国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

在学生の研究内容 大森裕巳 平成21年度 海外学生派遣事業研究成果レポート

大森裕巳

海外学生派遣事業研究成果レポート
1. 事業実施の目的

長期フィールド調査の予備調査


2. 実施場所

メキシコ合衆国ユカタン州メリダ市及び近郊村落


3. 実施期日

平成21年6月27日(土)から8月12日(水)


4. 事業の概要

 本調査は、「メキシコ・ユカタン地方におけるスペイン語とユカテクマヤ語の相互影響」に関する研究の予備調査として、主にユカテクマヤ語の言語使用実態について、2009年6月27日から8月12日までの約一ヵ月半の間にメキシコ合衆国ユカタン州メリダ市及び村落、そして首都メキシコシティにて行った調査である。

<州立自治大学付属地域調査研究所にて>
 6月27日から7月31日までの約一ヶ月間はメリダ市内の州立自治大学付属地域調査研究所人文社会部にて、ユカテクマヤ語を母語とするイラリア・マース・コリー (Hilaria Maas Collí) 教授のもと、主に音声特徴についての聞き取りをはじめとしたユカテクマヤ語の言語特徴についてインタビューを行った。マース・コリー教授は言語教育に積極的に取り組んでおり、現地の一般の人や外国人研究者を対象としたユカテクマヤ語の会話授業を行っていた。ユカテクマヤ語の教育現場に関して聞き取り調査及び実際に視察を行ったところ、この授業の受講者は年々増えており、さらに数年前までは外国人受講者が多かったのに比べ、近年では現地の一般人、特に大学生や高校生など若い世代が自発的に受講をしている傾向があることがわかった。
 また、スペイン語を母語とするものがユカテクマヤ語を学習する際に、どの分野で一番理解しにくいかとの質問には、主に動詞の活用や統語論の分野で躓く傾向が強いと説明して下さった。更に、この地域出身のスペイン語母語話者はユカテクマヤ語の発音(主にリズムとイントネーション)にさほど苦しむことなく習得するが、メキシコ国内の他地域出身のものは音声面での習得に時間がかかるとのことだった。
 マース・コリー教授は母語としてのユカテクマヤ語使用を推進する他、マヤの伝統文化の伝承を目的とした様々なイベントを主催、支援していた。その中の一つとして、私の調査期間中7月10日に、メリダ市近郊のフヒにて、ユカタン州立マヤ文化促進機関主催で先住民言語や文化の促進に関するイベントが行われた。イベントは案内放送から司会まで全てユカテクマヤ語で行われた。村のほとんどの住人が参加していた。ユカテクマヤ語でのジョークやなぞなぞクイズなど観客参加型のイベントであったが、参加者ほぼ全員がユカテクマヤ語を理解しているようであった。しかしながら、報告者が周りにいた同世代の女性3人に「あなたは(ユカテク)マヤ語を話せますか」と問うたところ、スペイン語で「ユカテクマヤ語は聞いて理解することはできるが自分が話すことは出来ない」との回答を得た。その他の場面でも、報告者が聞いた限りでは、彼女らは仲間同士で専らスペイン語で話していた。

<メキシコ国立自治大学付属半島人文社会科学研究所>
 8月1日から8月6日はメリダ市内にあるメキシコ国立自治大学付属半島人文社会科学研究所にて最近のマヤ語研究動向について文献資料収集を行った。更に、ユカテクマヤ語研究者であり地域内のフィールドワークも数多く行っている同研究所のバーバラ・ファイラー (Barbara Pfeiler) 教授にお会いすることができ、以下の点について助言を頂いた。
 これまでの研究では、ユカテクマヤ語は話されている地域面積が広いにも関わらず、地域内の言語方言がほぼ存在しないとしているものが多い。しかし、ファイラー教授のフィールドワーク経験によると、ユカテクマヤ語に地域方言が存在する可能性が挙げられた。しかしながら、ユカテクマヤ語の単一言語話者数は減少傾向にある上、近年の経済・交通の発展により地域内での人の移動が激しくなっており、地域内の言語変種の差がどんどん小さくなっていることも危惧されている。ファイラー教授によると、ユカテクマヤ語の方言調査は早急に行われるべきである、とのことであった。
 その後、ユカテクマヤ語に地域的な言語差があるかという点に関して報告者が4人の母語話者に質問したところ、「地域によって話し方が異なる」との回答がほとんどであった。前出のマース・コリー教授も「ユカタン地域内には大きく分けて3種類の方言がある」と回答した。但し、この場合、彼らのいう「話し方」や「方言」は主にイントネーションについての違いであったことを付け加えておく。

