国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵―武蔵少年、学に志す

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─ ところで、立川さんがこういう研究に入られた最初のテーマが、空思想だったということなんですけれど、それがどういうものなのかということを、ちょっとご説明ねがえませんか。むずかしいお話しのようですが(笑)。
立川 はい。空思想というよりも、わたしがどうしてこういったことに興味をもったかということをお話した方がわかってもらえるとおもいます。わたしは名古屋の東海学園という浄土宗立の高校を卒業をしたんです。浄土真宗ではなくて浄土宗なんです。そこはかつては浄土宗の僧侶養成学校だったんです。それで、学校には仏教の本がたくさんありましたし、先生方が、浄土宗ばかりではなかったんですが、僧侶の方が非常におおかった。ですから、中学校、高校のなかに、宗教的な雰囲気があったんです。中学校のときに、西川玄苔という社会科の先生がおられまして、仏教のことをなにも知らないわたしたちに、聖徳太子の十七条憲法と天台の「一念三千」の哲学は関係があるなんてことを授業でいっておられたんです。たまたま、わたしはちょうどその頃、法隆寺の管長の佐伯という人の本を偶然に古本屋でみつけましてね、その人がそのことをいっていたんですよ。「先生はこの本のことをいってるんだな」とおもったんです。まあともかく、中学校にはたくさん本がありました。法華経というのものに接したのは、中学のときでした。一念三千というのは、法華経に根ざした哲学ですから。そのあたりで、もうそのような興味はあったとおもうんですよ。
高校に進みましたら、林霊法という先生がおられました。この人は後に、百万遍の知恩寺の法主になられた人です。この人は、戦前、新興仏教青年同盟という日本で仏教系で唯一反戦運動をした団体の第二代会長になって、警察に捕まりまして1年半くらい拘留された人です。この人が、当時、わたしたちの高校の校長をされておられた。この方はもちろん浄土宗のお坊さんですが、東大の哲学科出身でした。『現代思想と仏教の立場』という本もありますけれども、仏教が現代においてどのような思想をもちうるかということを熱心に説かれた人なんです。この人の思想的なバックボーンは華厳経なんです。ぼくは、この人は戦後の日本の仏教史に登場する人だとおもうんです。そんな人がちょうどおられた。
─ 本格的な仏教教育の環境のなかにおられたわけですね。
立川 ええ。週に一回ずつ、法然上人の話などの授業がありました。林霊法という人は、ニーチェやキルケゴールのような実存主義でもダメだし、マルクス・レーニン主義でもダメなんだ、仏教というものが思想としていいんだ、と熱っぽく説かれていた。ちょうどそのときわたしは高校生で、それに影響を受けたのです。それが、わたしがこういうことをやりはじめた出発点なんですね。母校の東海高校にはその頃宗教研究部というのがありまして、こういう雑誌もだしていました・・・。
(冊子をみせていただく。)
ここには1958年と書いてありますでしょう。その頃ぼくは高校1年だった。ぼくは中学から伝説に興味があったんですよ。どうしてはまったのか知りませんけど、ここでアマテラスオオミカミの研究をしている(笑)。
 
─ ありますねぇ(笑)。すごい大論文ですねえ。
立川 エジプトの死者の書とか、アイヌのユーカラとかと比較したり、いわゆる比較民族学的なことをやって、最後に西田幾多郎を引いたりして・・・(笑)。高校生でこわいもの知らずでしたから。
─ すごいなあ(笑)。
立川 この頃から比較民族学的な興味があったと自分でおもうんです。いま振り返ると、こういう神話とか伝説を比較するということへの興味をこの頃からもっていたんじゃないかとおもいます。こちらは1959年、高校3年生のときのですが、東海高校のいろんなクラブの機関誌が一冊になってるんです。278ページですからね。こんな小さい字。これを高校生がつくっていた。
 
─ いやー、充実してますね。この「十七条の研究」につての論文を高校生が書いたんですか。これはすごいなあ。
立川 伊勢湾台風の記録もありますね。ぼくが高校3年のときですね。このわたしの原稿のなかで、わたしはハイデッカー、ヤスパース、キルケゴールを向こうにまわしましてですね、書いている・・・。やっぱり、若かった(笑)。もろもろのものは神なんだとここでいってるんです。天台の思想は諸法実相ですから、いろんなものがそのものの姿で、真実の姿なんだという考え方でしょう。つまり、神というものはいない。仏教ではだいたい神というのはいわば内在していると考える。汎神論的な考え方です。そういったことをここに書いてるんです。こういうものをみまして、それから進んでないなあとおもうと同時に、だいたいこのときにもう決められているなあとおもいます。
 
─ ここには「すくなくともわたしは悪をなすことをよろこぶものです・・・」と書いてある(笑)。
立川 高校3年生ですから・・・。そういう雰囲気のなかで育ったわけですよ。そのあと、どれほど進むことができたのかはわかりませんけれど、ここで方向は決まったような気はしますね。
 
─ それで大学に行ったら仏教をやると決めていた・・・。
教養部生の頃
立川 その頃まで、大学に入ったら医者になれといわれていたんです。わたしもそのつもりだったんですけれども、いやになりまして、大学に入ったらインド哲学をやると決めていたんです。名古屋大学に入ったときには、上田という唯識の仏教哲学の先生と、北川という仏教論理学の先生がおられたんです。もうひとつには、高校2年生のときに、法華経の研究をしていたということも大学に入って仏教を学びたいとおもった原因のひとつであったような気がします。
 
※写真:教養部生の頃

 
【目次】
マンダラとはなにかマンダラを観想する武蔵少年、学に志す「中論」研究 ─ 空と色インド思想 ─ 実在論と唯名論の闘い世界が神の姿であるというインド的世界観ヒンドゥー教と図像実践としての宗教近代と日本仏教私有財産をどう考えるか「癒し」の共同研究癒しと救いの違い浄土とマンダラの統合