国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

カザフスタンにおける伝統医療とイスラームの人類学的研究(2016-2020)

科学研究費助成事業による研究プロジェクト|基盤研究(C) 代表者 藤本透子

研究プロジェクト一覧

目的・内容

中央アジアでは、1990年代の体制移行に伴うイスラーム復興と社会変容のなかで伝統医療に携わる治療師が急増し、ある程度まで社会が安定し経済発展を遂げている現在も人々の関心をひきつけて存続している。地域社会の人々が身体を近代医療の対象としてのみ見ず、むしろ宗教的観念が作用する場と捉えてきたことをふまえて、本研究は伝統医療の再活性化を人類学的調査にもとづいて分析し、現代中央アジアにおける宗教・社会・身体の関係を考察することを目的とする。
具体的には、治療師の活動が活発なカザフスタンを中心として、1)中央アジアにおける伝統医療の歴史的背景、2)伝統医療の再活性化メカニズム、3)社会主義を経験した社会の近代医療と伝統医療の関係、4)イスラームおよびシャマニズムと伝統医療の布置を明らかにする。

活動内容

助成事業期間中の実施計画

中央アジアの伝統医療の社会的布置を、宗教的側面と医学的側面の双方に着目して明らかにする。第1に、関連するロシア語、カザフ語、英語文献の調査を幅広く行う。中央アジアの伝統医療は、現在ではイスラーム実践の一部とみなされる場合も多いが、歴史的にはシャマニズムとの関わりが深い。このため、これまでの研究期間に十分に精査できていない、中央アジアのシャマニズムに関する文献調査に注力する。また、伝統医療の社会的布置を明らかにするため、医療・保健制度に関する文献収集を行う。
 第2に、カザフスタンで現地調査を行い、これまでに不足している項目について、参与観察と聞き取りによるデータを収集する。従来の研究では治療者に調査が集中しがちであったが、伝統医療は治療者のみならず一般の人々がもつ知識によって支えられている。このため、治療者のみならず、患者とその家族、地域住民から聞き取りを進めることを重視する。特に、日常生活における身体の健康に関する意識と実践、食に関する知識と実践、体調不良への対処方法、世界観と身体観の関わり、伝統医療の社会的布置などについて調査する。これらの文献調査と現地調査の結果を照らし合わせて分析を進める。
 第3に、カザフの伝統医療の事例を、中央アジアおよび周辺地域における研究と比較検討しながら位置づけ、現代における宗教・社会・身体の関係について考察を深めるために国際研究集会を開催する。最終年度には、これまでの研究成果をまとめて学術雑誌の特集として投稿、あるいは論集としての出版申請を行うことを予定している。

2018年度活動報告

本研究は、中央アジア(特にカザフスタン)における伝統医療とイスラームの展開を人類学調査に基づいて分析し、宗教・社会・身体の関係を考察することを目的としている。3年目にあたる2018年度は、健康上の理由から国外調査を行うことができなかったが、2年目までに収集した現地調査データの分析に重点をおき、口頭発表と原稿執筆を行った。
カザフの伝統医療は、牧畜を基盤とする生活に根差し、シャマニズムと深い関連をもち、イスラームの影響を受けながら形成されており、ロシアから導入された医学的知識をも取り込みながら展開してきた。現地調査データからは、1)日常的治療実践としての油脂や薬草などの利用状況、2)治療者となる過程、3)病因と診断・治療方法の多様性、4)邪視の認識とその治療の特徴、5)特定の乳幼児の病気に関する認識とその治療の特徴、6)ロシア語の病名との対応関係の認識などが、具体的に明らかとなった。
これまでの研究成果の一部は、「社会再編のなかのイスラーム―地域における生き方の模索」として刊行することができた。このほか、3本の論文を執筆した。ひとつは「カザフスタンにおける伝統医療と治療者(エムシ)の活動」で、現在、コメントを受けて改稿中である。2つ目の論文は、聖者廟参詣と伝統医療のかかわりについて分析したもので、論集の一部として科研(研究成果公開促進費)に応募した。3つ目の論文は「中央アジア草原地帯におけるコミュニティの再編と維持」で、出版助成に申請予定である。また、日本との比較も視野に入れた口頭発表も行った

