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「千一夜」仏訳、ガランの像に思う 危機乗り越える物語の力

2022年6月4日刊行
西尾哲夫(国立民族学博物館教授)

人間にとって物語とは、何だろうか? たとえば、世が乱れるとファンタジーが流行するという。フランス革命、関東大震災しかり、現在の『鬼滅の刃』もそうだろう。

ガラン訳『千一夜』は1704年から17年にかけて出版された。日本は元禄時代ごろだが、07年に富士山の大噴火が起こった。アラビアンナイト(千一夜物語)の中でも屈指のアラジンの物語は、原典写本にはなく、シリアのアレッポ出身のマロン派キリスト教徒ハンナ・ディヤーブが語ったものである。当時の中東では不作と飢饉(ききん)が続き、08年にはそれが政治化する一方で、フランスの権益代表であるマロン派はフランス国王に庇護(ひご)を求めた。ディヤーブがパリに赴いたのもそのためであった。パリも同年暮れから500年に1度というほどの大寒波にみまわれ、フランス全土では60万人もの人が亡くなった。大噴火とその翌年から起こった中東やヨーロッパでの気候変動が一連の出来事かどうかはわからないが、世の乱れがなければ、アラジンが生まれることもアラビアンナイトが私たちの手もとに伝わることもなかったかもしれない。苦難のときにもうひとつの可能性を想像する力を私たちに与えてくれるのが、ファンタジー、いや物語そのものの役割なのではないだろうか。

ガランの胸像
ガランの胸像=ロロ市(フランス北部)で2001年、筆者撮影

『ガラン版千一夜物語』(岩波書店)を翻訳したあと、海外調査に出かけられないままに、作者アントワーヌ・ガランの日記や旅行記を読みふけってきた。彼は生涯で15年近く中東に滞在した。不思議な体験をしたと彼自身が述べているエジプト旅行記が失われてしまったのは、とても残念だ。トルコのイズミールには、何度も滞在して詳しい報告を残している。その報告を読むと、その観察眼には驚く。現地の人びとの暮らしぶりにまで筆が及んでいて、いまの文化人類学者も顔負けだ。イズミールで1688年7月10日に起こった大地震のときも、ガランは現地にいた。その時に彼はすべてのものを失い、傷心のうちに帰国した。その経験が彼の人生観を大きく変えてしまったのかもしれない。ガランはふたたび中東を訪れることはなく、フランスからさえ一歩も出なかった。

マーク・トウェインは、苦しいときにこそユーモアが生まれると言った。それに呼応するかのように、石牟礼道子は、不幸を悲しむのをやめなさい、その悲しみを飼いならし、それを乗りこえることで、自分が生まれ変わる経験ができたことを喜びなさい、と言った。とてもむずかしいことだ。物語の本来の役割とは、予想外の危機を生き抜くために、人類の生存戦略として進化したのではないかと、いま考えている。