国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

在学生の研究内容 白福英 平成24年度 専攻派遣事業研究成果レポート


白福英

専攻派遣事業研究成果レポート

1. 事業実施の目的
博士論文を作成するための基本データの収集

2. 実施場所
内蒙古自治区巴彦淖爾市オラド後旗

3. 実施期日
平成25年2月10日から3月10日

4. 事業の概要
報告者は調査地であるBソムについての予備調査はオラド後旗政府や地方知識人、Bソム政府の協力を得て、比較的にスムーズに実施することができた。調査内容は以下の通りである。
  1. 文献調査
    今回の調査で収集した文献は、『内蒙古社会発展与変遷』(1992)、『烏拉特後旗誌』(1992)、『烏拉特後旗誌(1989-2004年)』(2005)、『烏拉特往事』(2012)、『烏拉特後旗2010年年鑑』、『烏拉特後旗2006年年鑑』、『烏拉特後旗2009年統計年鑑』、『烏拉特後旗2011年統計年鑑』、『烏拉特後旗文史資料(1冊)』(1991)、『烏拉特後旗文史資料(3、4、5冊)』(2012)、『烏拉特後旗地図集』(2007)、『シンオス・ガチャー誌』(2011、内部資料)などである。
  2. オラド後旗の行政沿革(1949年~)
    中華人民共和国が成立した翌年1950年にオラド後旗政府が成立する。1952年10月にオラド中旗とオラド後旗は併合されて、オラド中後聯合旗となり(綏遠省人民政府民生第127号令により)、オランチャブ盟に属するようになった。1971年に国務院、中央軍事委員会の指示で現在のオラド後旗はオラド中後聯合旗から分かれてチョグ旗という名で成立した。1981年に国務院の決裁でオラド後旗という名を回復し、現在に至る。
    1986年現時点では、オラド後旗は9ソム、3鎮を有していた。2005年、内蒙古自治区政府(内厅发[2005]73号)は現在の有するソム・鎮の数を50%にするよう指示した。オラド後旗政府はその指示通り、9ソム、3鎮を2ソム、3鎮に編制した。同年、民生部の決定(民函[2005]158号)で旗政府所在地はサインオソ(賽烏素)鎮からバインボラグ(巴音宝力格)鎮に移った。つまり、以前は陰山山脈が旗政府所在地の町の南に横たわっていたが、バインボラグ鎮に移ったことにより、旗政府所在地の町は陰山山脈の南側に位置するようになった。
  3. オラド後旗における牧畜の状況
    地形別にみると、概して西北部ゴビ地帯ではラクダ、中部丘陵地帯には、ヤギ(ヒツジ)、ウシ、馬が、南部山地ではヤギが飼育されているのが特徴である。1998年、土地を個人(世帯)に30年の契約で分配して以来、現地の人々は自分の使用する土地を鉄線で囲い込んでいる。2002年の「退草移牧」政策の実行により、水のない沙漠化した土地での放牧は禁止された。それは「禁牧」と呼ばれる。禁牧されている土地では、大型家畜(ラクダ、馬、ウシ)の飼育は許され、小型家畜(ヤギ、ヒツジ)の放牧は禁止される。政策対象となった牧畜民はサインオソ鎮に移住し、禁牧期間に支給される土地の補助金で生活を維持する人も少なくない。また、小型家畜を全部売り、大型家畜のみを放牧する人も見られた。
    1998年に土地を個人(世帯)に30年の契約で分配したが、契約書が発行されたのは、2004年である。そして、契約書には契約年数は24年と記されている。
  4. Bソムに関する基本情報
    Bソムは2005年のソム・鎮併合の際に、東側に隣接していたソムに併合された。現在は10ガチャーを有する。ソム政府所在地は元旗政府所在地であったサインオソ鎮に移った。一部のガチャー委員会も移った。2011年の統計によると、Bソム総人口は2,993人で、その内訳は、モンゴル族が2,030人、漢族が963人である。ソムの中でも、ガチャーによって漢族とモンゴル族の割合にばらつきがみられる。オラド後旗では、人口は、農業人口と非農業人口に分類され、牧畜を生業としている人々は農業人口に数えられる。政府職員、教師は非農業人口に属する。この分類に従えば、Bソムでは農業人口は2,602人、非農業人口は391人である。
    また、「挂名户」という戸籍が存在している。「挂名户」というのは、戸籍が登録されているガチャーに土地を持つが、そのガチャーに住んでいない人々のことを指す。そして、その土地は禁牧対象になった人と同じく補助金の対象となる。「挂名户」が一ガチャーにどれくらいあるかはガチャー委員会の人しか知らないとのことである。
    Bソムは牧畜を生業とし、家畜総頭数は52,880頭であり、その内、ウシは346頭、ウマは61頭、5,826頭、ヒツジは4,852頭、ヤギは41,787頭、ロバは4頭である。  
    牧畜形態は日帰り放牧で、住居は煉瓦造の平屋である。モンゴル族牧畜民と漢族牧畜民の居住外見の大きな違いはドアに張られてある対聯で分かる。モンゴル族はモンゴル語で書かれた対聯を張っており、漢族は中国語で書かれた対聯をはってある。
  5. オラド後旗における漢族移民
    オラド後旗の総人口は65,988人(2011年の統計)で、その内訳は、モンゴル族は17,536人、漢族は48,142人である。
    収集した地方誌ではオラド地域に漢族移民が入植したのは清朝末、民国時代、1960以降という簡単な記録があるのみで、詳細な記述は見当たらない。多くのインフォーマントの語るところによると、オラド後旗には1960年以降、天災により、甘粛省の民勤県から移住した漢族が多いということがわかった。オラド後旗に移住してきた漢族は当時の飼料基地で技術員として働くか、一部を牧畜民世帯に割り振られ、放牧の手伝いをしていた。民勤県から来た漢族はもともとラクダの飼育に慣れていたため、放牧の技術を早く身につけたとのことである。 注1 対聯というのは、漢詩の対句のことを指す。一般的には、対句を赤い紙、布に書き、春節を祝う際に、家の外のドアに貼る。
    注2 牧畜業を持続的に運営するために、家畜の飼料を生産する基地のことである。主に牧畜地域において、政府が漢民族農民を技術員として呼び寄せ、土地を耕作させ、トウモロコシなど穀物を栽培させる。

5. 本事業の実施によって得られた成果
調査地の概況を把握し、本調査のための基礎データを得る共に、旗政府当局やインフォーマントたちと信頼関係を築くことができ、次回の本調査への見通しを立てることができた。