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『千夜一夜』をめぐる写本・刊本の編纂過程と書物文化の諸相(2018-2023)

科学研究費助成事業による研究プロジェクト|基盤研究(C)

中道静香

目的・内容

本研究は、『千夜一夜/アラビアンナイト』の名で知られる物語集について、アラビア語の手写本および刊本の文献学的調査を行い、また編纂と流通に関する歴史的事実をたどることによって、この書物に対する東西の関わりを考察する書物文化論的試みである。世界には、製作地・製作年代・分量・内容の異なる多数の『千夜一夜』写本・刊本が存在するが、本研究では、代表的なアラビア語刊本と関連の深い「エジプト系写本群」(18世紀後半に成立)に焦点を当てる。具体的には、写本の校合や歴史資料の分析を通じて、(1) 写本の編纂・複製の過程と系統、(2) エジプトにおける写本製作の状況、(3) ヨーロッパ人による写本入手と各図書館に所蔵されるまでの経緯、(4) 写本が刊本として編纂・印刷される過程、等を明らかにし、本来口承で伝えられた物語を様々な形態の書物として生産・消費した、アラブ人とヨーロッパ人双方の営為を探る。

活動内容

2023年度実施計画

2022年度事業継続中

2022年度活動報告(研究実績の概要)

本研究は、アントワーヌ・ガランによる『千夜一夜』仏訳(1704-1717)の出版以降、多数作られたアラビア語写本・刊本の来歴を追い、それらの生産・流通・消費が、アラブとヨーロッパの間で、また東洋人と西洋人の相互作用の中で展開したことを示そうとするものである。
令和4年度は、アラブからヨーロッパへもたらされた『千夜一夜』写本の貴重なコレクションを有する、フランス国立図書館、バイエルン州立図書館、エアフルト大学・ゴータ研究図書館、ベルリン州立図書館の4館において、18~19世紀に書かれた完全写本(第1001夜で完結する写本)を中心に調査・収集を行った。
未公開写本はもちろん、マイクロフィルムやデジタル画像が公開されている写本についても、実物を直接手に取って見ることで、これまで詳細が不明であった「モノ」としての写本の特徴や「本作り」の過程を把握することができた。
また、多くの『千夜一夜』写本に見られるアラビア語の一言語変種「中間アラビア語」のバリエーションについて理解を深めるため、ワークショップに参加し、最新の研究動向についての情報を得た。
『千夜一夜』写本は、主にシリアやエジプトの諸都市で作られ、ヨーロッパ人が入手し、最終的に現在の所蔵図書館に収められたものが多いが、中には例外もある。各写本にまつわる歴史的経緯もそれぞれ異なっている。イギリス・フランス・ドイツ・ロシア等で活動した著名なオリエンタリストたちが、『千夜一夜』という書物をどのように求め、扱ったのか。今回の調査をもとに、『千夜一夜』写本の内(テクスト・言語的特徴)と外(書誌・社会的背景)の両面から分析を行い、写本の系譜を再考するとともに、近代の中東・ヨーロッパをめぐる書物文化の一端を明らかにしたい。

2022年度活動報告(現在までの進捗状況)

申請時に計画していた4回の海外調査が、COVID-19感染拡大のため中止になったり、制限されたりする状況が続いた。令和4年度(5年目)になってようやく、初めての調査を実施することができたが、調査地や調査期間はかなり限定されたものとなった。このような理由から研究の進捗がやや遅れたため、期間延長の申請を行った。

2021年度活動報告(研究実績の概要)

本研究は、『千夜一夜/アラビアンナイト』のアラビア語写本および初期刊本の成立過程の解明を目的とし、令和2年度以降は、主に18世紀以降の完全写本(1001夜で完結する写本)のバリエーションについて調査を行っている。
当該年度は、19世紀初頭にカイロからパリへ移住し、ヨーロッパ人東洋学者らのもとでアラビア語写本を扱う仕事を担ったアラブ人、ミシェル・サッバーグに焦点を当て、彼の写本編纂の事例を考察した。サッバーグは、パリで2つの『千夜一夜』完全写本、フランス国立図書館所蔵のarabe 4678-467とサンクトペテルブルク・ロシア国立図書館所蔵のANS 355/1-3を書き上げている。いずれもパリの図書館にあった諸写本を元に、サッバーグが再編成したものである。両写本は、特に前半は近似した内容をもつが、後半では挿話や夜の区切りに違いが見られる。つまり原本とその写しではなく、別個の写本として作られた。
メルキト派キリスト教徒の名家に生まれ、シリア・エジプトの諸都市でアラビア語とアラブ文学を学んだサッバーグは、パリの地で図書館のみならず東洋学者個人からも依頼を受け、多数の写本を編纂・筆写した。2つの『千夜一夜』写本は、依頼主のフランス人らにとって理想的な『千夜一夜』(=ガランの仏訳版)の内容を含み、なおかつ既存写本とは異なる一点物の写本として編まれたと考えられる。
『千夜一夜』が、東洋(アラブ)と西洋(ヨーロッパ)の遭遇と往来を契機に、ヨーロッパ人によって再発見され、世界文学としての地位を獲得したことはよく知られているが、彼らの関心とその影響力は、物語の収集・紹介(翻訳)・評価にとどまらず、写本の編纂自体にまで及んでいた状況が明らかになった。またこれらの考察は、『千夜一夜』という説話集がもつ可変性・拡張性を浮き彫りにし、写本の真贋や系譜の在り方への再考を促すものとなった。

