国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2006年6月号

2006年6月号
第30巻第6号通巻第345号
2006年6月1日発行
バックナンバー

エッセイ 世界へ≫≫世界から
受難のバオバブ
湯浅浩史
 サン=テグジュペリの名作『星の王子さま』は、内藤濯(あろう)氏の訳で長年親しまれてきた。それが原作の著作権保護期間が昨年切れ、新訳が倉橋由美子さんを初め、池澤夏樹氏、三野博司氏、小島俊明氏、また、原文どおり『小さな王子さま』の題で山崎庸一郎氏と、相次いで出版された。
 王子さまの言葉を借りて、サン=テグジュペリの理想、生き方が語られる物語は、心に響く。二〇世紀後半に世界でもっとも愛読された文学のひとつであろう。
 ただ、わたしにはひとつ不満がある。星をこわす恐ろしい存在として、バオバブが書かれている点。バオバブは「恐ろしい種子」で、王子さまは毎朝芽を出した苗を引き抜くのを日課にしているという。
 現実のバオバブは決してそうではない。多目的有用植物で、重宝されている。樹皮はロープや屋根材、外皮は胃薬に、大きな堅い果実は容器になり、種子の周りのパルプ質は甘酸っぱく、そのまま菓子として食べたり、水で溶かして飲む。マラウイではそのジュースが市販されているほど。種子からは油がとれ食用や化粧品になり、葉は野菜にされる。特にマリでは葉を摘みやすいように低く育てて貯え、乾期にはその乾燥葉を料理に使う。
 昨年訪れたオーストラリアでは指ほどの太さの実生(みしょう)苗が野菜として売られていた。そして何より堂々とした樹は、アフリカで、マダガスカルで、オーストラリアで、迫力ある景観を演出し、太い枝や幹は住民に暑い日中、日陰を与えてくれる。崇(あがめ)められる聖木も少なくない。
 住民にとっては大切なバオバブだが、王子さまの星とはまったく相反する問題を抱える。次世代が育っていないのである。
 バオバブの発芽には高温と十分な水分を必要とする。地球温暖化で気温の上昇という問題認識が行きわたったが、もっと深刻なのは、雨の降り方である。特に乾燥地で定期的に雨が降らず、年によって片寄る現象が起こっている。もともと少雨の地域なのに雨期に雨が降らない年があり、大変である。
 バオバブは成木になると一年間降雨がなくても耐えられるが、乾燥下では種子は発芽せず、少雨では幼木は育たない。
 加えて放牧のための野焼き。成木は火に耐えても、幼木はひとたまりもない。それにマダガスカル西部ムルンダヴァのバオバブが林立する観光名所は、異常気象の巨大サイクロンで大木が次々と倒れ、くしの歯が抜けたようになってしまった。アフリカではゾウが乾期に牙で樹皮をはがし、水分の多い材を食べ、傷めつける。
 地球のバオバブも受難の時代を迎えている。


ゆあさ ひろし/1940年神戸市生まれ。東京農業大学農学部大学院修了。東京農業大学教授。(財)進化生物学研究所主任研究員。専攻は民族植物学、進化学、植物文化史。農学博士。著書に『花おりおり』など多数。

特集 病い
「病いは気から」といういい方がある。気分が悪ければ「病気」になり、気分がよくなれば「病気」でなくなるというわけだ。「気」が原因なら、気の元である「元気」を取り戻せば気分はよくなるに違いない。これは、漢方医学による解釈である。わたしたちにとっての身近な病いや、世界各地の不思議な病いを取り上げ、多様な「病い」のあり方について紹介する。

文化としてのかぜ
近藤 英俊
かぜとcoldは違う病気?!
 かぜはわたしたちにとって、もっともなじみのある病気のひとつである。日本人は一年間に平均五、六回はかぜを引くといわれている。さらに世界的に見てもかぜはよくある病気だと一般に思われているだろう。しかし医療人類学的にいえば、「かぜ」は世界中の誰もが引く病いだとはいえないのである。
 学校の英語の授業で、かぜのことをcoldと習う。実際わたしたちはイギリスやアメリカに滞在中かぜを引くと、現地の医師や友人に向かって「I've got a cold」などと言えば、相手はその意を十分汲んでくれるように見える。ところがこのコミュニケーションは微妙な誤解のうえに成り立っている。日本で医師などの専門家でない普通の人びとが経験するかぜと、同様に英語文化圏の普通の人びとが経験するcoldは、じつはまったく同一の病いとはいえないのである。
 医療人類学者で医師でもあるヘルマンの研究によれば、ロンドン郊外に住むイギリス人にとってcoldとは体温が低いと感じる病い、つまり文字どおり寒さの病いである。彼らはcoldが外界の寒さが肌をとおして身体のなかに浸入することで生じる病いだと考えている。coldの共通の症状は上半身の寒さであるが、それに鼻水、痰(たん)、あるいは下痢などの水分を伴うwetなcoldと、これらを伴わないが悪寒のひどいdryなcoldのふたつのタイプがある。この症状の違いは原因である外界の寒さの性質の違いとも対応している。wetなcoldは雨に濡れたせいで生じるものであり、dryなcoldは冷たい風にさらされたせいでかかるものである。つまりcoldはwetとdryという相反する要素によって分類されている。
 興味深いことに、この二項対立的な認識はcoldという病いの概念的な枠組みそのものにもかかわっている。coldはそれと正反対の要素をもつ病い、feverと対で認識されている。fever、すなわち発熱は、わたしたちにとってはかぜの典型的な症状のひとつであるが、coldの症状として認識されることはない。feverの原因はgerm、すなわち黴菌(ばいきん)が他人から感染し、口、鼻、肛門などをとおり体内に入って生ずると考えられる。「Feed a cold, starve a fever」といういいまわしがあるように、coldの治療としては温かい食べ物や飲み物を摂ることが推薦されるが、対照的にfeverを抑えるには食事は控えめにすることが求められる。栄養は黴菌にとっても栄養となると考えられているからである。

二〇〇種以上のウィルス
 したがって、かぜとcoldは概念的に重なる部分があっても同一のものとはいえない。これらの病いは、それぞれの地域で人びとが社会的に構築した概念であり感じ方である。いい換えれば病いには文化的な側面がある。文化としての病いは地域的に多様であると同時に、歴史的にも変化する。かぜは風邪とも記すがそれには根拠がある。今では単なる気象現象にすぎない風は古来「可畏(かしこ)きもの」、すなわちカミであった。この風のなかには邪気をおびたものがあり、それを浴びた者がなった病いが「風」だったのである。「風」、「風邪」、「風疾(ふうしつ)(中風)」などの病いの神秘性は江戸時代末期にはまだ残っていたことが文献から確認できる。
 以上のように人びとが病いをどう感じ、認識し、そして対処するかは地域ごとに多様であり歴史的に変化する。確かに近代医療は今日グローバル化し、人びとの病いをめぐる経験はその大きな影響下にある。しかしその発展著しい日本でさえ、わたしたちは医師とまったく同じように病気を認識しているわけではない。かぜはじつは、医学的にはひとつの疾病とはいいがたいものである。特定の病因(ウィルス、細菌など)とそれがもたらす症状がひとつの疾病を形成するという見地からすると、かぜは二〇〇種を超えるウィルス起源の疾病によって構成されている。つまり「またかぜを引いた」と認識したとしても、今回罹患(りかん)したのは前回とは異なった疾病であるかもしれないのだ。こうした認識の相違はそう簡単になくなるものではなかろう。いや、そもそもなくすべきであろうか?

