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オセアニアを集める (2021年7月)

(1)物々交換

2021年7月3日刊行 林勲男(国立民族学博物館教授)

ガートで火葬する様子
ハワイのビショップ博物館所蔵資料から再現した葬儀長の衣装=民博オセアニア展示場で5月、筆者撮影

民博のオセアニア展示場の左奥に、いっぷう変わった展示物がある。オセアニアの仮面を紹介するコーナーであるが、マネキンがちょっと大げさな衣装をまとい、手にはサメの歯が並んだこん棒を持っている。18世紀後半に、ジェームズ・クックが太平洋航海で訪れたタヒチ島で手に入れたものを、タヒチ博物館の元学芸員の芸術家が再現したものである。「葬儀長の衣装」と呼ばれている

1度目のタヒチ訪問で、クックたちはこの葬儀長の衣装を手に入れようとしたのだが、求められたのは熱帯の色鮮やかな鳥の羽根で作った装飾品との交換であった。あいにくと持ち合わせがなく、その時はあきらめざるをえなかった。

2度目の航海では、タヒチ島に到着する前にトンガ諸島に立ち寄り、珍重されている赤い羽根の装飾品を手に入れた。そして、タヒチ島の首長との交渉の末、葬儀長の衣装をやっと手に入れた。

クックたちは全部で10体ほどの衣装を集めたと言われており、現在はそのうち5体だけが、大英博物館など英国や他の欧米の博物館に保管されている。望むものを手に入れるための物々交換であったが、現地の人びとにとっては、価値が等しいものを交換する互いの関係が重要であったようだ。

(2)鳥類学者の夢

2021年7月10日刊行 林勲男(国立民族学博物館教授)

オオハシバトの剝製
オオハシバト(Didunculus strigirostris)の剝製=サモア国立博物館で2018年8月、筆者撮影

民博は、キリスト教宣教師ジョージ・ブラウンが、19世紀後半から20世紀初頭に南太平洋で集めた民族誌資料約3000点を所蔵している。彼は自分のためだけでなく、本国の英国やオーストラリア、ニュージーランドの博物館用にも、多くの資料を収集した。しかし、最初から民族学に関心があったわけではなかった。

サモア諸島に赴任していた当時、彼の博物学的関心は鳥類、とりわけサモア諸島にだけ生息するオオハシバトにあった。1862年、英国王立動物学協会は、この鳥を生きたまま捕獲することを求める広告を出しており、その翌年、ブラウンはサモアの首長の一人から生きた1羽を譲り受け、それをロンドンへ送ろうとした。だが、船に偶然に乗り合わせたサモアの英国領事がこの鳥を目にし、シドニー到着後、オーストラリア博物館の初代館長ベネットに渡してしまった。そして、ベネットはこの貴重なオオハシバトをロンドンの動物学協会へと送ったのである。

詳細は不明であるが、ブラウンから許可を得たわけでもなければ、彼の名前が言及されることもなかった。この時に名前が出ていれば、もしかすると、ブラウンは民族学ではなく、鳥類学で名をはせたかも知れないと想像させる出来事であった。

(3)海菊貝の首飾り

2021年7月17日刊行 林勲男(国立民族学博物館教授)

海菊貝の首飾り
海菊貝の首飾り=筆者撮影

画家の染木煦(あつし)(1900~88)は、1934年3月初めから9月末まで、当時、日本が統治していた「南洋群島」のほぼ全域を旅した。そして、スケッチや油絵の制作だけでなく、人びとの生活を調査し、数多くの民族誌資料も収集した。

彼はのちに著書の中で、ヤルート島(現在のマーシャル諸島共和国ジャルート環礁)を訪れた時に、一人の老人から買い求めた海菊(うみぎく)貝の首飾りについて、よく磨かれており、ポーンペイ(現在のミクロネシア連邦ポーンペイ州)のナンマドール遺跡で出土したものに似ていると、帰国後の研究成果も交えて書いている。

