国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

国立民族学博物館研究報告

国立民族学博物館研究報告 2017 42巻2号

2017年12月28日刊行

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目次

 

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概要

論文

 

 

なぜ宇治川の鵜飼においてウミウは産卵したのか
―ウミウの捕獲作業および飼育方法をめぐる地域間比較研究
卯田宗平

 本稿の目的は,京都府宇治市の宇治川の鵜飼を対象とし,鵜小屋で飼育されていたウミウが2014年5月に産卵した要因を明らかにすることである。既往の鵜飼研究においてウミウの繁殖を取りあげたものはなかった。それは,鵜飼のウミウが産卵し,孵化したという事例がなかったからである。本稿では,茨城県日立市十王町におけるウミウの捕獲作業や,日本各地の鵜飼におけるウミウの飼育方法にかかわる調査を実施し,宇治川の鵜飼でのみウミウが産卵した要因を検討した。その結果,(1)新たに購入するウミウのサイズ要求,(2)日々のウミウの飼育方法,(3)繁殖期前の巣材の存在という三つの要因がウミウの産卵に関係していることを明らかにした。この結果は,日本の鵜飼においてウミウの産卵がみられない要因を明らかにしたことにもなる。この成果を踏まえ,さらに本稿ではこれまで日本の鵜飼においてウミウの繁殖がみられず,中国の鵜飼ではカワウを繁殖させる理由を検討した。そして,ウ類(ウミウやカワウ)の捕獲のしやすさ/しにくさという要因が日中両国の鵜飼におけるウ類への働きかけに違いを生みだしていると指摘した。

1 問題意識 2 京都府宇治市の宇治川の鵜飼について
3 ウミウの産卵から孵化までの過程と鵜匠たちの働きかけ
4 宇治川の鵜飼でウミウが産卵した要因
  4.1 新たに購入するウミウのサイズ要求
  4.2 日々のウミウの飼育方法
  4.3 繁殖期前の巣材の存在
5 考察―なぜ日本と中国の鵜飼においてウ類への働きかけが異なるのか
6 結論

* 国立民族学博物館人類文明誌研究部

キーワード:鵜飼,宇治川,ウミウ,カワウ,繁殖

 

 

ロマンティストであり,リベラリストである
―「柳田国男」の自己創造
竹沢尚一郎

 日本民俗学の創始者柳田国男については多くの研究がある。しかしその多くは,柳田が日本民俗学を完成させたという終着点に向けてその経歴を跡づけるという目的論的記述に終わっているために,民俗学も民族学も存在していなかった明治大正の知的環境のなかで,柳田がどのようにして自己の学問を築いていったかを跡づけることに成功していない。
 彼の経歴を仔細にたどっていくと,彼が多くの挫折と変化を経験しながらみずからの人生と学問を自分の手で築いていったことが明らかである。青年期には多くの小説家や詩人と交流しながらロマンティックな詩を書いた詩人であり,東京帝国大学で農政学を学んだあとの十年間は,日本農業の改革に専念したリベラリスト農政官僚であった。その後,1911年に南方熊楠と知り合うことで海外の民族学や民俗学を本格的に学びはじめ,第一次世界大戦後は国際連盟委員をつとめるなかで諸大国のエゴイズムを知らされて失望し,それを辞任して帰国したのちは日本民俗学の確立に邁進する。こうした彼の人生の有為転変が彼の民俗学を独自のものにしたのである。
 柳田がようやく彼の民俗学を定義したのは1930年ごろである。それは,隣接科学(=民族学)との峻別と,民俗学独自の方法(データの採集方法)の確立,社会のなかでのその役割の正当化,研究対象としての日本の特別視という4重の操作を経ておこなわれたものであった。英米の人類学はとくに1925年から1935年のあいだに理論と実践の両面で革新を実現したが,すでに自分の民俗学の定義を完了した柳田はそれを取り入れることをしなかった。彼の民俗学は,隣接科学や海外の学問動向を参照することを必要としない一国民俗学になったのであり,隣接科学との対話や交流という課題は今日まで解決されることなく残っている。

はじめに
1 柳田国男の文学
2 リベラリスト農政官僚柳田国男
3 南方熊楠の影響と山人論の放棄
4 祖霊一元論と民俗学の成形
おわりに

* 国立民族学博物館名誉教授

キーワード:柳田国男,日本民俗学,南方熊楠,農政学,文化ナショナリズム

 

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