糖尿病を生きる
浮ヶ谷 幸代
“いのち”の指標
 日本人の六人に一人は糖尿病であるといわれるように、糖尿病は誰でも知っている身近な病いである。今日、糖尿病は自覚症状がなくても血糖値の異常によって「病気である」と診断される。わたしが糖尿病に興味をもったきっかけは、自覚症状がないのに「病気である」と診断されるのは、いったいどんな感じなのだろうと思ったからだった。それも、痛いや気持ち悪いという症状ではなく、血糖値という単なる数字が病気の根拠とされるのは、いったいどういう経験なのだろうと思ったのが、糖尿病研究の始まりである。
 調査を始めたころ、糖尿病になって二〇年以上経つ四〇代の男性に「あなたは病気だと思いますか」と聞いたことがある。すると、「病気なんかじゃない。いたって健康だよ。仕事に夢中で病院に行かなかったときの方が病気だった」と答えていた。彼は、現在一週間に三回透析に通い、強度の視覚障害を抱えながら生きている。彼は合併症のある身体で透析用の食事を自分で用意し、わずかな視力でカンを頼りに電車に乗ってクリニックに通って来る。血糖のコントロールは、主治医からもお墨付きで模範的な数値を維持している。彼にとって数値は、身体の状態を示すだけでなく”いのち“の指標だ。一日四回測定する血糖値は、一日の食事量と運動量、そしてインスリン量を決定する重要な数値なのである。彼にとって、血糖をコントロールすることは人生の生きがいとなっている。
 また、患者会で知り合った六〇代の女性は、もともと血糖コントロールが不安定な体質のため、食前の血糖値を推測できるようにと医師から言われている。「それって、どんな感じなんですか」と聞いたところ、「自分の身体を外から感じるもので作っていく、研ぎ澄まされるような感じかな。自分をどう見ていくかがコントロールをよくすることになると思う」と答えてくれた。また、「糖尿病だと言われたとき、どう思いましたか」と聞くと、「どうして私だけって・・・。でも、今はいろんな人の力を借りて、自分のいちばんいい生き方をどう求めていこうか、と考えている」と話してくれた。彼女にとって、糖尿病になったことは不幸な出来事だったけれど、自分の身体に真剣に向き合うなかで、今まで経験しなかった身体感覚をあらたに発見したり、自分の生き方を見つめなおすきっかけとなっている。
 五〇代のある男性は、医者から見れば明らかに治療指導の対象となるような高い血糖値を示す記録票を見せてくれた。彼は、「今以上に低い血糖値を目指したら、ストレスになるし、仕事に集中できない。だから今のままでいい」と言う。彼は、医師が決めた「将来のためのQOL(生活の質)」ではなく、「今を生きるためのQOL」を選んだというわけだ。彼は、病気に関する専門書は手当たりしだい読みこなすほどの勉強家である。彼にとってのQOLは、血糖値と合併症との関係を十分理解したうえで、将来と今とを天秤にかけた結果なのである。

人生の軌跡を描く
 糖尿病という病気は、「コントロールさえしっかりしていれば健常者と同じ」といわれるように、「病気である」と「病気ではない」とのあいだでつねに揺れ動く病いである。病いをめぐる苦悩は、「わかっているけれどできない」という食欲のコントロールの難しさや、「糖尿病になってつきあいが減った」という社交のできない辛さも生み出している。また、糖尿病であることが偏見、差別の対象となって、学校に入れなかったり就職できなかったりすることもある。病いの経験はそれぞれの人生の軌跡を描き出しているのだ。

アトピーを病むということ
余語 琢磨
ギリシャ語の「奇妙な」
 今ではよく知られるようになったアトピー性皮膚炎ということばは、「奇妙な」という意味のギリシャ語に起源があるという。これは、命名当時のアメリカで、原因が複雑多岐にわたって特定困難なアレルギー疾患と考えられたことによる。研究が進んだ現在も、発症のメカニズムは十分に解明されず、病院における治療は皮膚炎を外用薬でコントロールする対症療法が中心となっている。
 当初この疾患は子どもに多く、思春期には消失するとされていた。ところが日本では、しだいに有症者の年齢層が上昇して慢性化・重症化する「成人型」が増え、一九八〇年代末から一九九〇年代にかけては社会問題にすらなった。顔や手足の重い症状、耐え難いかゆみや増悪時の痛み、ステロイド剤の副作用などをめぐるセンセーショナルな報道や、本屋に山積みにされた関連書を覚えていらっしゃる方も多いだろう。

「文化的病い」
 では、アトピーの問題はすべて、医療への不信感をめぐる、医療者と患者の対立というよくある図式に回収されてしまうのだろうか。
 病者の語りに注目すると、むしろその苦悩の多くは、より広い人間関係・社会生活のなかに生じている。見知らぬ人の好奇と嫌悪の混ざった視線、電車で隣りに人が座ってくれないこと、クラス内のいじめ、接客業からの配置替え、友だちや異性との離別、親に対する心のきしみ、「アトピービジネス」と総称される各種代替え療法の誘惑、偏ったイメージを増大しかねないマスメディアの報道、治療に必要なグッズの購入に伴う経済負担…。
 それゆえ病者は、羞恥心や孤立感、自己嫌悪や無力感を抱え、増悪時には自宅へひきこもりがちになる。退学や離職に至るケースも少なくない。
 ある病気に対する「世間」の無理解、ネガティブな意味づけ、偏見や差別、社会的受け皿の欠如、効果のあやしい商法の跋扈(ばっこ)は、決して過去のことでも遠い世界のことでもない。それは、わたしたち自身の心と社会に潜む問題であると、病者の語りは伝えている。
 アトピー性皮膚炎は一九七〇年代から世界各地で増加し始め、今や日本における有症率は小学生で一〇パーセント、大学生で八パーセントを超えた。また、発症は工業国や都市部に集中する傾向にある。そのため、住まいや食べ物といった生活様式の変化、環境汚染に伴う「文明病」との指摘は重く、病因探求の裾野はきわめて広い。
 しかし同時に、日本におけるアトピー病者の多くの苦悩が、生理的な炎症そのものからずれたところで生起している事態も、もっと注目されてほしいと思う。見知らぬ人・医療者・知人・家族との関係や、学校・職場・病院・営利団体・メディアのありようのなかで、病者のアトピーをめぐる経験は、不可避的に「奇妙な」意味づけを伴って形作られてしまう。すなわち「アトピー」を病むとは、重篤(じゅうとく)な「文化的病い」に冒されることと同義なのだから。

