国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

みんぱく世界の旅

点字で世界旅行(3) 『毎日小学生新聞』掲載 2015年2月21日刊行
広瀬浩二郎(国立民族学博物館准教授)
日本で最初の盲学校は京都

凸型京街図(明治時代、目の見えない生徒たちがさわって学習した京都の町の地図)=京都府立盲学校提供
 

若き日を過ごした町

東京に住んでいた僕は京都の大学に進学し、一人ぐらしをはじめます。大学生、大学院生、さらには研究員として10年以上、京都に住んだので、新しい友達もたくさんできました。まさに、京都は僕にとって第二のふるさとといえます。

京都は横(東西)と縦(南北)の道がはっきりしており、目が見えない僕でも歩きやすい町です。自分のアパートから京都駅まで、一人で1時間ほど歩いたこともよくありました。あのころは学生だったので、時間がたっぷりあったのですね。10年住んでみて、京都の町は学生にやさしく、若者を見守り育てていく気持ちがあふれていると感じました。今でも京都に行くと、僕が20代のころに考えていたこと、夢をなつかしく思い出します。

日本で最初の盲学校は1878年、京都でつくられました。明治時代のはじめのことです。江戸時代、目の見えない人たちはあんま(マッサージ師)や音楽などの仕事をしていました。昔から彼らは文字に頼らず、音や声、あるいは手などを使って生きてきたのです。平清盛や源義経が活躍する「平家物語」は、目の見えない人たちが琵琶という楽器の伴奏に合わせて語り、伝えてきたもので、今日でも多くの日本人に愛されています。


34歳の古河太四郎さん=明治12(1879)年撮影、京都府立盲学校提供

盲学校誕生の背景

江戸時代までの目の見えない人たちの生活は安定していました。しかし、明治時代に入ると、彼らのくらしは苦しくなります。一般の人が学校に行くようになったのに、目が見えない人は受け入れてもらえなかったのが原因です。まだ日本に点字がなかったので、目の見えない人にどうやって文字を教えればいいのか、だれもわかりませんでした。

そんなとき、京都に目が見えない人、耳が聴こえない人を教育する学校ができます。古河太四郎という先生がさまざまな工夫をして、目が見えない、耳が聴こえない子どもたちに読み書きを教えたのです。京都に盲学校ができた歴史の背後には、古河先生の努力だけでなく、後輩や仲間を見守り育てる京都の町の「心」があったのだと僕は思います。


点字が発明される前に、目の見えない生徒たちが文字の形を覚えるためにつくられた「木刻凸字」=京都府立盲学校提供

あんまや音楽など、盲学校の教育は仕事に結びつくものからはじまりますが、他の科目の教科書も少しずつ充実し、今日では盲学校から大学に進学する生徒も増えました。現在、京都府立盲学校の資料室には、130年以上の間、「目が見えない人を育てる」ためにつくられた教具・教材が大切に保存されています。それらの資料にふれると、学びたい生徒たち、伝えたい先生たちの熱い夢を指先で感じることができるでしょう。

 
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