Select Language

メルカートの泥棒 あの手この手 寸劇風も

2023年1月7日刊行
川瀬慈(国立民族学博物館准教授)

エチオピアの首都アディスアベバにはアフリカ一の巨大な市場「メルカート」が存在する。ここには手に入らないものはないというぐらい何でもそろっている。私はエチオピアに渡航するたびに生活用品を調達するため、あるいは職場の国立民族学博物館の資料収集のため、この市場を訪れる。多種多様なスパイスや獣の皮の生臭いにおい、値段を交渉する人々の熱気あふれる声、鉄製品を加工する作業音。メルカートは生命力あふれる混沌(こんとん)とした迷宮である。私はメルカートをいつ訪れても全身の感覚を強く刺激される。

アディスアベバ市内は、信仰心にあつい人々のおかげなのか、警備活動の安定のためなのか定かではないが、概して凶悪な犯罪は多くない。ただし、空き巣やスリの類いの泥棒は決して珍しくない。特にメルカートは泥棒たちの温床として有名であるため、気をゆるめることはできない。

メルカートで陶器を売る女性=エチオピアのアディスアベバで2017年、筆者撮影
メルカートで陶器を売る女性
=エチオピアのアディスアベバで2017年、筆者撮影

泥棒たちは市場にやってきた人々をターゲットにさまざまな手口で盗みを働く。例えば乗り合いバスや、タクシーから人が降りる瞬間、猛烈にタックルし、ハンドバッグなどを奪い取る。また、店前の行列の中に入りこみ、厚手の布で手の動きを隠しながら、相手のポケットの中をまさぐり、財布や携帯電話を奪う。

チームで攻めてくるときもある。1人は後ろから相手を羽交い締めにして高々ともちあげる。突然宙に浮かされた人は驚き、足をばたつかせる。そのすきに、もう1人が正面からやってきて、相手のカバンやポケットの中のモノを盗むのだ。

そういえばこんなことがあった。ある日メルカートを私がぶらついていると、前から歩いてきた青年が、私の真正面、至近距離から派手にくしゃみをした。彼は「ああ、申し訳ありません」といって、私の上着のポケットに付着した飛沫(ひまつ)を、青色のハンカチで拭き取ろうとした。

青年の態度としぐさは極めて紳士的かつ丁寧であり、こちらが「そんなに気にしなくていいよ」と返したその瞬間。彼はすかさず私のポケットから携帯電話を抜き取り、逃げようとしたのである。しかし私の反応も早かった。メルカートの迷宮奥深くに消え去る前に彼を捕まえ、携帯電話を取り返したのである。あっという間の出来事に呆然(ぼうぜん)としたが、この時のスリの技は、まるでちょっとした寸劇のようで、妙に感心させられたのである。

ところで、エチオピア現地のアムハラ語で泥棒を指す言葉は「レバ」である。この語は泥棒以外にも「抜け目のない見事なやつ」といったポジティブな意味で頻繁に使われる。私の携帯電話を盗もうとした青いハンカチの青年が、レバという語の両方の意味を満たすためにはもう少し修業が必要なのかもしれない。