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美術雑誌『みづゑ』の世界 (2021年8月)

(1)海か山か

2021年8月7日刊行 丸川雄三(国立民族学博物館准教授)

大下藤次郎「上高地スケッチ」より抜粋
大下藤次郎「上高地スケッチ」より抜粋
(『みづゑ』第52号19ページ掲載、水彩画原色版)

「海か山か、誰れしも夏になると迷ふ問題である」。これは明治の日本で水彩画の普及に尽力した大下藤次郎(1870-1911)による写生地案内の一文である。大下は明治38年に美術雑誌『みづゑ』を刊行し、西洋画としての水彩画の心得と技法を、全国の読者に向けて発信した。

水彩画の基礎は、自然をよく観察し、木々や岩、雲や水などの形や濃淡を写すことにあると大下は説く。油絵も基本は同じであろう。しかし花鳥風月を愛し旅を好む人々には、西洋画の中でも、水彩による風景画がより馴染むと考えたのである。

観察は自然科学の基本でもある。西洋化を進める当時の日本において、理学と工学はその急先鋒であったが、美術も例外ではなかった。大下は水彩画の習得を通して、西洋的なものの見方と考え方を身に付けることに尽力したとも言える。

冒頭の写生案内にも、当時の人々を自由な観察旅行の楽しみへと誘う大下の想いがよく表れているようである。「海か山か」と問われるだけでつい浮き立つ気分になるのは、私だけではないだろう。

明治期美術雑誌『みづゑ』は90号まで、東京文化財研究所所蔵資料アーカイブズとして全文がウェブで公開されている。大下藤次郎の没後110年を迎える今年、明治に隆盛を誇った水彩画の世界に触れてみる。

東京文化財研究所所蔵資料アーカイブズ『みづゑ』

(2)夏期講習会

2021年8月14日刊行 丸川雄三(国立民族学博物館准教授)

大阪・四天王寺の五重塔の前で撮影した集合写真
明治40年8月14日、大阪・四天王寺の五重塔の前で撮影した集合写真。講師は洋装だが、参加者はほとんどが和装

学校が休みとなる8月は、夏期講習の季節である。水彩画の習得に励む『みづゑ』読者にとっても、一堂に会するよい時期であったようだ。

明治40年8月、大阪天王寺桃山中学校において、大下藤次郎は水彩画の第2回夏季講習会を開催した。

講義と実践による短期集中合宿であり、全国17府県から20、30代を中心に、学生、教員、実業家、公務員などの男女62名が参加した。若い人たちが率先して水彩画を学んでいたことや、子どもたちを教える立場の教員が、各地から参加していたことも興味深い。大きく変容する明治期の日本において、西洋の文化を学び身に付ける手段として、水彩画が人気を博していたのである。

参加者は四天王寺境内にイーゼルを立て連日写生に取り組んだ。記録には「天王寺に於けるあらゆる建物、石燈籠、樹木の類は殆と描き盡された」(原文ママ)とある。また夜には彗星の観察を試みる者や、大阪の中座で活動写真を見物した者もいたそうである。

活気あふれる夏期講習会の様子からは、印刷技術を駆使した美術雑誌『みづゑ』を発行しつつ、誌面だけでは伝えきれない実践的な学びをも追及する、大下藤次郎の奮闘ぶりが見える。情報技術が発達した今の世にあってもなお、対面による学びの大切さを思わずにはいられない。

(3)写生の旅

2021年8月21日刊行 丸川雄三(国立民族学博物館准教授)

吉田博「糸滿の刳舟」
吉田博「糸滿の刳舟」
(『みづゑ』第87号31ページ掲載、水彩畫原色版)

明治時代の画家は、よく旅をした。美術雑誌『みづゑ』には、当時の第一線で活躍する水彩画家たちが、修練のため寸暇を惜しんで写生の旅に勤しむ様子が描かれている。

明治45年の『みづゑ』第86号には、洋画家の中川八郎、石川寅治、吉田博の3氏が、年初から2月にかけて沖縄に滞在した旅の談話が掲載されている。時期的に避暑ならぬ「避寒かたがた」とのことであるが、ただ物見遊山に出かけたのではないことは「三人が殆ど四十日間ばかり、休みなしに毎日寫生(しゃせい)しました」との記述から明らかである。

中川の談話には、町をゆく女性が頭上に荷物を乗せて歩く様子や、ガジュマルの木の下に店が並ぶ市場の様子が活写されている。また製糖の様子が「甘蔗(かんしゃ)を萬力(まんりき)にかけ、其(その)木の端を、牛や馬の力を用ゐて絞る」などと語られている。

「糸満の刳船(くりぶね)」は、昨年没後70年の節目をを迎えた吉田博が、30代半ばのこの旅行中に描いた漁船の図である。「往昔は皆この船に乘つて海上遙かに臺灣(たいわん)あたり迄出掛けたそうだ」との談話も残る。吉田は後に版画作品で海外にもその名を知られることになるが、その基礎には、仲間とともに各地をめぐり人々と交流し、互いに腕を磨いた写生の旅があったことを『みづゑ』の記録から読み取ることができるだろう。

(4)波濤を超えて

2021年8月28日刊行 丸川雄三(国立民族学博物館准教授)

吉田博「糸滿の刳舟」
フランシス・パウエル「海」
(原題“A Gray Day at Sea”、『みづゑ』第7号7ページ掲載、水彩画石版)
=本稿掲載画像は全て東京文化財研究所提供

明治の日本において海外旅行は命がけの事業であった。それでも画家たちは幾度も外遊を敢行した。『みづゑ』第7号には、後に水彩画界の長老と呼ばれる三宅克己が、若い頃に米国から大西洋を越え、英国へと旅をする様子が活写されている。

明治31年、帆船ブリタニック号に乗りニューヨークを出発した三宅は「彼の有名なブロークリンの釣橋を後に殘して、自由の銅像を見送りながら、渺々(びょうびょう)たる太西洋(原文ママ)に乘出(のりだ)した」と意気軒昂(けんこう)であった。しかし下等船客用の薄暗い船室に「亞細亞人は唯の自分一人」という心許なさの中でひどい船酔いに悩まされ、隣の乗客の助けでようやく「アトランチックの大波を實際(じっさい)に見」ることのみが叶うという有様であったようだ。

三宅はこの体験を「自分が大西洋を航海した、唯一の紀念(きねん)物でありました」と述懐している。苦労をしながらも地図でしか知らなかった大西洋をその目で見たことが、画家として何より嬉しかったのだろう。

到着したロンドンの美術館で三宅は1枚の水彩画に魅了される。作者に手紙で許諾を得た上で制作した模写が、今回の「海」である。三宅は「大西洋の波の景色と彷彿(ほうふつ)たる」と特別の感激を受けたそうだ。幾多の波濤を超え、西洋の文物を全身で受け止め持ち帰ろうとした明治の画家の心象を今に伝える作品である。