Select Language

超常認識と自然観をめぐる比較心性史の構築(2018-2023)

科学研究費助成事業による研究プロジェクト|基盤研究(A)

山中由里子

目的・内容

近世以前、ヨーロッパや中東においては、人魚、一角獣といった不可思議だが実在するかもしれない生物や現象は、「驚異」として自然誌の知識の一部とされた。また、東アジアにおいては、奇怪な現象や異様な生物・物体の説明として「怪異」という概念が作りあげられてきた。本研究は、自然界の直観的理解から逸脱した「異」なるものをめぐる人間の心理と想像力の働きを、「驚異」と「怪異」をキーワードに、比較心性史的な視点から考察する。
どのような事象が「驚異」や「怪異」として認識され、どのような言説や視覚表象物として表れたのか、背景にどのような自然観があるのか、なぜ特定の事象が広く、永く伝承され続けるのかといった点に注目し、自然界と想像界の相関関係の歴史的変遷とその基層にある心性メカニズムを、学際的・多元的視点から究明する。これにより、近代合理主義の行き詰まりを乗り越える、新たな環境思想への展望を開く。

活動内容

2023年度実施計画

2022年度事業継続中

2022年度活動報告(研究実績の概要)

ユーラシア大陸の東西の文明圏―主としてヨーロッパ・西アジアの一神教世界と東アジアの漢字文化圏―において、「自然」と「超自然」、もしくは「この世」と「あの世」の境界に立ち現れる身体・音・モノが、伝承・史料・民族資料・美術品などにどのように表象されているかを考察した。
大沼、黒川、林、山中が、基盤研究C「『創造の業』の系譜ーユダヤ教における『自由』と『偶像』の総合的研究」(代表:勝又悦子)と基盤研究C「ヨーロッパ中世における博物学的知識の伝承ー中東及び古代・近世との関わり」(代表:大沼由布)との連携において、一神教世界における「巨人」の表象についての公開シンポジウムや講演会の企画に関わった。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の宗教的言説における巨人のイメージの違いや、共通性を探った。
山中が日経新聞の文化紙面「美の十選」欄において「境界のクリーチャーたち」を連載し、人類が想像してきた幻獣の表象の様々な類型を紹介した。大きな社会的波及効果が得られたといえる。
分担者の安井が、『狙われた身体:病いと妖怪とジェンダー』を出版し、妖怪として可視化される病いについて民俗学とジェンダーの視点から考察した。同じく安井は、大阪大学総合学術博物館/国際日本文化研究センター主催の展覧会「身体イメージの創造ー感染症時代に考える伝承・医療・アート」(大阪大学総合学術博物館、2022年1月17日~2月12日)の企画に関わり、研究の社会的還元に貢献した。
分担者小松と安井が編集に関わった『妖怪文化研究の新時代』(せりか書房)が刊行された。

2022年度活動報告(現在までの進捗状況)

令和3年度も、コロナ感染症予防対策のための移動制限が厳しかったために、海外研究者を招へいしてのシンポジウムの開催はかなわなかった。しかし、限定的ながら海外調査を再開することができ、オンライン公開シンポジウム、および講演会等で成果公開を行うことができた。
国内の博物館(高知県立歴史民俗資料館、福岡市博物館)における成果公開展示の準備も順調に進んでいる。

2021年度活動報告

2021年度事業継続中

2020年度活動報告(研究実績の概要)

令和2年度は、コロナ感染症拡大のため、予定していた国内外調査がほとんどできなかったが、国内での成果展示、および今後の国際発信に向けての勉強会を行い、主としてユーラシア大陸の東西の文明圏において、「自然」と「超自然」、もしくは「この世」と「あの世」の境界に立ち現れる身体・音・モノが、伝承・史料・民族資料・美術品などにどのように表象されているかを考察した。
具体的には、兵庫県立歴史博物館において、特別展「驚異と怪異――モンスターたちは語る」を開催し、ヨーロッパや中東において、不可思議ではあるが実在するかもしれず自然に関する知識の一部として伝えられた犬頭人、一角獣といった「驚異」と、東アジアにおいて、流星や異形の生き物の誕生など、天や神仏からの警告であると捉えられた、通常とは異なる現象「怪異」の比較研究を、展示の形で公開した。本展では人魚、竜、怪鳥、一角獣など、さまざまな世界の想像上の生き物の境界的な「生態系」を紹介するとともに、特に警告・凶兆(モンストルム)を語源とする怪物(モンスター)の文化史的な意味に注目した。兵庫県立歴史博物館学芸員の香川雅信氏の先験的キュレーションによって展示されていたアマビエなどの「予言獣」が、コロナ禍によって一層の注目を浴びることとなり、疫病とモンスター表象の関係性についても考察をうながす展示となった。さらに、分担者の佐々木聡が、特別展「東アジア恠異学会20周年記念展示 吉兆と魔除け―怪異学の視点から」(2021年2月24日~4月14日、京都産業ギャラリー)の企画に関わり、祥瑞災異思想に関わる解説を担当した。
また、2019年に刊行した日本語の成果論集『この世のキワ―<自然>の内と外』の英訳作業を進め、特に漢語や日本語の概念を英語に置き換える際の、概念の意味範囲のズレの問題について、オンライン勉強会を開き、踏み込んだ議論を行った。