伝統薬の力
 右のくるぶしに残る古い傷あとを見るたびに、伝統薬で救われた思い出がよみがえる。
 今から二〇年ぐらい前、ミクロネシアのヤップ島で発掘調査をしていたときのことである。くるぶしが化膿して腫れ上がり、歩行にも支障を来したことがある。素人療法で抗生物質を塗ったり飲んだりしたが、いっこうに腫れが引かない。しかたなく島にひとつしかない近代的病院を訪れたが、消毒して塗り薬をくれただけでまったく効果があらわれない。そうこうするうちに抗生物質に対するアレルギー反応で目まで腫れ上がり、発掘作業を中断せざるをえなくなった。
 見かねて「ヤップの薬」をためしてみないかと声をかけてきたのは、土器を作ってくれていた六二才の女性だった。藁(わら)をもすがる思いと、民間医療がどれほど効くのかという興味から、ふたつ返事で治療をしてもらうことにした。
 すぐに藪のなかへと消えた彼女は、長さ三メートルもの木の枝を担いで戻ってきた。桜のようなその葉を一〇枚ほど丸め、その辺にあったハンマーでたたいてつぶす。ハンマーや床の汚さも気になったが、彼女は指を洗うこともなく、葉の絞り汁を患部にたらして絞りかすをなすりつけただけ。次の日にはあれほどしつこかった腫れが少し引いた。患部をぎゅっと押して膿を出した後、再び葉を絞って汁をかけ、すべての治療は終わった。
 徐々に快方へと向かうなかで、民間医療の強みとは、患者がおかれた環境のなかで蓄積されてきた経験知と、それを施術する者への患者の信頼だと感じた。

ムスリムの「邪病」
澤井 充生
 中国西北部の回族(かいぞく)のムスリム(イスラーム教徒)社会には、「邪病(シエビン)」という病いがある。ある日突然、不可解なことばを発したり、挙動不審になったりすると「邪病」だといわれて忌避(きひ)される。西洋医学でも東洋医学でも治療できないせいか、往々にして死者の霊魂(ルーフ)の仕業による「異常な病気」だと説明されることが多い。
 こうした「邪病」を施療(せりょう)できるのは、清真寺(モスク)の伝統的な宗教指導者ではなく、バーバとよばれる呪医である。バーバ自身も「邪病」の体験者であり、聖典クルアーンを朗誦(ろうしょう)したり、お香の煙の状態を観察したりするなどの自己流の方法で病因をつきとめる。バーバの診断後、病者の家族がクルアーンを朗誦して死霊の平安を祈念すれば、「邪病」は治癒し二度と発症しないという。
 イスラームの死生観では、人間は死後、復活の日によみがえり、アッラーの審判によって来世の行き先(天国か地獄か)が決定される。そのため、回族の霊魂観では、生者が復活の日まで死者の平安を祈念しなければ、死者が天国に行けなくなるという観念が根強い。死者に対する生者の恐怖心が死霊の呪力を生み出し、その呪力が生者の心身状態を悪化させる。これが「邪病」の論理なのだろう。
 こうした展開を見ると、じつは「邪病」は死霊の呪力ではなく、生者の想像力によって生み出される病いなのではないかとついつい疑いたくなるが、それは「邪病」にかかっていないわたしの「邪推」なのだろうか。

黄色の日
 マレーシアの先住民オラン・アスリの村には、「黄色の日」がある。「黄色の日」とは、夕方になるとあたり一面がオレンジではなく黄色に染まるように見える日のことだという。人びとは、「黄色の日」には霊が徘徊しており、うっかり外出すると霊が体内に入ってしまうと信じている。あるとき、わたしは、「黄色の日」が原因で病いが起こるという話を聞いた。
 「黄色の日」が原因で亡くなった女性がいた。村の人びとはマラリアだと思い彼女を病院に連れて行ったが、結局亡くなってしまった。彼女の父親であるカルという老人も「黄色の日」の病いにかかったことがあった。カルは体内に霊が入り込み、三日間食事を摂れなかった。断続的な発作に襲われ、意識を失い身体をガタガタと震わせた。周りの者が押さえつけられないほどの震えであった。村の呪医に診てもらったがよくならなかったので、村のリーダーで強い呪力をもっているバティンが施療することになった。バティンは呪文を唱え、クミヤンとよばれる芳香性の樹脂に火をつけ、その煙をカルの耳の穴や頭のてっぺんから吹き込んだ。そして、独自に作った薬用オイルをカルの身体に塗った。するとカルはにっこり笑ってバティンに握手したという。彼の意識は回復したのである。
 この話を聞いた後、わたしも「黄色の日」を経験した。黄色く染まった景色があまりにも不気味だったので、日が沈むまで、わたしは家でじっとしていた。

病いを創り出した開発
石井 洋子
 アフリカの第二の高峰、ケニア山(標高五一九九メートル)の麓に美しい水田地帯が広がる。ここでケニア最大の近代的な灌漑(かんがい)開発プロジェクトが展開されており、一九九〇年代には三〇億円近い日本のODA資金が投入された。
 通常、こうした開発最先端の地では医療ネットワークが充実し、公衆衛生プログラムをきめ細やかに実施していると想定されるだろう。水田で働く人びとは、計画された社会生活のもとで安全な生活を営んでいると考えられる。しかし、わたしが、そこに暮らすギクユの人びとの村でフィールドワークをおこなったとき、彼らは開発が原因とでもいうべき幾多の病気に苦しんでいた。灌漑水路が張りめぐらされたことで、水を媒体とする熱帯病が蔓延していたのである。
 村に水道はなく、人びとが生活用水をとる水路は、家畜の水飲み場や洗濯場をも兼ねていた。そのため、水を十分に煮沸しないで飲んだ場合、腸チフスの感染率は異常に高く、たとえば川の水を用いる密造酒の常飲者(年配の男性)の多くは病いに伏していた。住血吸虫病も多く、村で出会った男性は、皮膚を貫通して体内に入り込む住血吸虫を避けるために、足にガソリンを塗って水田に入っていた。マラリアは、もはや慢性疾患ともいえる。診療所は、村から六キロメートル離れたところにしかない。
 灌漑開発は、豊かな実りを生み出したと同時に、多くの病気をもたらした。近代的な灌漑システムの暗は、開発を支える人びとの人生そのものを脅かしている。

未来へひらくミュージアム
墓場としてのミュージアム
宮下 規久朗
本来あるべき環境をなくし
真の意味を失ったモノを収容することが、
ミュージアムのもつ意義である。
祀られたモノと対話し、
永遠の命を与える。死と再生の場、
墓場としてのミュージアムこそ
生き続けるといえよう。