<ユカタン州東部の2村における言語使用に関する聞き取り調査>
 ユカタン州には生業の種類が地域によって区別される。主に、メキシコ湾沿岸部では漁業、州都メリダ付近を含む中央部はエネケン栽培地域、東部はとうもろこし栽培、南西部は果物栽培であり、現地の一般の人によると東部のとうもろこし栽培地域は他地域よりもマヤ伝統を色濃く残しユカテクマヤ語の使用率も高いと言われている。報告者はファイラー教授と共にユカタン州東部に位置するショケン (Xocén) 村とヤルコバー (Yalcobá) 村の2つの村を訪問した。この二つの村は州都メリダ市からは高速道路を使って車で約2時間のところにある。2村は互いに村道を使って車で約20分離れている。

・ショケン (Xocén) 村にての調査
 調査中に訪問したショケン村は、生業をとうもろこし栽培としている地域にあり、ユカタン州の中でもマヤ文化や伝統が色濃く残っている。報告者が見た全ての女性は昔からの伝統的な上衣ウィピルを着ていた。村にある家屋は昔ながらの様式の萱葺の屋根と床面が楕円形の様式が圧倒的に多い。コンクリートブリックを使った家屋もいくつか存在するが、その場合も奥には萱葺屋根の伝統的な様式があった。
 ショケン村では、村の公立図書館の司書A氏の自宅をファイラー教授と共に訪問した。最近の初等教育における言語教育の実態と子供たちの言語使用実態を探るために、A氏とその家族に、子供たちの学校では何語を教えているか、また子供達は普段何語を使っているか、について聞き取りを行った。家族全員母語はユカテクマヤ語であるが、父親であるA氏及び小学校五年生の長男はスペイン語で報告者に話しかけた。母親と小学校三年生の次男及び五歳の長女はユカテクマヤ語のみで話した。しかし当方がユカテクマヤ語の理解に困難を示すと母親と長女はスペイン語で話しかけた。次男のみ、スペイン語を話すのが恥ずかしいと言い、結局スペイン語では一度も話さなかった。A氏によると、次男の小学校ではユカテクマヤ語教育強化プログラムが導入されて、特にユカテクマヤ語教育に力を入れているとのことであった。初等教育によって兄弟で本人による言語に対する意識が異なるという実態を観察することが出来た。

・ヤルコバー (Yalcobá) 村にての調査
 ショケン村から車で約20分のところにあるヤルコバー村を訪問した。ここでは両親、長女(15歳)と長男(8歳)の4人家族の家をファイラー教授と共に訪問した。ここでも子供たちの言語使用の実態を聞くことを目的として訪問した。家族全員母語はユカテクマヤ語である。母親はファイラー教授もしくは報告者がスペイン語で質問をすると、それを特に通訳などを介さずに理解した上でユカテクマヤ語で返答をし、それを長女がスペイン語に通訳するかたちで会話をした。長女はスペイン語を聞く・話す能力も高く、ユカテクマヤ語は会話の中にあまり出て来ないが、彼女が母親と話す時は全てユカテクマヤ語である。長男はあまり会話に入って来ないが、「スペイン語はわかるが話すのは恥ずかしいのでイヤだ」と発言していた。父親はファイラー教授と報告者に話す時はもっぱらスペイン語であった。ちなみに彼はユカタン半島の一大リゾート地であるカンクン市で建築現場の労働者として出稼ぎに行って家計を支えていたが、今年観光客が激減してから仕事が減り、現在は失業しているとのことであった。彼によると、ヤルコバー村の男性は同じようにカンクンに出稼ぎに行く人が多いという。もともとの生業を離れて近郊の大都市への出稼ぎに行く等、村落部から都市部への人の移動が以前より活発になっていると考えられ、ファイラー教授の見解の一例を見ることができた。

<メキシコ国立自治大学文学部マヤ研究センター>
 最後の8月7日から10日までは首都であるメキシコシティに移動し、メキシコ国立自治大学文学部内にあるマヤ研究を専門とするマヤ研究センターで文献研究を行い、必要な文献を複写するとともに、マヤ言語学および社会言語学に関する最近の論考について、論文雑誌や文献を入手した。

 