2020年度活動報告(現在までの進捗状況)

開幕時期は延期になったものの、国内における成果公開のための展示は無事行うことができた。コロナ禍によって、国内外の現地調査や海外研究者を招いての対面シンポジウムは難しい状況になったが、疫病という人間がコントロールできない目に見えない力とモンスター表象の拡がりの関係性について、リアルタイムで考察できたことは、大変意義深い。
今後の国際発信のための英訳作業を行い、用語の妥当性についての綿密な議論を、オンライン勉強会で進めることができた。
非常に残念なことに分担者の山田仁史氏が急逝された。海外の学会でも活躍し国際経験豊かで、比較神話学の大きな視野からユーラシア全体を捉えることができた山田氏には、英語での成果論集への貢献も期待していただけに、大きなロスである。

2019年度活動報告

「驚異」と「怪異」をキーワードに、主としてユーラシア大陸の東西の文明圏において、「自然」と「超自然」、もしくは「この世」と「あの世」の境界に立ち現れる身体・音・モノが、伝承・史料・民族資料・美術品などにどのように表象されているかを考察してきた。この成果を代表者山中と分担者山田の共編で『この世のキワー<自然>の内と外』(勉誠出版、2019年)にまとめ、文化的・歴史的事象としての驚異・怪異ーすなわちmirabilia, ajaibなどの訳語としての「驚異」と、怪・恠異・あやかし・物の怪などとして一次資料に登場する「怪異」ーの多様な事例を、地域や時代のバランスも考慮して紹介した。分担者・研究協力者も含め、計25名の執筆者は文学作品や美術作品、またはフィールド調査データの綿密な分析を通して、それぞれの時代・地域の自然観における驚異・怪異の位置付けや、隣接概念との関係性を解いた。また、個々の論考で採りあげた事例が、驚異と怪異の文化史のどの時点に当てはまるのか、同時代に他の文化圏で何が起こっていたのか、といった巨視的な展望を得るための見取図として比較年表を作成した。
上記の文化事象としての驚異・怪異に対して、日本語での分析概念としての<驚異>と<怪異>の意味範囲の「磁場」も浮かびあがってきた。すなわち、<驚異>とは時間的・地理的・心理的に遠い未知の(その原因が合理的に説明できない)珍しい事象で、博物学的な興味の対象となるような自然物や現象であるのに対して<怪異>は身近なところでも起こり得る、あるいは見慣れた日常の何かがずれるからこそ異常性が際立つ、常ならざる存在・現象といえる。
さらに、驚異・怪異の基層にある人類に普遍的な心性メカニズムを探るため、国立民族学博物館所蔵の民族資料を調査し、超常的な存在や異なるものを人が想像する際のイメージ形成のパターンを検証し、特別展として公開した。

2018年度活動報告

驚異・怪異を、不思議・稀・奇跡・魔術・妖術・自然・超自然といった隣接概念との関係性において明らかにするべく、メンバー各自が国内外の文献、伝承、美術品、民族資料などの現地調査を行った。専門領域が歴史・文学・美術・文化人類学・民俗学・宗教学を含む学際的なメンバーの手法を有機的に結び付け、様々な文化圏・時代の驚異・怪異観念を相互比較するために、a. 神と自然、b. 身体性、c. 時空間、d. 生物相といった比較の主軸を意識しながら研究を進め、定例研究会において相互検証を行った。
驚異や怪異を、メンバー各自の専門の時代や文化圏における自然理解の中に位置づける考察を行った結果、「自然/超自然」という二元的な枠組みの妥当性を疑問視するに至った。人は、直観的な自然理解を逸脱する、不可思議な物事の出現のつじつまを合わせるために、何らかの見えない力の介在を見出してきた。近代以前の一神教世界ではそれは「神」(キリスト教世界では近世以降は「悪魔」の存在感も強くなる)であり、東アジアでは「天」や「気」であった。既存研究では、それらの存在をおしなべて「超自然」という言葉で捉えがちであったが、「超自然」が西洋近代的な”nature”の概念ベースにのっとったものであり、近世以前の宇宙観・自然観を論じる相応しいとは限らない言葉であるという認識に至った。
東アジアの怪異を ヨーロッパや中東の驚異と対比させた結果、怪異は 「自然vs.脱自然・超自然」という対置構造の中で理解されるべきでなく、むしろ「常vs.異」、もしくは「理vs.理外 」(道理vs. 道理を逸したもの)のせめぎあいとして捉えるべきであろうということが分かってきた。