真価を失う切花展示
 初めての土地を訪れたとき、博物館や美術館があれば必ず行くことにしている。そこに行けば、その地の文化や歴史についての概略を手早くつかむことができるからだ。しかも、ガイドブックのような表面的な情報にとどまらず、展示されたモノをとおしてもっと本質的な知識を与えられることもある。ミュージアムの真価は、情報よりも本物のモノに出合わせてくれることにある。ミュージアムとは、博物館であれ美術館であれ記念館であれ動物園であれ、モノを見せる装置である。情報をえるにしても、モノと対面することは、書物や映像からえられるのとは違う臨場感とある種の緊張感を伴うものだ。
 しかし、そういったモノも本来の力を奪われて、いわば無菌化されていることが多い。モノは、当初それが置かれていた環境や文脈から切り離して移送され、ミュージアムに収蔵され展示されることによって、ミュージアム独自の文脈に組み込まれる。そして観客はその文脈に沿ってモノを見ることを強いられる。ミュージアムの文脈とは、その地域の歴史や美術史、民族誌や自然観といった、西洋の近代的な価値観に基づいた思想である。展示されたモノはこうした文脈のなかで輝くこともあれば、本来もっていた豊かな意味を喪失して萎縮(いしゅく)することもある。つまりミュージアムとは、野原で咲いている花を切りとってきて枯れないように保存処置を施し、分類にしたがって展示するような施設にほかならない。近年注目を集める世界遺産のように、広大な地域全体をミュージアム化させて当初の場所でモノを見せる試みが増えてきているのは、そうした切花展示への反省からであろう。

本来の文脈で見せる
 わたしは仕事の都合上しばしばイタリアに行くが、いつも感じるのは、美術鑑賞の本拠地と思われているかの国では、ミュージアムは意外に少ない、というか重要ではない、ということである。ミュージアムに収められていない遺跡、建築、美術であふれており、それがこの国の文化的豊かさを証しているように思われる。ミュージアムを必要としないということは、モノが本来の環境で生きているということだ。「街自体が博物館」という惹句(じゃっく)をよく聞くが、街が歴史的なモノや環境をよく保存しているということであり、同時に、街が時代に乗り遅れて現代的な活力を失っているということでもある。
 モノが、保存や展示のために博物館・美術館に送られるのは仕方のない場合があるが、モノ本来の場所に残して見せてくれる方が望ましい。
 たとえば宗教美術の場合、保存や防犯のために美術館に移され、収蔵・修復されて展示されることが多いが、本来の場所である教会で見る方が生き生きと見える。美術館の方が照明も明るく、きちんとしたキャプションもあって他の展示品との関係から美術史的な位置づけもよくわかる一方、教会の祭壇に飾られている絵は薄暗くてよく見えず、キャプションも説明もないが、その場合の方が観者に雄弁に語りかけてくれるのは間違いない。香が立ち込め、聖歌が流れ、老婦人が一心に祈る薄暗い宗教空間にあってこそ、それは生きるのである。美術館に収蔵・展示された宗教美術は、祈りの対象という本来の文脈を剥奪(はくだつ)されて美術史や文化史の体系に無理に組み込まれた一種の標本になってしまっているのだ。しかも、画家は通常、作品がどのような明るさで、どのくらいの高さに設置されるか、観者はどの地点からそれを見るのか、などについて考慮しながら制作するため、当初の空間にある方が美術館の明るい空間よりもよく見えるのが当然である。

教会や遺跡のミュージアム化
 イタリアでも最近は、祈りの場である教会が美術鑑賞の重要なスポットであることを認識し始めたのか、教会自体をミュージアムに再編成する傾向が進んでいる。多くがすでに教会の機能を果たさなくなったものだが、入場料をとって拝観させるのだ。当初設置された環境のなかで作品を見ることができるので、ミュージアムのなかで見るよりはよいが、祈りの場という機能を喪失したため、香や聖歌や祈る人の姿などはなく、何かが足りないように感じられる。ただ、開館時間もはっきりし、計画的に見学できるので旅行者にとってはありがたい。先日ナポリを訪れたのだが、いくつもの教会が整備されてミュージアム化されており、道案内の看板まであった。かつてのわかりにくさと観光客をはねつけるような無表情さを思い起こすと、隔世の感があった。しかも昔から何度訪れても閉まっていた教会ばかりであり、今回六度目にしてやっと見ることのできた教会もあって嬉しかった。
 保存や防犯上の理由で本来の文脈に置いておくのが無理で、どうしてもミュージアムに移送する必要がある場合には、本来の場所にレプリカを置いておくというやり方もよいだろう。屋外の遺跡などで一般的におこなわれている手法だが、現在の技術によるレプリカは精巧なので指摘されなければわからないものもある。
 マルタ島の世界遺産である巨石遺跡をめぐったとき、神殿の内部に豊穣の女神像を見つけ、その力強いフォルムや生命力に打たれたことがあった。しかし、その後、首都ヴァレッタにあるマルタ国立考古学博物館を訪れると、同じ女神像がケースのなかに展示してあり、先ほど見たのがレプリカだったのに気づかされた。しかも遺跡のなかにあったものはかなり復元されており、本物はもっと損傷が激しいものであることもわかった。しかし、裏切られたという気持ちはなく、たとえレプリカであっても、あの遺跡のなかで、自然環境のなかでその像を見ることができてよかったと思ったものである。大事なのは、ミュージアムの文脈だけでモノを見ないで、当初の環境のなかでとらえることであろう。もっとも、マルタの巨石神殿群は土中から掘り起こされた遺跡であり、現在はいずれも屋外ミュージアムとして入場料をとって見せるようになっている。にもかかわらず、そしてそのなかの彫像や祭壇のいくつかがレプリカに置き換えられていようとも、青い海を見下ろし、黄色い花が咲き乱れる自然も含めて環境がそのまま保存されているのが貴重なことである。親切な解説パネルとともに出土品の多くが展示されている国立考古学博物館は、こうした遺跡を補完する資料庫にして情報センターにすぎない。

モノのための静謐な空間
 では、一般的な箱もののミュージアムは、保存・修復という守りの側面以外の意味はないものだろうか。ミュージアムは、本来の環境が失われてしまったモノや、出所不明のモノを収容する役割を担っている。故郷を喪失し、当初の意味を失ったモノはミュージアムの展示室にこそ安住の地を見出すのだ。「博物館行き」というのは役に立たぬ骨董を指すのに用いるが、「博物館はモノの墓場である」といういいまわしもよく聞く。ミュージアムにあるモノは死物(しぶつ)であり、ミュージアムは墓場にほかならないが、それゆえに独特の雰囲気が生まれるのである。墓場や霊廟(れいびょう)には、宗教施設特有の厳粛な空気と緊張感が漂っているが、よいミュージアムには必ずそれがある。墓地は死者と対話し瞑想する場であるが、ミュージアムも死んだモノを弔うことから、墓地としての空気が生じ、祀られたモノがそこで永遠の命をえるといえないだろうか。そもそも芸術は死と結び付いており、あらゆる芸術作品は死を扱ったものと見ることができる。また、芸術とは畢竟(ひっきょう)、宗教と等しいものであるため、博物館や美術館が墓場に類似するのは当然なのである。一八三〇年、ベルリンでシンケルがヨーロッパ最初の美術館のひとつアルテス・ムゼウムを建てたとき、内部をパンテオンに模した空間としたのは、それが美術作品の霊廟であるという認識からであった。
 近年、各種イベントやミュージアムショップ、レストランなどによってミュージアムを開放して親しませようとする試みがさかんである。それは、ミュージアムを都市の文脈に適合させることであって、大都市にあるミュージアムはその方向で活動したらよいだろう。しかし、あらゆるミュージアムがその方向を目指す必要はないと思う。デパートのように騒がしくなることがミュージアムの活性化につながると考えるのは間違っている。そんなうわべの活性化よりも、死者の声に耳を傾けることができるよう、静謐(せいひつ)な空間を作り出すほうが大事である。墓場にはそれにふさわしい澄み切った静穏な空気が要求される。モノの霊場としての荘厳な雰囲気、つまり宗教性にも似たものこそが、ミュージアムに永続的な生命を与えるのではなかろうか。ミュージアムはもう終わったのではないか、という疑念をよく聞くが、ある種の廃墟が美しいように、終わったものだからこそ生き続けると言えよう。

