心配と係り合いについての人類学的探求
研究期間:2018.10-2022.3
西真如
キーワード
価値、秩序、ケアの生態系
目的
子育てや介助、癒やしや看護といった生活の様々な局面におけるケアの実践は、他者との一時的関係から生じる情動によって起動され、集合的な規範によって支持あるいは却下され、社会経済的制度によって保障あるいは排除される一連の係り合いの文脈において把握することができる。いかなる社会も、その成員が必要とする庇護や治癒を提供するための込み入った規範と制度とを備えている。しかし不確実な世界において私たちは、それら規範によって支持される見込みのない心配、制度的な保障を欠いた係り合いに常に巻き込まれている。本研究の目的は、情動と規範との間に生起する係り合いの束が、ある種の秩序/反秩序へと向かう政治的な過程を民族誌的記述として捕捉すること、またそのための方法論の確立である。その民族誌的方法は同時に、ケアに関する複合的な規範と制度、それらを結びつける諸エージェントの働きかけ、およびそこに動員される知識・技術・資源を、ある価値産出的な系として、すなわちケアの生態系として描き出すことを可能にする。
研究成果
ケアの実践を批判的に検討するための手がかりとして、本共同研究では次のみっつの論点を中心に議論をおこなってきた。ひとつは、フェミニスト倫理学あるいはケアフェミニズムと呼ばれる思想の潮流である。その核心をなすのは、普遍的あるいは外在的な倫理にもとづいて人々の善い関係が決定されるのではなく、人々の具体的な関わりの中から規範と秩序とが生起するのだという考え方である。ただしその場合でも、その行為の道徳的な正しさが何に由来するのかは、必ずしも明白ではない。ケアについての従来の議論は往々にして、行為者が適切な意図を持ってさえいればケアの関係が成立するという前提に寄りかかってきた。ケアする者たちが、その行為の価値が自明であるかのようにふるまう背景に、どのような価値が共有されているのか見極める必要がある。ふたつめは、ケアの実践における非人間の役割を探求することである。従来の議論においては往々にして、ケアは意図的な行為であり、したがってケア実践の主体となりうるのは、十全な意識を持った人間だけであることが暗黙の前提とされてきた。しかしながら環境人文学やエコロジカル・フェミニズムの分野では、人間ではない生物やモノがこの世界の豊かさの産出に関与していることを前提としたケアの理論を構築する動きがある。みっつめは、つながりや共感の価値を探求すると同時に、つながっていないことや距離を置くことの積極的な意味を認めることである。私たちは脆弱な存在であるために、他者の支えや共感を必要とするが、同時に私たち自身の脆弱さのために、他者を遠ざけたり、適切な距離を置くことが必要になる。これは、暴力や抑圧に晒される人間社会の問題であると同時に、人間以上のアクターを含めた世界における問題でもある。というのも、この世界にはウイルスのように、距離を強いるアクターも無数に存在するからである。
2021年度
本年度は5月に日本文化人類学会において分科会を開催し、本共同研究で期待される成果について公表する。またそこでの議論を踏まえつつ、3回の研究会を実施し、成果出版の内容について議論を深める。7月、10月、2月に開催する研究会において、共同研究員の研究の進捗および執筆構想を報告してもらい、議論を共有する。加えて7月および10月のの研究会では、成果出版の理論的枠組みについて、関連分野の研究動向を踏まえつつ議論を深める。人類学やケア倫理学、マルチスピーシーズ理論、オブジェクト指向哲学といった関連分野の研究動向について、メンバー間で理解の共有を図る。また2月の研究会では、研究成果の出版に至るまでのロードマップを共有し、早期の成果公開を図ることにする。またこれらの研究会と並行して、成果出版の準備を進めるため、数名の編集担当者を指名し、随時打ち合わせをおこなってゆく予定である。
【館内研究員】 | 森明子 |
---|---|
【館外研究員】 | 有井晴香、DE ANTONI Andrea、池見真由、大北全俊、加藤敦典、桑島 薫、佐藤 奈穂、内藤直樹、中村沙絵、野村亜由美、馬場淳、浜田明範、モハーチゲルゲイ、森口岳 |
研究会
中村沙絵(京都大学)「オンラインを活用したスリランカでの世代間関係の調査概要と出版に向けての構想」
有井晴香(北海道教育大学)「エチオピア・マーレ社会における禁忌の子をめぐるケア」
