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2026年年頭挨拶

皆様、あけましておめでとうございます。

さて、まずは少し肩の力を抜いた話から始めたいと思います。
(以下、私的なジョークにつき、省略)
こうしたジョークを思いつくようになったのは、私が50年近く調査を続けてきたラテンアメリカに通い始めてからのことです。現地では、会話や講演の中にジョークを織り交ぜることがごく自然で、酒の席では誰もが競うように語ります。スペイン語では「チステ」と呼ばれ、「No tener chiste(チステを持たない)」という表現は、「つまらない」「役に立たない」といった意味になります。まさに会話文化の一部です。

以前は、市場の片隅で簡素な紙に刷られたチステ集が売られており、私はそれを何冊も買い集めたものです。政治や権力者を風刺したものが好みでしたが、最も一般的なのは、かなり下品で猥雑な「赤いチステ」と呼ばれるジャンルです。ハラスメントへの感度が高まった現在でも、少なくともペルーでは、酒の席などで、大声で語られることがあります。

その背景には、ラテンアメリカが依然として男性優位、いわゆるマチスモの社会があるからです。この点を考えるうえで、役立つのが、昨年稲盛財団の京都賞を受賞された心理学者、キャロル・ギリガンの著作『もう一つの声で(In a Different Voice)』(1982年)です。遅ればせながら、最近手にしました。

本書でギリガンは、人はどのような思考過程を経て道徳的判断を下すのか、また道徳的規範とはいかなるものかを問い直しています。従来の発達理論では、子どもはまず親などの権威に従うことを「得になること」と理解し、やがて周囲や社会に順応しながら、誰にでも、いつでも適用される普遍的な道徳法則を身につけていくと考えられてきました(たとえば安井絢子(2024)「〈ケアの倫理〉と〈倫理学〉——ケアの倫理の通時的・共時的位置づけ」を参照)。そこでは、平等、自律、正義、そして正義を受ける権利といった価値が重視され、これを基盤として近代の理想的な人間像が形づくられてきました。国家による干渉からの個人の自由を掲げる自由主義や新自由主義、個人主義や競争主義といった思想も、この系譜の上に位置づけることができます。近年の教育論、スポーツ論でも当たり前のように掲げられている理想像です。私たちはまさに、その只中に生きていると言えるでしょう。

これに対してギリガンは、この従来型の倫理観を「正義の倫理(ethics of justice)」と名づけて批判し、代わりに「ケアの倫理(ethics of care)」を提唱します。ケアの倫理では、抽象的で普遍的な原理よりも、具体的な関係性の中で当事者それぞれの事情や思いに目を向け、可能な限りすべての関係者が受け入れられる解決を探ろうとする能力こそが、人間の成熟や発達の指標とされます。人は孤立した個人としてではなく、相互に気遣い合うネットワークの中で生きており、その関係性の網の目の中に包み込むことでこそ平等が実現される、という主張です。これは、同一の権利がただ存在すると考える正義の倫理とは異なる、人間観に立脚した倫理だと言えるでしょう。このあたりのことは、『もう一つの声で』の翻訳をされた川本隆史氏が、巻末の「解題」で、また品川哲彦氏が日本経済新聞(2025年11月14日)で簡潔にまとめられているので、そちらを参考にしてください。

お気づきの方もいらっしゃると思いますが、「正義の倫理」が男性中心社会の中で一般化してきたのに対し、「ケアの倫理」は、ケアの領域を多く担ってきた女性の経験に根ざしています。ギリガンは「正義の倫理」がはびこる状況においては、ひたすら「ケアの倫理」を主張し続ける必要があるが、男性中心社会が解消されれば、「ケアの倫理」は普遍的な倫理観になるはずだ、と考えています。ペルーにおいてチステが女性の前で堂々と語られている状況からすれば、その実現がいつになるかは分かりませんが、「ケアの倫理」が未来への重要な視点を与えてくれることは確かです。

ギリガンの見方は、心理学を超えて、社会学、政治学、法学の分野にまで影響を与えています。人類学もしかりです。

私がギリガンの本に惹かれたのは、昨年、デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの共著「万物の黎明」へのオマージュとして編集した本の出版時に、二つの本が共鳴していることに気づいたからです。なおグレーバーらはギリガンには言及していませんから、ここからは私の勝手な読み取り方だと思ってください。

グレーバーらは、私が研究してきた人類史、文明史を扱い、国家形成や都市化が必然的に階層化・支配・不平等を生み出したとする近代的歴史観を否定する中で、初期の社会であろうが、国家であろうが、ケアや相互扶助が制度的に組み込まれていたことを示し、ケアリングこそが文明の成立にとっての前提条件であったことを示しました。前半の、古典的な文明観を否定している部分は、これまでの私の主張と同じですので違和感を持ちませんでした。しかし、文明史とは、人びとがケアをどのように組織し、時にそれを支配に変質させ、時にそこから脱出しようとした試行錯誤の歴史であるというグレーバーらに見方は、眼からうろこの議論で、これまでの50年近く、私は何を研究してきたのであろうかと、猛省を迫るものでした。「ケアの倫理」がいかに根深いものであるかがわかります。

ただし、ギリガンの主張と接合させ、かつての古代文明には「ケアの倫理」が埋め込まれていたが、それが近代の「正義の倫理」によって抑圧されてしまった、という方向でグレーバーらの主張をまとめてしまうのは、あまりに単純すぎるかなとも感じています。このあたりは、私の今後の研究課題でしょう。

年頭の挨拶で取上げるには、ややこしい話であったかと思いますが、たまたま出会った人のことにまで気遣いをし、ケアしていくというギリガンの考えは、現在の世界情勢を考える中でも参考になります。先に挙げた品川哲彦氏が述べているように、「ケアの倫理」は、分断に晒され、地域主義、自国第一主義の中で、国民や地域の人々、いわゆる仲間うちだけに気遣いをしていくような方向とは一線を画すものです。人類全体、世界全体を考えていく大事な視点は、みんぱくのミッションにもつながります。今日、私が触れた研究面だけでなく、教育面、日常生活、そして一般業務においても、「正義の倫理」ばかりではなく、「ケアの倫理」の精神を心に描いていくことは、私たちが目指すよりよき未来にとって重要ではないでしょうか。そういう職場を築けば、みんぱく自体が、目指すべき社会の指標として自ずと社会から注目されることは間違いありません。
 いずれにしましても、2026年は、みんぱくを明るい、「ケアの倫理」で満ちあふれた職場にしていきたいと考えています。どうぞ一層のご協力をおねがいいたします。これで年頭の挨拶とさせて頂きます。

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