表紙モノ語り
サンニ・ヤカーの仮面
 仮面(標本番号H93093、高さ/26.0cm 幅/24.5cm 奥行/27.8cm)
鈴木 正崇
 スリランカのシンハラ人の多くは、上座部仏教徒であるが、さまざまな神霊や悪霊の存在を信じている。一般に、人びとは病気になると、西洋医学の病院で診断と治療を受けるが、同時に伝統医療であるアーユル・ヴェーダの医師にもかかる。この双方の効き目があらわれない場合には、神霊の罰に当たったことや、悪霊(ヤカー)や死霊(プレータ)がとり憑く障り(ドーサ)が原因として疑われ、神霊との交渉をおこなうカプマハッタや、悪霊を祓うヤカドゥラーなどの職能者に相談に行く。特に、南西部では、病因が悪霊の障りと判断されると、仮面を用いた悪霊祓いの病気治療がおこなわれる。
 表紙の写真は、悪霊の一種のサンニ・ヤカーの仮面で、一八種類の病状をもつ悪霊のひとつとされる。引き起こされる病気(ローガ)には、腹痛、悪寒、高熱、眼病、喉の痛み、手足の麻痺、骨の痛み、目と耳の衰弱、皮膚の疾患、精神の乱れなどがあり、一八種類の病状のひとつを仮面であらわしている。悪霊祓いでは、ヤカドゥラーが異なる表情の仮面を被って、依頼人の患者の前に次々に登場し、自分の病状を示し、軽口を叩き、食べ物を患者からもらい、患者の身体から離れていく様子を演じる。笑いとユーモアを通じて精神が解放されて人びとの絆が結び直される。悪霊の障りは、実際には心の病いが多く、特にタニカマ(孤独な状態)で起こるとされ、女性の患者が大半を占める。
 近代化が急速に進むなかで人びとの抱える問題も多様化している。神霊や悪霊との交渉能力をもつ人びとも、世襲による伝統的な儀礼をおこなう者だけでなく、アールーダ・カプマハッタと称する仏教の解釈に合わせて儀礼を再編成し、神懸り能力を誇示する者も出現した。現代の癒しの専門家としてあらたな変貌を遂げようとしている。

みんぱくインフォメーション
  友の会とミュージアム・ショップからのご案内

万国津々浦々
パレスチナ―「ハラスメント」からの解放
池田 有日子
 二〇〇四年八月、東エルサレム周辺をパレスチナ人のガイドに案内してもらった。まず、車に乗る前にイスラエルの区役所の前をとおった。彼は、先日娘の小学校入学の手続きをしに行ったところ何時間も待たされたことを話し、「このような”ハラスメント“は日常茶飯事だ」と語った。次に周辺に張りめぐらされた分離壁に連れて行ってくれた。その分離壁には、半ば意図的に隙間が造られており、パレスチナ人はその狭い裂け目をとおって通勤、通学をしていた。それは誰にでもとおれるような裂け目だった。テロリストの侵入阻止が分離壁建設の理由であるならば、このようなずさんな造りはありえないだろう。パレスチナ人は「これもハラスメントだ!」と力説した。彼と話していると、この「ハラスメント」という言葉をよく聞いた。
 わたしは、当初この言葉に何か違和感を覚えた。日本語に訳したときの「嫌がらせ」という言葉を連想し、パレスチナ人の歴史や現状を考えると何かそぐわない気がしたからだ。しかし、ハラスメントという言葉を「他者を傷つけることで、自らの不満、トラウマ、ルサンチマン(恐恨)を解消しようとする試み」と解釈すれば、パレスチナ人にとっては、日常的な行政の遅滞、侮蔑的で差別的な眼差しや言葉、扱いから、不当逮捕、空爆、虐殺に至るイスラエルの行為は、すべて同一の根のものとして認識されていると理解できる。
 別の日には、ヨルダンとの国境にあるパスポートコントロールへ行く機会があった。そのとき、横に座っていたパレスチナ人と話をした。彼は兄とともにアンマンでのビジネスから帰ってきたところであり、兄だけ取り調べを受けているとのことだった。結局、パスポートコントロールが閉まる間際まで話は続いた。
 彼はヨルダン川西岸のイスラエル占領地パレスチナ自治区にずっと住んでおり、政治活動をおこなった咎(とが)で一九八八年から一九九二年までの四年間投獄されたが、今は政治活動からまったく足を洗っていることなどを語った。そして、政治的な問題について話がおよぶと、「結局、アラファトはイスラエルとアメリカとアラブ諸国のカードにすぎない(注・アラファトはこの三ヵ月後の一一月に死亡)」「我々は自らの手による自由を望んでいただけだ」と吐き捨てるように言った。それは、イスラエルの占領とパレスチナ自治政府統治下で生きたパレスチナ人のひとつの本音なのだろう。
 そのとき、家族に渡す山ほどのアンマンのお土産を見せてくれた。そののち「君はいくつ?」と聞いてきたので「三×才」と答えた。「結婚は?」「していません」「ボーイフレンドは?」「いません・・・」「そんなことで一〇年後、二〇年後どうするんだ!」。わたしは、ここがどこなのか、どういう会話の流れにあるのかよくわからなくなり、「そうですね・・・」と答えるしかなかった。彼は兄がようやく出てきたため腰を上げ、「ヨルダンかトルコに移民しようと思うんだ。それがイスラエルの手なのはわかっているんだけど・・・」と言った。
 彼には守るべき家族があり、パレスチナの悲惨な現状を考えるならば、他の地へ移民することがよりよい幸福な選択なのだろう。しかし、直接受けた暴力の傷や、また暴力に屈したという負い目と屈辱から解放されることはないだろう。兄と一緒に帰って行く彼を見送りながらそう思った。