5. 本事業の実施によって得られた成果

 今回の派遣によって実現した現地予備調査に得られた主な成果は、a. 言語状況の把握、b. 言語教育実態、c. 方言研究の必要性、の三点である。

  1. 言語状況の把握
     今回の調査はユカテクマヤ語を対象としているが、以前私が現地調査を行った2005年よりもユカテクマヤ語の使用・保存の必要性について地元の人々の意識が大きく変わっていた。以前はユカテクマヤ語を、スペイン語の一方言にとどまると認識していた人も多く、言語としての地位の確立すらも曖昧であったのに対し、今回の調査ではマース・コリー教授への聞き取りからもわかるように、ユカテクマヤ語の授業に地元の中高生なども積極的に参加する等、ユカテクマヤ語の重要性がより幅広い層に認識されていることがわかった。
     また、マヤ文化・言語の保存や促進に関するイベントも2005年には開催されても州都メリダだけで行われていたのが、今回は近郊の村落部でも多く開催されていた。マヤ文化や言語に対する現地の意識が強まっているという印象を強く受けた。以前は、メリダにおいてのみ調査を行っていたため、ユカテクマヤ語が村落部では実際にどの程度使用されているのか実感できていなかったが、今回の調査で都市部を離れたところでは実際にユカテクマヤ語が広く理解されているということを改めて実感した。それと同時に、ユカテクマヤ語しか理解しない・話せないモノリンガルは主に報告者の親の世代に限られ、その他のほとんどの人はスペイン語とのバイリンガルであることも実際に確認出来た。
     今回の調査では、ユカテクマヤ語を取り巻く最新の言語使用状況の実態を調査出来た点からも博士論文研究においてこの部分の更なる考察が可能になった。
  2. 言語初等教育実態
     ショケン村での聞き取りにより、村落部における初等教育の言語教育の影響をみることが出来た。インフォーマントとして協力して下さったショケン村のA氏一家の例では、次男の小学校でユカテクマヤ語教育強化プログラムが導入されて、ユカテクマヤ語教育に力を入れているとのことであった。A氏の子供たちの中では、その結果長男に比べて次男のスペイン語の成績があまり良くないという。中学校進学時の内申点にはスペイン語の成績のみが適用されるため、今後の進学を考えるとスペイン語の方に力を入れてほしい、というのが両親の意見であった。ちなみに長男は普通のカリキュラムでスペイン語を学び、成績も良いため特に問題にはしていなかった。
     村落部の初等教育において、母語であるユカテクマヤ語の授業は受けてはいるが、その後の進学のための成績評価にはつながらないので、初等教育の段階でスペイン語の習得を優先したいという意識があることが示唆される。近年見られる単一言語話者の減少と二言語併用話者の増加の背景の一つと関連付けられると考える。
     博士論文研究ではユカテクマヤ語のモノリンガル減少傾向、そしてバイリンガルへのシフト傾向についても論じる必要があるので、本調査で得られた結果は今後も考察を重ねて発展させていく必要がある。
  3. 方言研究の必要性
     従来の研究では、ユカテクマヤ語は地域内での言語の高い均質性が特徴として挙げられてきた。確かに、ユカテクマヤ語の話者同士であれば地域が異なっても意思疎通に問題はなく、ユカテクマヤ語には方言差はない、との認識は存在する。しかし、今回のファイラー教授の指摘からも、度合いは大きくはなくても、方言が存在していることが示唆された。ユカテクマヤ語については実に多くの研究がなされているが、ユカテクマヤ語の方言になると研究は未だ不十分である。
     本調査のヤルコバー村の出稼ぎの話からもわかるように、現代の半島において人口の大部分が職を求めて都市部や観光地に移動している中、話者数が減少傾向にあることも加えて、ユカテクマヤ語の方言研究は早急に研究をしなくてはならない課題であるといえる。ユカテクマヤ語は話者数から考えると決して絶滅の道をたどっているとはいえないが、地域方言についてはこれから更に減少していくと考えられる。
     今回私が行った予備的な聞き取り調査によると、ユカテクマヤ語母語話者からの「話し方が異なる」という意見など、地域的方言が存在するという意見があったのも事実である。ファイラー教授は地域的な方言差がスペイン語との接触度合いに関係している可能性を指摘していたが、まずは全体的な実態調査が必要であると考える。今まで、ユカテクマヤ語にはほとんどないとされてきた地域的方言であるが、この実態調査が進めば言語変化や分布を歴史的な観点とも合わせて論じることも可能になり、博士論文研究の大きな主軸になる。
     この方言研究については、今回現地調査に行かなければ掴むことの出来ない実態であったため、本調査の中で得られたもっとも大きな成果であった。