2017年度活動報告

本研究は、中央アジアにおける伝統医療とイスラームの展開を人類学調査に基づいて分析し、宗教・社会・身体の関係を考察することを目的としている。2年目にあたる2017年度は、中央アジアの伝統医療とイスラームに関する文献を広く渉猟した上で、カザフスタンを中心に、近接するクルグズスタン北部とモンゴル西部でも短期間の現地調査を行った。
まず、文献調査では、中央アジアで伝統医療がイスラームと関連付けられながら行われてきたが、シャマニズムなどと共通する側面を持つがゆえに正統なイスラーム実践ではないと批判され、地域社会の人びとの議論の場となっていることが明らかとなった。
次に、現地調査では、従来の文献で伝統医療がイスラームとの関連においてのみとらえられる傾向にあったことを批判的にふまえて、治療者・患者・家族のあいだのコミュニケーションに着目するという新たな観点から中央アジアの伝統医療を捉えることを試みた。その結果、カザフ社会の伝統医療の現場では、生体エネルギーなどの新たな観念を取り込みながら、治療者と患者のあいだで身体をとおした共感を基盤として治療が行われていること、患者どうしが頻繁に情報交換を試みていること、患者と家族のあいだにはしばしば伝統医療の是非をめぐって意見の相違がみられることなどがわかった。地域社会の内部に議論と亀裂を生みながら、身体をとおした共感を基盤としてコミュニケーションを共有することが模索されているといえる。
現代において、人が他者と関わりながら、身体をどのようなものとして捉えて治療行為を行っていくのかを考察していく上で、以上の中央アジアの事例は意義深い。今年度までの調査研究の結果の一部は、日本文化人類学会、ヨーロッパ中央アジア学会・アメリカ中央ユーラシア学会合同研究大会などで発表している。

2016年度活動報告

本研究は、中央アジアにおける伝統医療とイスラームの展開を人類学調査に基づいて分析し、宗教・社会・身体の関係を考察することを目的としている。初年度にあたる2016年度は、カザフスタンで23日間、モンゴルのカザフ社会で15日間の現地調査を行った。主に民間治療者協会や治療者から聞き取りを行い、治療を参与観察した結果、次のことが明らかとなった。
1)社会主義体制から移行する前後(1990年頃)から伝統医療を再評価する機運が高まり、民間医療センターや民間医療者協会が設立された。2)治療者の素質が祖先から継承されるという観念が、ある程度まで地域社会に共有されている。3)治療者となる経緯は、祖先の霊によって治療者になることを要求されるなどシャマニズムと類似した事例がみられるが、夢で聖者から啓示を受けるというイスラームの聖者崇敬に関連した事例も多い。4)病因のひとつとして邪視の観念があり、特殊な治療法が存在する。5)診断と治療の過程では、治療者と患者のコミュニケーションが重視される。治療法は、儀礼による霊的な浄化、家畜の油脂などを用いたマッサージ、ステップに生える植物を利用した薬草治療などが主に行われ、治療者によってそれぞれ専門とする治療法がある。6)モスクのイマム(集団礼拝の指導者)は、治療がイスラームに則していないと批判するが、治療者は敬虔なムスリムであることを強調し、礼拝を行うなどイスラームの規範に則ることで治療の力も得られると考えている。
以上のように、現地調査に基づき、現代のカザフ社会における伝統医療の基礎的なデータを収集することができた。これらのデータは、人が他者と関わりながら身体をどのようなものとして捉えて治療行為を行ってきたのかを考察していく上で意義をもっている。文献調査の結果と照らし合わせながら、宗教・社会・身体の関係について今後さらに分析を進める。