時論 新論 理想論
民博シンボルマークのひみつ
 本誌の読者は民博のシンボルマークの形をよくご存じに違いない。輪のなかに花びらのような波打つ円を配したこのマークは、民博創設の三二年前、勝井三雄氏によってデザインされた。
 シンボルマークは、地球とそのなかに躍動する世界の諸民族をあらわそうとしている。五大州と二大洋が力強い円に囲まれて内部でエネルギーが発酵しているような、全地球人の協同、地球共同体などのイメージだという。そして色のブルーは文化をあらわしている。
 「国立民族学博物館十年史資料集成付録」(一九八四年)にはシンボルマークの詳しいデザイン図面が収録されているが、それを見ると花びらの形は少々複雑だ【図1】。たとえば直径二九センチメートルのマークを描く場合、まず中心に半径三・五センチメートルの円Aを置く。それに接するように周りに同じ大きさの円Bを等間隔に七つ並べ、さらに、重なり合うふたつの円Bの両方に接するように、半径五センチメートルの円Cを七つ置く。最後に、円Bと円Cの縁をなめらかにつないで、この微妙な波形はできあがる。
 先日、このマークをパソコンで描く必要にせまられた。使ったのはポストスクリプトという一種のプログラミング言語。線分や円弧を描く命令をひとつひとつ組み合わせてパソコンの画面やプリンタに図形を作りだす。実際に描いてみたところ、なぜか花びらのカーブの継目にトゲのような段差ができてしまった【図2】。初め、プログラムのミスか計算誤差が原因かと考えた。しかしよく見ると、円Bに接するはずの円Cが、わずかながら離れている。
 ふと思いついて、円Cの中心位置を計算しなおしてみた。デザイン図面の指示では、円Cの中心点はマークのいちばん外側の円周から六分の一(約〇・一六六)センチメートル内側にある。しかし計算してみると、内側に入る量は約〇・二五四センチメートルになった。
 この差〇・八八ミリメートルはどうして生じたのだろうか? 差はごくわずかで、鉛筆の線幅にして一、二本分である。おそらく当時、マークは定規とコンパスで描かれたはずで、その作図誤差なのだろうか? しかし、たまたま見つかった図面原図の、鉛筆と製図ペンの精緻な線を見ていると、とてもそうとは考えにくい。そして原図を測ってみると、円Cの位置はわたしの計算とほぼ一致した。
 ここからは憶測にすぎないが、こんな仮説をたててみた。計算結果の〇・二五四は分数であらわすと三・九三分の一、ほぼ四分の一に等しい。ひょっとして、デザイン図面の清書が完成するまでのどこかの段階で、走り書きした数字の4が6と読み間違えられて図面に六分の一と書き込まれてしまったのではないだろうか?
 いずれにしても、真相は謎につつまれている。もし、勝井氏にお会いできる機会があったら、ぜひ直接おたずねしてみたいと思っている。

外国人として生きる
講師の道をえらんで
薛 羅軍
研究や教育への意欲
 何年か前、中国でのある学会でのことだった。中国人の学者が、参加者の一人である日本人から受けとった名刺を見て、わたしにたずねた。「非常勤講師というのは何でしょうか。何か非常に勤勉な講師のことですか」。わたしはそこで、非常勤講師の「非常勤」というのは「常勤」に対することばで、中国語でいうなら「兼任講師」にほぼ相当するということを説明した。
 こういうわたしも日本での身分は非常勤講師である。日本のある大学で非常勤の職についたのは、一九九六年大阪大学大学院文学研究科の博士後期課程に入学した翌年からで、もう一〇年にもなる。この身分は二〇〇〇年文学博士号を取得した後も変わっていない。
 近年日本における中国からの留学生は膨大な数に上り、二〇〇四年末の統計では約八〇〇〇人にもなるという。留学生のなかでは最大のグループで、さらにその予備軍の就学生五七〇〇人がひかえている。そのかなりの割合の学生が日本での就職を希望しており、実際に現在、終了後も日本の大学で専任教官として教育や研究にたずさわるのは二〇〇〇人ともいわれるほどだ。なるほど、最近ではどこの大学でも中国語や中国関連の授業はあるし、中国人の教員を見かけるようになった。特に中国語の授業は、中国の経済や文化の発展とともに近年急増した。そして、このような専任教官とともに中国語の教師として教壇に立っているのが、多くの中国人非常勤講師である。
 非常勤講師という職は、特に本務校をもたない教師にとっては、いくつもの学校をかけもちせざるをえない場合もある。これら授業の準備や宿題のチェック、そして移動に時間を費やしながら、自分の研究に時間とエネルギーをさくのは大変なことだ。それでもほとんどの非常勤講師は、わたしも含め、自分の専門分野の学会に参加し、論文を書いては公募される専任教官の職に応募を続けている。研究や教育への意欲では専任も非常勤も変わりはしない。実際に非常勤で博士号をもつ人や、優秀な業績をあげている人は少なくない。

中国語教育に貢献
 中国語の教育に関していえば、最近は日本の少子化の影響で学生が減り、多くの大学で一度設けられた中国語授業でも受講する学生数が伸び悩んでいる。ところによっては学生数が減ったために講義が削減されたりしているらしい。しかし、多少浮き沈みはあっても、今後、日本とアジア、特に中国との人的な交流はますます盛んになるだろう。実際、中国では、日本語を学ぶ学生はかなりの数に上る。日本でも中国語を学ぶ人は増えてほしいと思う。相互のことばの学習者数のいびつな増加は不自然だ。
 わたしは中国語を多くの大学で教えてきたが、じつは、専攻は中国の音楽文化や音楽芸術である。大学では中国各地の少数民族の地をフィールドワークしながら調査研究した。それでも幸いなことに、かつて中国では中国語の教師をしたこともあり、日本での語学の担当はまったく苦痛ではない。それどころか、日本語の特徴や日本語と中国語の漢字との違いを発見しながら学生に中国語を教えるのは楽しいことでもある。また、文字の起源やそれが使用されている社会、文化の理解にも、わたし自身の経験を生かそうと常に考えている。おそらく多くの中国人教師のこのような生の体験は、日本の中国語教育に貢献していると思う。
 二〇〇二年から、わたしは、専門の芸術学や音楽学、中国民族学や文化論の講義の担当を依頼され始めた。今では、毎年夏には、大学時代の研究の原点でもある中国の湖南省、貴州省、山西省、陝西省、内蒙古などのフィールドにもおとずれ現地の学生と調査し、冬には集中講義で呼ばれる中国の大学で学者との交流もしている。そんなときには、小学三年生の息子もわたしに同行し、年に二回は祖父母のもとで生活させている。日本の学生には外国語として中国語を教えながら、家では息子に母語としての中国語が大切だという考えをもっているからだ。息子には努めて中国語で話してきたが、家の外では日本語ばかりで、中国語に少しずつおぼつかなさも感じていた昨今だ。学生時代、日本語に苦労してきたわたしにとって、両言語を自由に話す彼の将来は楽しみだ。きっと彼にとってはいい財産になるだろう。

「功夫不負有心人」
 とはいえ、わたし自身は、専任の教官となる希望はすててはいない。他の研究職や専業をもっていたり、少しであれ学生に教えることが好きなために非常勤講師をえらぶ人も多い。しかし、わたしにとって、今の研究課題に専念し、また前述したような理想的な授業のために時間を確保するには、専任という職が必要だ。今の日本の現状では確かに専任への道はやさしいことではないだろう。しかし「功夫不負有心人」。あきらめなければ報われる。中国語の授業で用いてきたことわざは、わたしのためのものでもある。