2021年度活動報告(現在までの進捗状況)

当該年度は、これまでに収集した文献資料をもとに研究を行い、その内容を投稿論文としてまとめ、発表することができた。その一方、新型コロナに係る海外への渡航制限により、過去4年度にわたって計画していた海外調査を一度も行うことができていない。写本の調査やその他の資料収集が未実施のままとなっており、進捗状況は当初の予定よりもやや遅れている。

2020年度活動報告(研究実績の概要)

本研究は、『千夜一夜/アラビアンナイト』のアラビア語手稿写本および初期刊本の内容の変遷や系譜を明らかにすることを目的としている。令和2年度は、前年度に引き続き、18世紀以降の1001夜で完結する写本(完全写本)のバリエーションについて調査を行った。
先行研究では、『千夜一夜』の「真正な」写本系統として、物語数・夜数の少ない初期のシリア系写本(15世紀頃)と一応の完成形といえる1001夜を含んだエジプト系写本(18~19世紀)の2種類が認められているが、このエジプト系写本群とは内容の異なる完全写本もいくつか存在する。
その一つがフランス国立図書館所蔵arabe 4678-4679であるが、これは19世紀初頭にアラブ人ミシェル・サッバーグがパリにおいて様々な写本を寄せ集めて作った写本であり、「偽写本」や「捏造写本」などと形容されてきた。また同じ人物による類似写本(サンクトペテルブルク・ロシア国立図書館所蔵ANS(arabic new series) 355/1-3)もあるが、こちらはほとんど研究対象として扱われていない。
本研究では、写本の真贋の点で問題を含むとされてきたこれらの写本も、『千夜一夜』写本編纂の歴史の一部とみなし、その内容の異同や典拠を明らかにするだけでなく、制作者であるサッバーグの経歴や人物像、そして彼が交流をもったヨーロッパ人東洋学者らとの関係をふまえ、なぜこのような写本が作られるに至ったかという背景を探った。
両写本の前半部分はほぼ同じ内容で、主にフランス国立図書館が所蔵していた複数の写本から取り入れられたこと、夜の区切りは同一ではないこと、また後半には異なる物語を配置していることが明らかになった。つまり、両写本は原本と複製の関係ではなく、別個の写本になるよう意図して作られたものである。

2020年度活動報告(現在までの進捗状況)

前年度に続き、令和2年度に計画していた海外調査(写本の実見等)も、国内外のコロナ発生状況に鑑み実施できなかったため、全体的な進捗状況は予定より遅れている。ただし、これまでに収集した資料と国内で入手できる資料のみで研究を進め、口頭発表を行った。論文発表も予定している。

2019年度活動報告

本研究は、『千夜一夜/アラビアンナイト』のアラビア語手稿写本および初期刊本の系譜や、その全体像を明らかにすることを目的としている。前年度に引き続いて令和元年度は、一応の完成形とみなされている1001夜完結のエジプト系4巻本写本群(18~19世紀)に加え、これまで調査が手薄であった1001夜完結の3巻本諸写本(18~19世紀)にも注目し、その系統や他の写本群との関連性を探ろうと試みた。この目的のためすでに入手していたロシア国立図書館所蔵の3巻本写本の画像データを分析し、その結果、署名や日付は記されていなかったものの、筆跡によって写本作成者を同定することができた。またおよその作成年代も推定しうる。さらに調査の過程で、同系統の写本がもう一点存在することも判明した。所蔵館側の記録や情報が錯綜しており、各写本の書誌情報および両写本の関係性についてはさらなる調査と確認が必要であるが、これら2点の写本は内容的に、エジプト系4巻本写本群とも他の3巻本写本(2種類)とも、強い連続性・関連性が見いだせなかった。つまり、上記の写本群とは別系統の写本と考えられる。シリア系写本(15世紀頃)において300弱であった夜の数が、題名通り1001夜へ拡張されるまでには複数の試みがあった。本研究で調査した写本も、そのうちの一例と位置づけられ、ムフセン・マフディ(1994)らの先行研究が構築してきた『千夜一夜』写本の歴史に、新たな情報を追加するものといえる。

2018年度活動報告

平成30年度は、本研究課題にかかる2つの作業を主に行った。
一つは、かねてから継続している『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』カルカッタ第2版を基にした、人名・地名・文化語彙インデックスの作成である。本インデックスは、アラビア語の見出し語約3000語に対して、英語の簡便な訳語とカルカッタ第2版における掲載頁を含むもので、出版に向けての版下原稿を準備しているところである。本体部分にあたる索引の第一草稿は出来上がっており、見出し語のカテゴリーや順序の見直し、英訳の適切さや誤植に関するチェック作業を現在行っている。また、この索引には2本の巻頭論文を掲載する予定にしており、筆者が担当する一本の英語論文を執筆した。
二つ目は、エジプト系写本(18世紀後半)の系譜に関する研究である。一般的な4巻本のエジプト系写本の他に、おそらくより古い段階の3巻本の写本が存在することがわかっており、後者系統の写本としては現在、完全写本と不完全写本の2点が確認されている(フランス国立図書館所蔵)。筆者は、これらと関連性があるかもしれない同じく3巻本の写本(ロシア国立図書館所蔵)に着目しており、内容の詳細な分析を行うため、同写本のデジタルデータを同図書館より購入した。今後は、まず3つの3巻本写本を比較し、内容の異同を明らかにする。そして、3巻本写本から4巻本写本への発展の経緯、さらには15世紀にさかのぼるシリア系写本との連続性について、考察を進めていく。