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仏領ギアナの人々 (2022年3月)

(1)カイエンヌの市場

2022年3月5日刊行 中川理(国立民族学博物館准教授)

カイエンヌ中央市場の朝は、多くの客でにぎわ
カイエンヌ中央市場の朝は、多くの客でにぎわう=2018年3月、筆者撮影

南米の仏領ギアナはかつてのフランス植民地で、いまでは海外県としてその一部となっている。そのため、街にはフランス的な雰囲気がただよっていて、ときにフランス本土にいると錯覚するほどだ。しかし、そこに住む人々に目を向けると、本土とは異なった多くの色彩にみちていると気づくだろう。

中心都市カイエンヌの市場で、日系人の女性に仏領ギアナの多様性を教えられたことがある。彼女の家族はブラジル北部からこの地にやってきて、市場で野菜を販売している。珍しい日本人として知人から彼女に紹介された私は、雑談しながら彼女の商売の様子を眺めていた。客の多くはクレオールと呼ばれるアフリカ系の人々で、私には誰もが似ているように見えた。ところが彼女は、客が来るたびに、ギアナ人、ハイチ人、マルチニク人などとそれぞれの出身を即座に見分けて、私に教えてくれた。なんと、言葉と装いのわずかな違いで区別できるのだという。

クレオールが多様なだけでなく、他にもいろいろな大陸からの人々が、この市場を行き来している。ヨーロッパ系や、南米のブラジルやスリナムからの移民も多い。野菜を売る農民の多くは、東南アジアのラオスから来た少数民族モンの人々だ。普通だと出会いそうにない人々が混ざり合って、この市場に独特の活気を与えている。

(2)モンの集落

2022年3月12日刊行 中川理(国立民族学博物館准教授)

仏領ギアナのモンの集落。奥に教会が見える
仏領ギアナのモンの集落。奥に教会が見える=2018年3月、筆者撮影

車で中心都市カイエンヌを出て南へと進み、曲がりくねった山道を登っていくと、熱帯雨林のただ中にこつ然と集落が姿をあらわす。ラオスから来た少数民族モンの集落だ。もともとモンは、中国南西部や東南アジア諸国の山あいに住んでいた。ラオス内戦に巻き込まれて1970年代後半に難民となり、多くはアメリカやフランス本土に受け入れられたが、一部は仏領ギアナへとやってきた。彼らは未開のジャングルを自力で開拓して、今あるような集落を一から作り上げた。

フランス本土と違い、仏領ギアナのモンの多くはキリスト教徒だ。ある日曜礼拝のあとで、教会関係者に開拓初期の写真を見せてもらったことがある。そこには、人々が木々を切り倒して道や畑を整え、住居や礼拝所を建てる様子が写されていた。自分が日本で少年時代を送っていた頃に彼らはここを作っていたのかと、私は不思議な気持ちになった。

現在では、モンは仏領ギアナの食卓を支える農業生産者となっている。カイエンヌや各地の市場で野菜や果物を売っているのは、ほとんどがモンと言っていいほどだ。彼らが売る作物のなかには、ランブータンのように彼らが持ち込んで地域の名産となったものもある。彼らの存在は、この地の文化だけでなく、自然にも新しい要素をもたらしている。

(3)宇宙マラソン

2022年3月19日刊行 中川理(国立民族学博物館准教授)

仏領ギアナの宇宙センター内には、宇宙博物館もある
仏領ギアナの宇宙センター内には、宇宙博物館もある
=2018年3月、筆者撮影

宇宙マラソンというイベントが、クールーの町で開催されている。普通の市民マラソンになぜこんな大げさな名前が付いているかというと、フランスが世界に誇る宇宙センターがこの町にあるからだ。最先端技術を結集した宇宙ロケットが、熱帯雨林に囲まれた辺鄙(へんぴ)な場所にあるこのセンターから打ち上げられている。

一度だけ、宇宙マラソンを見物したことがある。うだる暑さにもかかわらず、市民ランナーたちは元気に次々と海辺のゴールへと走りこんでいた。その多くは、ヨーロッパ系の人々だ。クールーには、宇宙センターで働く技術者の家族が集まって住んでいる。マラソンに参加しているのは、「メトロ」とも呼ばれるこれらフランス本土出身の人々なのだろう。また、ヨーロッパ諸国やロシアの技術者も、ロケット打ち上げのためにこの町に滞在している。こうした人たちを見ていると、アフリカ系が多数を占める仏領ギアナで、ここだけがまるでヨーロッパ系の飛び地のように思える。

実際は、例えばセンター建設のために働いた隣国スリナム出身者も、この町に多く住み続けている。彼らは、奴隷制の時代にプランテーションから逃れて独自の文化を築いた、マルーンと呼ばれる人々だ。異なる地平から来た人々が、この地で隣り合って生きている。

(4)新しい隣人

2022年3月26日刊行 中川理(国立民族学博物館准教授)

仏領ギアナ西部の真新しい開拓地。まだ切り株が残っている
仏領ギアナ西部の真新しい開拓地。まだ切り株が残っている
=2018年3月、筆者撮影

新しく仏領ギアナに移り住む人は多い。私が知っているラオスの少数民族モンの一家もそうだ。難民として南仏で農業を営んでいた彼らだが、心機一転チャンスを求めてこの地にやってきた。仏領ギアナには、未開の森林を国から借り受けて自ら開拓すると、自分の所有にできる制度がある。この制度を使って、彼らは新しい環境で一から農業をやり直そうとしていた。

ところが、思わぬ問題が持ち上がった。何の手違いか、南米先住民が権利を持つ区域に、一家が借りた土地が重なっているというのだ。仏領ギアナでは、内陸部だけでなく沿岸部にも、先住民が住む集落が点在している。彼らの長年の要求の結果、狩猟や焼き畑のために集落の周りの土地を利用する先住民の権利が、公に認められるようになっている。モンの一家が開墾していたのは、そんな土地の一角だったのだ。立ち退きを迫られた一家は、困り果てて先住民集落の首長のもとを訪れた。そして交渉の末、なんとか代わりの土地が見つかるまで土地を使わせてもらえることになったという。

新しい隣人との付き合いは、どちらにとっても簡単ではないだろう。それでも人々は、多様な集団が隣り合うこの場所で、なんとかお互いが生きていく余地を生み出そうとしている。