地球を集める
アフリカン・ポップアート「ティンガティンガ」
和田 正平
アフリカ独特の「色と形」
 一九九八年三月、民博開館二〇周年記念行事の一環として「サバンナの現代絵画ティンガティンガの不思議な世界」を開催した。講堂ホワイエを特設展示場としたため、ティンガティンガ・コレクション一〇三点のすべては展示できなかったが、供覧できた七三点をとおして日本の一般の人びとにもアフリカン・ポップアートの面白さを知ってもらうことができた。
 近年、ティンガティンガがタバコ会社の電車内広告ポスターとして登場したり、某財団が途上国支援の資金作りを目的に絵葉書にして発売するなど、さまざまなティンガティンガ・アートを思わぬところで目にする機会が多くなった。ただ、美術界では一九八〇年代後半からエスニックブームが始まっていて、ティンガティンガも一部の好事家から注目されていたが、そのころの日本では、まだ知る人は少なかった。
 わたしもタンザニアのマクワ族が集まって描き始めたポップアートが、「マコンデの木彫」のように、国を代表するアートの一ジャンルを占めるとは思っていなかった。しかし、当時ダル・エス・サラーム大学に留学していた木村映子さんをとおして作品を見ているうちに、そこに描出されている「色と形」にどう考えてもアフリカ的な発想基盤からしか生まれてこない不思議な興趣(きょうしゅ)を実感するようになった。
 一九八六年はちょうど、ジャファリー、ムーサ、ハッサーニといった画家たちが盛んに作品を発表していた時期に当たり、彼らの作品を収集したオルガニストの児玉麻里さんが池袋の百貨店でティンガティンガ絵画展を開催していた。もし民博でティンガティンガを収集するならこの時宜(じぎ)だと判断した。できばえのよい作品でも、まだ売値は安かった。わたしはティンガティンガ収集計画案を委員会に提出した。

一〇〇点以上をひそかに収集
 しかし、いくつかの問題があった。まず第一に、一点一点鑑定しながら多数のティンガティンガを収集するにはかなりな時間が必要だ。しかし、収集調査は短期間で完了するのが普通で、そんなに多くの時間はとれない。そこでわたしは、木村さんに協力をお願いして「ひそかに」収集を始めることにした。ひそかにというのは作品の買いつけを前もって彼女に依頼するということである。当時、画家たちは一様に貧しく、「ニュンバ・ヤ・サナー(芸術の家)」というシスター・ジーンが創設した芸術工房に作品をもち込むか、糊口(ここう)をしのぐために一枚の板絵を抱えて、目当ての外国人の家々を回って売り歩く時代であった。そんな場当たり的にしか収集できなかったので、長期滞在している人でなければ、とても一〇〇点以上のティンガティンガ購入という、わたしの収集計画は実行できない。となると、木村さんをおいて頼むべき人はいない。幸いにして、彼女は画家たちに知り合いが多く、ライフ・ヒストリーなどの調査もおこなっていたので、わたしの頼みをふたつ返事で引き受けてくれた。

大学女子寮が収蔵庫
 次の問題は、約一年かけて収集した作品をいったいどこに保管すればよいのかということだった。名案はなかった。彼女にまかせるにしても、物置きでは盗難のおそれがある。また、大学女子寮六階の一室に住んでいた彼女には作品を預かる空間的余裕はなかった。結局、部屋をかたづけては随時保管していたようだが、やがて収集点数が多くなるにつれて、置き場所に困ったようだ。なにせエナメル・ペンキ画なので積み重ねるわけにはいかない。板絵と板絵のあいだに隙間を作って保管しなければならず、ベッド以外の空間はしだいにティンガティンガに占拠されていったようである。
 わたしが収集品を引きとりに行ったとき、大学女子寮を訪問してみると、踏み場がないほど彼女の部屋はティンガティンガでいっぱいで、まさに収蔵庫といった感じになっていたのである。これまでもそうだったが、海外収集調査には現地の駐在員や関係者など多くの人びとの協力が必要になるが、こんな迷惑をかけたことは初めてだった。
 しかし、おかげでティンガティンガ派でもっとも著名になった画家ジャファリーの初期の作品一〇点が収集されたので、大きな収穫だった。現在、彼の手になる作品はとても高価になり、もはや民博の収集調査費では手が届かなくなっている。ただ、最近は、その後を追う新人画家が多数輩出している。
 二〇〇五年の夏、わたしは現地モロゴロ・ストアの一角にある工房を訪れたが、これまでのティンガティンガ派とはかなり違った画を描くアーティストが誕生していた。民博は次のティンガティンガの収集を考える時期にきたように思われる。

生きもの博物誌(ニホンミツバチ/日本)
ヤマバチが「来る」季節
佐治 靖
ミツバチとのかけひき
 『月刊みんぱく』の読者が、ちょうどこの文章を目にするころ、毎年「ヤマバチが来る」ことを心待ちにしていた東尾岐(ひがしおまた)の人びとは、一喜一憂していることだろう。なぜなら、この季節、仕掛けたミツバチタッコに、何群のヤマバチが飛来し営巣したか、最終的な結果がわかるからである。
 福島県会津美里町東尾岐。会津盆地南縁の山間に位置するこの地域では、山野に野生するミツバチ(ニホンミツバチ)をヤマバチとよび、この飼養(しよう)が伝統的におこなわれてきた。ちなみに、一般に知るミツバチや養蜂は、じつは明治期に移入されたセイヨウミツバチと、その習性を利用した養蜂で、ここで述べるものとはまったく別といってもよい。
 四月下旬、ようやく雪がとけ、東尾岐に遅い春が訪れると、人びとは待ちかねたように、昨秋、小屋や軒下に片づけられていたミツバチタッコを運び出し、内部のゴミやクモの巣をとり除くタッコ掃除を始める。ミツバチタッコ(タッコともいう)とは、ヤマバチを飼養する巣箱である。巣箱といってもその形は独特で、輪切りにした丸太の内部をくり抜き、上下に板を当て、下部の一ヵ所に小さな出入口を刻んだ単純で素朴な道具である。遠目には単なる丸太と見間違えるほど、「より自然に」を特徴としている。
 五月、いよいよ「ヤマバチが来る」季節の到来である。周囲の山野に生息するヤマバチが巣分かれ(分蜂)をする。これを東尾岐では、「来る」と表現してきた。分蜂したハチ群が、あらたな棲み家として、それぞれの仕掛けたタッコを気に入り、棲みつくかどうかが、その年の飼養を左右するのである。
 人びとは、自然知ともいうべき、経験に裏づけられたヤマバチが好む場所、たとえば大木の根元、お堂の軒下などにタッコを仕掛けて歩く。しかし、ただ置くのではない。よく見ると日照や風向きなどが考慮されている。また定期的に見回ってハチの飛来を確かめ、その折、タッコ内部や出入口に古い蜜や蝋を塗るといったハチ群を「誘う」働きかけがこまめに繰り返される。タッコは、巣箱である前にハチ群をおびき寄せるトラップなのである。
 こうした行動にあらわれるように、人びとの目的は、単に蜂蜜の獲得だけではない。野生のミツバチを自分のものにできるかどうか、その狩猟に似たミツバチとの「かけひき」にもまた、楽しみや価値を見出しているのである。

