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沖縄の外食文化と写真家の感性 比嘉康雄の「否笑呂」と「ゆい」

2024年7月7日刊行
高科真紀(国立民族学博物館助教)

沖縄が日本に復帰した1972年。那覇の国際通りに国際ショッピングセンターが誕生した。27年間もの米国統治の時代を経て、パスポートが不要となった沖縄への観光客需要を見込み、民芸品や土産品を扱う店や飲食店などがテナントに入った。

2000年1月に閉店したが、開店当初の地下の飲食名店街には「否笑呂(ぴえろ)」と「ゆい」があった。オーナーは、琉球弧の祭祀(さいし)世界を記録したことで知られる写真家・比嘉康雄(ひがやすお)(38~00年)である。10年勤めた警察官の職を辞して写真家の道に進んだ比嘉は、71年に東京写真専門学院を卒業し、翌年4月に『生(うま)れ島(じま)・沖縄』を出版した。

「ゆい」の沖縄そばとジューシー=2022年7月、筆者撮影
「ゆい」の沖縄そばとジューシー=2022年7月、筆者撮影

そして、復帰直後の72年9月。沖縄が復帰した日本とはどんなところかを探るため、日本列島縦断の旅に出た。旅も終わりに近づき、再就職のあてもなく将来への不安が増していた頃、復帰記念の沖縄国体に向けての道路にするため、軍用地として強制収用されていた先祖の土地の一部が買い取られる話が舞い込んだ。この時に得たお金を資本に、家族との生活と写真活動の基盤を築くため、飲食店の経営を決意する。

73年夏、コーヒー専門店「否笑呂」を開店し、弟にマスターを任せた。落ち着いた空間でこだわりのコーヒーを提供して繁盛し、翌年には沖縄そば屋「ゆい」を同センターと沖縄市で開いた。

「否笑呂」は90年に閉店したが、「ゆい」は4店舗まで拡大したのち、22年夏に最後の店舗が建物の老朽化によって惜しまれつつ店を閉じた。

筆者は仲間と沖縄市のアトリエで比嘉の写真活動に関わる記録を調査しており、頻繁に「ゆい」で昼食をご馳走(ちそう)になってきた。すっきりしながらもコクのあるスープとソーキ、三枚肉、中味(モツ)、ゆでた葉物野菜などの具材がたっぷりのった沖縄そば。フーチバー(ヨモギ)が香るジューシー(炊き込みご飯)は、調査中の楽しみだった。

これまでは比嘉の写真家としての活動に注目してきたが、残された経営記録と、取材で留守がちな夫にかわり店を切り盛りしてきた妻の信子さんのお話から、飲食店経営にも比嘉の独特の感性が生かされてきたことがわかってきた。

信子さんによると、当時は沖縄そば屋はあっても今のようにやちむん(沖縄の焼き物)を器にした店はなかったそうだ。そのような時期に、比嘉は陶芸家の大嶺實清(おおみねじっせい)さんと意気投合し、彼が制作したマカイ(茶わん)でそばを提供した。経営記録には、スピーカーと記された電器屋の見積書も交じっていた。地元の食材にこだわったそばをやちむんで、沖縄民謡を聴きながら食べてもらう。“客の記憶に残るそばを出す”という写真家のこだわりの詰まった沖縄そば屋が復帰直後の沖縄にあった。