池見真由(札幌国際大学)「インドネシア都市スラムの地域コミュニティにおけるサニテーション価値連鎖と係り合い」
全体討論
佐藤奈穂(金城学院大学)「カンボジア農村における子どものケアをめぐる社会関係」
モハーチ・ゲルゲイ(大阪大学)「廃墟のケア——どん底における薬草栽培をめぐって」
森口岳(東京農業大学)「家族の政治学——ウガンダのスラムの一家族を事例にケアと葛藤をめぐって」
内藤直樹(徳島大学)「傾斜地でシコクビエが生き続けること――四国山地の世界農業遺産地域における土・異種・人間による行為の絡まりあい」
総合討論
浜田明範(関西大学)「感染のケア、ケアの感染」
アンドレア・デアントーニ(京都大学)「悪魔の医師――現代イタリアにおける憑依と病気を診断する情動」
桑島薫(名城大学)「ケア、暴力、親密性――侵食する欲望」
森明子(国立民族学博物館)「時間をケアする――大都市のシッターについて」
共同研究の総括と今後の進め方について
研究成果
日本文化人類学会第55回研究大会において分科会「心配と係り合いについての人類学的探究」を実施し、本共同研究のメンバー5名が研究報告をおこなった。また2021年6月、10月、および2022年2月に実施した共同研究会において、成果出版に収載する論文の執筆を念頭に、メンバーによる研究報告をおこなった。これら報告における主要な論点は次の三つであった。第一に、ケアの行為を裏付ける価値は何か。ケアは定義上、倫理的な行為とされるが、その行為の道徳的な正しさが何に由来するのかは必ずしも明白ではない。第二に、ケアの行為とその価値は、どのような制度や権力関係の中に置かれているかという問題である。第三には、ケアの実践における非人間の役割を探求することである。従来の議論においては、ケアは意図的な行為であり、ケア実践の主体となりうるのは、十全な意識を持った人間だけであることが暗黙の前提とされてきた。本共同研究では、これらの論点に沿って成果出版を構成することで合意が得られた。
2020年度
本年度は3回の研究会を開催し、本共同研究の成果に向けた議論をおこなう。7月の研究会では、本共同研究の理論的枠組みについて、関連分野の研究動向を踏まえつつ議論を深める。特に人類学やケア倫理学等の分野について、国際的な研究動向にキャッチアップを図るとともに、メンバー間で理解を共有する。10月の研究会では、認知症ケアの専門家に特別講師を依頼し、国内の認知症ケアの現場を訪問することで、理論的枠組みと実践との接続について理解を深める。その上で、研究成果の執筆に向けたメンバー各自の研究計画について集中的な討論をおこなう。成果出版に向けて具体的な課題を設定し、研究と執筆のロードマップをメンバー間で共有する予定である。2月の研究会では、引き続き研究成果公表に向けた議論をおこなう。特に翌年度に予定している日本文化人類学会での分科会発表に向けた準備をおこなう予定である。
【館内研究員】 | 森明子 |
---|---|
【館外研究員】 | 有井晴香、DE ANTONI Andrea、池見真由、大北全俊、加藤敦典、桑島 薫、佐藤 奈穂、内藤直樹、中村沙絵、野村亜由美、馬場淳、浜田明範、モハーチゲルゲイ、森口岳 |
研究会
研究成果
2020年7月の研究会では、本共同研究の理論的枠組みについてメンバー間で理解を共有するための議論を行った。アフリカにおけるてんかん患者のケアやCOVID-19流行下の日本における自閉症者のケアといった事例を取り上げ、「ケアの生態学」の枠組みでどのように理解できるかを話し合った。また人間と非人間の双方に開かれたケアのあり方について、人類学やケア倫理学の最近の著書を取り上げながら討論を行った。10月の研究会では、メンバーがそれぞれ本共同研究の最終的な成果をにらんだ研究計画を発表し、全員で討論を行った。なお10月の研究会では認知症ケアの現場を訪問する予定もあったが、これはCOVID-19流行のため中止となった。
2月の研究会では、四国の神社でおこなわれている憑きもの祓いを、情動的技術による治癒の過程として分析した報告(デアントーニ)および、DV被害者のシェルターにおいて支援活動に携わる者が、被害者の痛みにどのように接近するかを考察した報告(桑島)について討論を行った。
2019年度
