国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

特別展「大正昭和くらしの博物誌 ─ 民族学の父・渋沢敬三とアチック・ミューゼアム」

Attic Museum Collection


近藤雅樹「民博誕生の礎」
(『月刊みんぱく』2001年2月号掲載記事)
近藤雅樹(企画展実行委員長)
 
 アチック・ミューゼアム(Attic Museum、略してアチック)は、大正時代に学生がつくりました。日本語にすると「屋根裏博物館」でしょうか。実際、屋根裏だったのです。六本木や麻布、慶応大学にも近い東京港区の三田綱町にありました。

【image】  学生の名は渋沢敬三(1896~1963年)。東京帝国大学経済学部に在籍していました。少年時代から生物学者にあこがれていた彼は、集めていた標本を自宅の車庫の屋根裏に陳列していました。そこに小学校以来の親友たちも、それぞれの「コレクション」をもち寄ったので、化石や郷土玩具もならんでいました。こういうと「博物館ごっこだったんだな」とおもわれるでしょうね。その通りです。でも、この「ごっこ」がなければ「民博誕生」もなかったのです。
 というのも、現在、民博にはアチック・ミューゼアムのコレクションを核にして形成された旧日本民族学会附属民族学博物館所蔵資料が約21,000点収蔵されており、このうちアチックによる収集資料は半分以上あったと推定されるからです。

【image】  学生たちは立派に成長し、社会人になりました。同級生のうち、ふたりは大学教授になり、敬三自身も日本銀行副総裁・総裁を経て49歳のとき幣原内閣の大蔵大臣に任命され、第二次世界大戦で荒廃した日本の経済復興に貢献しました。もっとも、敬三の功績は財界人としての活動だけにはとどまりません。学術研究の偉大なパトロンでもあったのです。庶民生活の調査研究にはげむ若い研究者たちをたいせつにおもい、彼らを育てるために莫大な私財を投じました。敬三の援助を得て大成した研究者は数えきれず、アチック在籍中の研究が認められて博士号を取得した人たちだけでも、10人を越えています。
 アチックには、大勢の若者たちがやってきました。敬三は彼らと夜更けまで議論することを好み、斬新な着想による問題提起をおこなって若い頭脳に刺激をあたえることも怠りませんでした。しかも、彼自身、多忙な公務の合い間をぬっておおくの論文を執筆してきた研究者だったのです。

 アチックにきた若者たちのなかには、自分は就職したのではない、アチック大学に入学したのだと表明した人たちがいます。「アチック大学民具学科」と記した人もいます。敬三はそのオーナーであり、おおくの逸材をみいだして育てることに成功した名伯楽でした。「日本民族学の父」とたたえられるゆえんです。

 この展覧会はアチック・ミューゼアムの歴史と民具の数かず、そして渋沢敬三とその仲間たちを再発見するために開催します。


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