しかし、現地から妻の愛子に宛てた手紙には、この首飾りを手に入れた時の興奮を素直な言葉でつづっている。「帰りかけた時、一人の年老いた男が後を追いかけて来て……恐るおそる取り出した物は、何と! 海菊珠の一尺許(ばかり)の首飾りではありませんか!……此の見事な海菊珠の首飾りを僅かに一円で買って了(しま)いました」(「書簡に託した『染木煦のミクロネジア紀行』」)。

染木は、妻に宛てた手紙を頻繁に書いていた。旅先にあっても、喜びを共に分かち合おうとの思いやりが感じられる。この海菊貝の首飾りをはじめ、染木が旧南洋群島旅行で収集した資料約300点が、今は民博に収蔵されている。

(4)フィーからの贈り物

2021年7月24日刊行 林勲男(国立民族学博物館教授)

ベダムニ族の弓矢
ベダムニ族の弓矢。樹上の鳥を狙うには一番奥の弓の手前、矢じりが放射状のものを使う=筆者撮影

パプアニューギニアでの2度目の調査は、西部州の内陸北部で2年間を過ごした。オーストラリア統治下でのパトロール隊が入ったのは、1960年代になってからで、90年ごろ、人びとのほとんどはキリスト教徒となっていたが、以前の信仰や慣習も色濃く残っていた。

男子が大人になるためには、食事や行動が制限され、一定期間の隔離を含む成人儀礼を経なければならない。儀礼を受ける少年たちそれぞれが所属する父系親族集団(フィー)が、準備からの一切を一丸となって取り仕切る。調査を始めて1年後、幸いにも私が滞在した村の中心的フィー主催の成人儀礼があり、秘儀を除く、ほぼ一部始終を観察することができた。

ひと月ほどの儀礼の期間中、少年たちは黄色い土で顔も身体も塗り、大人への移行期にあることを示す。最終日、彼らは赤い土で身体を塗り、顔には黒い煤と白い石灰で鳥のような化粧をしてもらう。そして、一人一人に与えられた弓矢をもって、一団となって鳥を狩るために森に入っていく。

私が調査を終えて村を離れる時、世話になったフィーの男たちから同じ弓矢一式を頂戴し、今でも大切にしている。秘儀の部分は未だに不明だが、私にとっても大きな節目となる通過儀礼であった。

(5)タオンガの守り人

2021年7月31日刊行 林勲男(国立民族学博物館教授)

ベダムニ族の弓矢
神を彫刻した杖。民博でマオリのタオンガを預かる責任者に、永劫に引き継がれていく=筆者撮影

だいぶ前だが、国立民族学博物館のオセアニア展示で、先住民の現在を紹介することになった。構想から始まっておよそ2年のプロジェクトであった。私はニュージーランドとオーストラリアでの収集を担当し、途中でリーダーも引き継いだ。

収集地の一つワンガヌイは、ニュージーランド北島の南西海岸にあり、同名の川の河口に発達した都市で、地元の博物館の協力を得た。手伝ってくれたのが、マオリ資料の管理とマオリ文化の教育プログラムを担当していたディーン・テレカウヌク・フラヴェル氏だった。彼は彫刻家でもあり、若手のマオリ彫刻家の育成にも関わっていた。

その後、フラヴェル氏は来日し、マオリの標本資料情報の補足、展示レイアウトの検討を民博のスタッフと共同でおこなった。ワンガヌイ博物館には、フラヴェル氏の派遣以外にも、マオリの歴史や文化に関する展示解説文のチェックとマオリ語への翻訳、マオリ文化に基づいた資料の展示方法のアドバイスなど、さなざまな協力をいただいた。

リニューアル・オープンを迎えた時、私はプロジェクトリーダーとして、民博所蔵のマオリのタオンガ(文化遺産)を守る役目を与えられ、同時にフラヴェル氏が神を彫刻した短い杖を受け取った。それは守り人の証しとして、民博内で将来も引き継がれていく。