「野生」を養う
 運よく、ハチ群がタッコに営巣すれば養蜂の成立である。しかし、タッコを嫌っていつ逃去(とうきょ)するかわからず、つねに不安定な所有がつきまとう。その後、自宅近くにタッコを置き、晩秋に採蜜する。その際、巣もろとも採るため、ハチ群は死滅・逃去を余儀なくされる。一見、残酷に見えるが、それは周囲の自然に、毎年一定数の分蜂群を生む営巣環境が持続されていることのあらわれでもある。
 とはいえ、近年、技術に少し変化が起きている。ハチ群を越冬させ、連年で飼養するようになってきた。始めて約一〇年という川島さんは、毎年三五、六個のタッコを仕掛ける。夜勤の仕事をする彼は、分蜂期には帰宅途中、必ず仕掛けたタッコを見回り、時間を惜しんではあらたなタッコの製作にも余念がない。彼が作るタッコは、伝統の形を基本に胴部が蝶番(ちょうつがい)で観音開きに開閉するよう工夫されている。また重ね箱状の巣箱も考案中だ。これでハチ群を死滅させず、採蜜できると言う。
 気がつけば、東尾岐に通い始めて一五年が過ぎた。この養蜂は、生業や副業としての経済的価値は皆無に等しい。にもかかわらず、このあいだに、新しく始める人は確実に増えている。それは、この養蜂が人を惹きつけ、熱中させる魅力を内在させているからだろう。
 かくいうわたしも、「観察のため」と称して、伝統的養蜂にはまっている一人なのである。

ニホンミツバチ (学名:Apis cerana japonica Rad.)
ニホンミツバチは、日本の山野に野生する在来のミツバチで、アジアを中心に生息するトウヨウミツバチ(Apis cerana Fabricius)の一亜種。北は青森県下北半島、南は鹿児島県大隅半島に至る広範に生息する。トウヨウミツバチのなかで、もっとも北に生息することから「北限のApis cerana 」と称される。近代養蜂で利用されるセイヨウミツバチ(Apis mellifera L.)とは種が異なり、サイズも小さい。また振動・移動に敏感で逃去性が高く、巣の「かじり行動」がある。地方によりヤマバチ、ジバチ、ミツ、ワバチなどとよばれ、いくつかの地域で飼養が確認されている。

フィールドで考える
アンディジャンへの鎮魂歌
帯谷 知可
二〇〇五年五月一三日の惨劇
 ウズベキスタン東部の町、アンディジャンで二〇〇五年五月一三日、多数の市民が銃火の犠牲となった事件が起きてから、一年と少しが過ぎた。アンディジャン事件とよばれるこの事件は、一群の人びとが市内の軍駐屯地などを襲撃し、刑務所の囚人を解放。人質をとって州庁舎に立てこもり、これに対して軍が出動し、多数の犠牲が出たというものである。
 ウズベキスタン政府公式見解は、この事件を、カリモフ大統領率いる現政権の暴力的転覆とカリフ制樹立を目指す国際的イスラーム過激主義組織が入念に準備したテロ行動に対する正当な対処であり、死者は一七六人(うちテロリスト七九人、軍・警察関係者三一人)とした。一方、国際人権団体や外国メディアなどによれば、一群の人びとが州庁舎に立てこもりを開始した後、そばの広場に居合わせた数多くの一般市民に対して軍が無警告で無差別発砲をおこなったため、死者は三〇〇から数千にも上るとされている。そして、この事件の核でもある「一群の人びと」についても、公式見解が「アクラミーヤ」なる組織のテロリストが中心と断じるのに対して、国際人権団体・外国メディアなどは、「アクラミーヤ」への関与で逮捕され、事件直前まで裁判中だった地元の若手企業家二三人の親族・友人らであり、事件の発端はその抗議行動がエスカレートしたものだと、かなり同情的な見方をしている。そもそも「アクラミーヤ」という組織についても、「暴力的なイスラーム過激主義組織」または「イスラーム的な富の分配の理念を実行しようとした青年実業家たちの自主組織」と、両者の見解は大きく隔たっている。

グローバルとローカルの歪み
 事件が報道されてからというもの、わたしは何ヵ月にもわたってインターネットに釘づけ状態になった。ロシアにベースを置き、現地に通信員をもつferghana.ruなどのニュース・サイトから「非政府系」の情報が刻々と流れてくるからだ。事件直後にアンディジャンから隣国クルグズスタンへ越境した四〇〇人以上の人びとの「難民」問題、政府による事件後のアンディジャンの封鎖と情報統制、事件翌日におこなわれたという路上の負傷者の「始末」、女性や子どもの遺体の秘密裏の搬出、事件の証言者・人権活動家・ジャーナリストへの弾圧強化、国際的な第三者機関による客観的調査の拒否等々、ウズベキスタンのゆくえに関心をもつ者にとっては目を覆いたくなるような、涙の出るようなニュースばかりだ。研究者としてこんなときどんな立場をとるべきなのか悩みつつ、インターネットにかじりついて集めた政府系、非政府系のさまざまな情報の断片をつなぎ合わせてみると、政府系情報はどう見ても分が悪い。政権側はこうした状況を、アンディジャン事件の誇大報道という「情報による攻撃」によって現政権の転覆を図ろうとする陰謀だと激しく非難した。
 一九九一年のソ連からの独立以降、ウズベキスタンがイスラーム主義をもっぱら力で排除してきたこと、九・一一事件以降のアメリカの「対テロ戦争の正義」がウズベキスタンのそうした方向性を助長してきたこと、上海協力機構の枠組みでロシアと中国もそれと同調路線にあること、ウズベキスタンは二〇〇三年以来グルジア・ウクライナ・クルグズスタンと相次いだ「民主化革命」による政権交代の余波の到来を過大なまでに懸念していたことなどの背景をつないでいくと、こうした政府の反応は理解できる。ある意味では、アンディジャン事件は中央アジアの片隅で起きた単なる地方暴動ではなく、グローバルな問題とローカルな問題が交錯する歪みのなかで生じた悲劇であり、事件後もアンディジャンの、そしてウズベキスタンのかかえる根本的な問題は何も解決されていない。皮肉なことに、アメリカは「対テロ戦争の正義」のもとに目をつぶってきたウズベキスタンの民主化・人権問題をもはや看過するわけにはいかなくなった。ウズベキスタンもその気配を敏感に感じとり、この事件を契機に、九・一一以降のウズベキスタンとアメリカの蜜月時代は終わった。ウズベキスタンは急速にロシア、中国との距離を縮めつつある。

アンディジャンの豊かさ、美しさ
 悲惨な事件の舞台となった広場の名前「バーブル」とは、アンディジャン出身で後にインドにムガル朝を築いたティムール朝の王子の名である。彼の手になるチャガタイ・トルコ文学の最高傑作『バーブル・ナーマ』(間野英二訳、松香堂、一九九八年)には、故郷アンディジャンの豊かさと美しさがつづられている―豊富な穀物と果物、とりわけすばらしいメロン、ブドウ、ナシ。四人がかりでも食べきれないほどよく太ったキジ。美しい住民。川の両岸に広がる庭園、春に咲くすみれ、チューリップ、バラ。
 アンディジャンが流血によってではなく、こんな豊かさと美しさで再び知られる日が来るように、そして第二のアンディジャン事件がウズベキスタンで起こることのないように、心から祈りたい。

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