原産のイメージを浸透させるためブランド名は「ルドゴリエ」というラズグラッド州が位置する地域の名前を活用している。販売当初はラジオを利用し、宣伝広報活動をおこなっていたが、効果が期待できないことに気づき、今では消費者の口コミ効果を最重要視している。最近では、ドナウ川の最も大きな町ルセや「黒海の首都」と呼ばれるヴァルナ市にもヨーグルト販売を展開している。
     Rミルク社はステム社とは異なり、小規模な小売店には販売せず、ソフィアなどの都市部大手流通業者のみに限定して販売活動をおこなっている。例外的に、乳製品製造所の近隣で設立された小さなゲストハウスのお土産シップにおいても限定小売販売をしている。また、チーズラベルには“ロドピ山脈の小さな女の子”という意味の「ロドピチャンカ」や「ロドピの恵」というブランド名で販売されている。ロドピ山脈周辺は長寿の村で有名であり、また新鮮なおいしさを消費者に浸透させるという意味で利用されている。広報活動は乳製品製造所およびゲストハウスのちらしやブロシュアを一部発刊しているものの、大半は都市周辺部から来る雑誌や新聞などのパブリシティーで資金を節約しながら宣伝されているという。その意味でも口コミ効果は非常に重要であるという。
    (4.4) 地域活動
     ステム社は昔からラズクラッド地域で開催されているヨーグルト祭りへの支援を通じて地域支援活動を積極的におこなっている。ラズクラッド地域では毎年手作りヨーグルトと伝統工芸を祝う「ヨーグルト祭り」が開催されており、ヨーグルトを対象とした写真展からヨーグルトの女王コンテストまで、ヨーグルト製造業者各社の展覧会からヨーグルトの冷製スープ「タラトル」の早作り競走まで、すべてにおいてヨーグルトが話題になる。本業時は手作りヨーグルトの達人である「おばあちゃん」の味がメインであるため、ステム社はダノン社なの大手のヨーグルト製造業者の展覧会には参加しないが、たとえば、「タラトル」の早作り競走のために必要なヨーグルトや、ラズグラッド市が祭りの開催時期中に市賓に出すヨーグルトのドリンクの提供をおこなっている。このように、ステム社はラズグラッド市の地域振興戦略への支持を示しており、宣伝効果よりも、地域との連帯の強化のために、背後から本行事を支援している。
     一方、Rミルク社もステム社同様、ロドピ山脈の南部・アルダ川の流域における観光開発を中心とした地域の活性化プロジェクトを支援し、積極的に参加している。ロドピ地域のスミラヤン村は豆の生産で有名であり、「豆祭り」というイベントが毎年開催されているが、本行事にも無償支援活動をおこなっている。また、「ミルク祭り」という最も奇麗なメス牛を選考するという一風変わったイベントの審査員としても参加し、ロドピ山脈の特産品として乳製品の提供もおこなっている。

5. 本事業の実施によって得られた成果
 本調査の成果は、大きく分けて3つあり、博士論文の執筆および研究発表と直接につながり、以下の通りにまとめられる。
 第一に、地方のヨーグルト製造業者のデータを獲得し、企業戦略やブルガリアヨーグルト食文化への影響について、大手企業との比較できるように準備を整えた。また、ヨーグルトの生産・消費に関してどのような研究がおこなわれてきたか文献調査によって確認できたと同時に、国立栄養研究所などの関連機関を通じて統計データも確保できた。
 第二に、今回の統計資料と聞き取り調査をもとに、11月を目標にして博士論文の執筆を進める予定である。論文の構成などについては多くの先生からコメントやアドバイスをしていただけるように、6月10日に論文ゼミで発表することにした。
 第三に、本調査の実施期間中に、ブルガリアの乳食文化を研究している国立民俗学研究所の研究者および大学院生と意見・情報交換をおこなうことができた。帰国後、その研究者と連絡をとりあい、文献などに関する情報交換をおこなっている。このような人的ネットワーク作りは、これからの論文執筆だけではなく、今後の研究展望を考えるうえでは、重要なものであると考えられる。

5. 本事業について
 文化科学研究科海外学生派遣関連事業によって資料の収集や短期フィールドワークの機会をいただき、とても感謝している。本調査の成果を社会に還元することも大きな責任として感じ、学界だけではなく、日本ブルガリア協会など、幅広い聴衆の前で発表の可能性を考えている。