本年度は3回の研究会を開催する。また本共同研究を構成する3つの役割分担に割り当てられた各課題について、個別の研究報告と議論を積み重ねる。本共同研究の役割分担は、a)「心配と係り合い」担当、b)「ケア実践の政治過程」担当、c)「ケアの関係性と価値」担当の3つである。a)の構成員は、主に従来の規範や制度に回収されないケアの実践について具体的な問題提起を行う。b)の構成員は、主に政治人類学的な観点から、秩序の形成過程におけるケア実践の役割について記述する方法について議論する。c)の構成員は、ケアの関係性の中で動員される知識・技術・資源が、いかなる社会的価値の産出を媒介するのかという問題について主に検討する。加えて本年度は、本共同研究に関連する先行研究の検討を行うとともに、研究成果の発表(翌年度に日本文化人類学会での分科会発表を予定)にむけた準備を始める。
【館内研究員】 | 森明子 |
---|---|
【館外研究員】 | 有井晴香、池見真由、大北全俊、加藤敦典、佐藤 奈穂、内藤直樹、中村沙絵、馬場淳、浜田明範、モハーチゲルゲイ、森口岳 |
研究会
研究成果
2019年6月の研究会では、ケニアとタンザニアの難民キャンプにおける市場形成(内藤)およびウガンダのスラムで生活する家族の葛藤(森口)に関する報告を踏まえ、統治とケア実践との関わりについて検討した。10月の研究会では、日本の都市で断片的な関係性を生きる男性(馬場)、ドイツの都市で生活するトランスナショナル家族とケア関係の創出(森)、カンボジア農村における多様なケア実践を可視化する実証的研究のメソッド(佐藤)、ベトナムにおける環境と健康の相互作用の場としての薬草園(モハーチ)に関する報告を踏まえ、従来の規範や制度に回収されない社会的・生態学的ケアの実践について議論した。2020年2月の研究会では、スリランカで認知症や精神疾患を抱えて生活する高齢者(野村)、日本の予防接種行政における「公的責任の縮小」とHPVワクチンの副反応問題(大北)、ベトナムの農村における道徳、情動、および生きづらさ(加藤)に関する報告を踏まえ、ケア実践に関わる統治性と道徳性についての議論をおこなった。
2018年度
1)研究会の開催 毎回の研究会は、2から3名のメンバーによる研究発表と、発表に対するコメント、それにつづく参加者全員の討論から構成され、原則として国立民族学博物館において開催する。議論の進展にあわせて、テーマに即した特別講師を、各年度に数名招聘する。
2)年度毎の計画
初年度(30年度)は3回の研究会を開催する。初年度の達成目標は、メンバーが本共同研究の目的と方法論とを共有すること、メンバーが互いの問題関心を把握し共同研究の枠組みの中に位置づけること、成果に向けたロードマップを策定することである。
3)共同研究の構成
本共同研究は、(a)「心配と係り合い」担当、(b)「ケア実践の政治過程」担当、(c)「ケアの関係性と価値」担当の3つの役割分担を設ける。(a)の構成員は、主に従来の規範や制度に回収されないケアの実践について具体的な問題提起を行う。(b)の構成員は、主に政治人類学的な観点から、秩序の形成過程におけるケア実践の役割について記述する方法について議論する。(c)の構成員は、ケアの関係性の中で動員される知識・技術・資源が、いかなる社会的価値の産出を媒介するのかという問題について主に検討する。
【館内研究員】 | 森明子 |
---|---|
【館外研究員】 | 有井晴香、池見真由、大北全俊、加藤敦典、佐藤 奈穂、内藤直樹、中村沙絵、馬場淳、浜田明範、モハーチゲルゲイ、森口岳 |
研究会
研究成果
本共同研究は、人々が日常的に経験する心配や係り合いが、いかなる価値や秩序の産出に寄与しているのかを問うものである。本研究ではそのような価値を産出する関係性、およびそこに動員される知識や資源の総体に関する探究をケアの生態学と呼ぶ。2018年12月に実施した最初の研究会では、ベイトソンの「精神の生態学」をはじめとする人類学的な議論の枠組みに本共同研究の問題意識をどう位置づけるか検討した。またエチオピア南部社会で出生上の禁忌に触れた子がどのように養育されているかという問題(有井)を通して、従来の規範や制度に回収されないケアの実践の可能性についての議論をおこなった。2019年2月の研究会では、スリランカにおける原因不明の腎臓疾患(中村)、インドネシアにおけるし尿処理とその価値連鎖(池見)、およびガーナにおける食品の流通や摂取がつくりだす化学的環境(浜田)の問題を踏まえ、ケアの関係性の中で動員される知識・技術・資源が、いかなる社会的価値の産出を媒介するのか検討した。