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今ここ・アボリジニ (2022年2月)

(1)ライターを探せ

2022年2月5日刊行 平野智佳子(国立民族学博物館助教)

砂漠でピクニック=オーストラリアの中央砂漠で2014年6月、筆者撮影筆者撮影
砂漠でピクニック
=オーストラリアの中央砂漠で2014年6月、筆者撮影

オーストラリアの中央砂漠で調査を始めてすぐ、アボリジニにピクニックに誘われた。砂漠の熟達たちの指示に従って荷物を車に積み、走ること3時間。ようやく到着。空腹だが、すでに肉はある。薪(まき)集めも完了。あとは調理かと待っていると「ライターは?」と聞かれる。たばこを吸わない私は当然持っていない。たばこを吸うみんなも持っていないらしい。いやいや、砂漠の熟達はライターなんかなくても火をおこせるでしょ。楽観する私にかけられた言葉は「ライターを探せ」。「探す? ここで?」。まさかと思うが不安をかき消す。炎天下、砂漠をうろつくこと数十分。やはり、ない。

肩を落とす私に次にかけられた言葉は「商店で買ってきてくれ」。……ん? 1個のライターを買いに100キロ先の商店まで? 往復で200キロ、2時間。ガソリン代を計算し戸惑う。だが、みんなは気にすることなく木陰にシートを敷いて、くつろいでいる。ここを離れる気はなさそうだ。私は「今ここ」の世界にいる。過酷な砂漠地帯を生き抜くには柔軟でなくてはならない。とことん付き合おう。いわれた通り商店に向かう。

2時間後、慌てて戻ると焚(た)き火の香りが漂ってくる。なんと通りすがりの観光客にライターを借りたらしい。用なしになった新品のライターを握りしめる。「今ここ」のカウンターパンチは痛烈だ。

(2)引っ越しはいつ?

2022年2月12日刊行 平野智佳子(国立民族学博物館助教)

手伝いを頼まれていた日の2日後に行われた引っ越し
手伝いを頼まれていた日の2日後に行われた引っ越し
=オーストラリアの中央砂漠で2015年3月、筆者撮影

ある日、都市在住のアボリジニから引っ越しの手伝いを頼まれた。荷物を新居まで車で搬送してほしいという。村から都市は片道4時間と遠い。でも、いつも世話になっている人物からの依頼を断るわけにはいかない。時間に間に合うように早起きする。引っ越しを手伝うという村の人々も連れていく。時間通り都市に到着し、依頼主のもとを訪れる。

ところが、不在。隣人によると「どこかに出かけた」らしい。行き違いか? 慌てて新居に向かう。しかし、誰もいない。鍵もかかっている。連絡のつかない依頼主を捜して都市をさまようこと2時間。ようやくみつけたその人は広場で家族と談笑していた。

「引っ越しは?」ときくと「鍵渡しがまだなんだ。明後日に来てくれ」という。「そんなばかな!」。早朝からの運転疲れもあってか、じわりと怒りがこみあげてくる。だが、周囲をみても憤っているのは私1人だけ。他のみんなは「じゃあ、明後日に来よう」と気にもとめていない。そんなことより、これからどこに向かうかを話し合っている。

私の中のアタリマエが問われる。そもそも手伝いを強要されたわけではない。無理なら断ればいいだけの話だ。選択の自由は私にある。とはいえ、頭の中では「予定通りこなしたい」私が大暴れしている。「今ここ」との戦いはまだまだ続く。

(3)行くか、行かぬか

2022年2月19日刊行 平野智佳子(国立民族学博物館助教)

温泉に向かうバス
温泉に向かうバス
=オーストラリアの中央砂漠で2016年3月、筆者撮影

中央砂漠で調査中、アボリジニに「西に温泉があるから行こう」と誘われた。村のバスに子供たちを乗せていくらしい。村には儀礼時に使われるマイクロバスがある。あのバスが出動するなんて大きなイベントだ。興奮して「いつの出発か?」と尋ねる。「もうすぐ」という返事。慌てて近くの商店にテントや寝袋を調達しにいく。すぐに出発できるように荷造りして待つ。

しかし、誰も動き出す気配がない。静寂が続く。しびれを切らして「いつ行くのか?」ともう一度尋ねる。今度は誰も「わからない」という。「こんな大イベントなのに、わからないということがあるのか?」と、いぶかしく思う。

夕方、日も暮れてきた。中央砂漠では夜行性の動物との衝突を警戒して、夜間の車移動は極力避けられる。今夜は出発しないんだろうなと諦めてベッドに横になろうとした。その瞬間、外から騒がしい声が聞こえてくる。向かうと子供たちが段ボールやらリュックサックを慌ただしくバスに運んでいる。きょとんとしていると「何をしてるの? もう出発するよ!」と、せかされる。もう夜なのに出発するのか? 尋ねる暇もなく、それから小一時間もたたないうちに出発。バスは20人満員御礼。まるでジェットコースターのような急展開だ。アボリジニの「今ここ」感覚は、いつまでたってもつかめない。

(4)こんな満月の夜は

2022年2月26日刊行 平野智佳子(国立民族学博物館助教)

朝日に照らされる自動車
朝日に照らされる自動車
=オーストラリアの中央砂漠で2019年2月、筆者撮影

ある日、アボリジニに都市まで連れていってくれと頼まれる。「明日の朝8時に出発しよう」と約束して別れる。とはいえ8時ちょうどにならないことはすでに学習済みだ。ドタキャンも想定して眠りにつく。我ながら「今ここ」生活に慣れてきたもんだと得意げな気持ちになる。

ところが、おなじみのカウンターパンチ。ドンドン! 未明に扉をたたく音。「なに?!」と跳び起きる。「今から出発しよう」と呼びかけがあった。時計をみると4時。なぜこんな時間にと聞くと「月が明るいから車を出せる」という。確かにキレイな満月だ。いつもより明るい空をみて妙に納得する。だが、さすがに起きる気がしない。「こんな早くに行けない。約束したのは8時だ」と即座に断る。こんなに早くやってくるなんて「とんでもないなぁ……」と思いながら再び眠りにつく。

でも、もしかしたら急ぎの用だったのかもしれない。気になって、早めに迎えにいく。が、時すでに遅し。呼びかけても反応がない。顔をのぞかせた隣人によると、他の人の車で未明に出発したらしい。押し寄せてくる後悔の念。夜が明けないうちに出発するほどの用事は何だったのか? 私は大切な「何か」を逃してしまったのではないか? そんなことを思うと気が気じゃない。いつの間にか「今ここ」の世界に片足を突っ込んでいるようだ。