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カザフスタンにおける伝統医療とイスラームの人類学的研究(2016-2023)

科学研究費助成事業による研究プロジェクト|基盤研究(C)

藤本透子

目的・内容

中央アジアでは、1990年代の体制移行に伴うイスラーム復興と社会変容のなかで伝統医療に携わる治療師が急増し、ある程度まで社会が安定し経済発展を遂げている現在も人々の関心をひきつけて存続している。地域社会の人々が身体を近代医療の対象としてのみ見ず、むしろ宗教的観念が作用する場と捉えてきたことをふまえて、本研究は伝統医療の再活性化を人類学的調査にもとづいて分析し、現代中央アジアにおける宗教・社会・身体の関係を考察することを目的とする。
具体的には、治療師の活動が活発なカザフスタンを中心として、1)中央アジアにおける伝統医療の歴史的背景、2)伝統医療の再活性化メカニズム、3)社会主義を経験した社会の近代医療と伝統医療の関係、4)イスラームおよびシャマニズムと伝統医療の布置を明らかにする。

活動内容

2023年度実施計画

2022年度事業継続中

2022年度活動報告(研究実績の概要)

中央ユーラシア草原地帯の社会・宗教動態に関して、歴史学と連携しながら人類学研究を位置づけるため、カザフスタンのR.B.スレイメノフ東洋学研究所の研究者と連絡をとりつつ分析を進めた。カザフ社会におけるイスラームについては、人生儀礼や結婚に関する論考を執筆した。また、関連文献を読込み、エムシと呼ばれる治療者の活動について検討した結果、次のことがわかった。
中央ユーラシアの諸社会は、歴史的にシャマニズム、祖先信仰、マニ教、ゾロアスター教などの宗教的多元性を有していた。14~16世紀頃におけるテュルク系遊牧民の段階的なイスラーム化には、スーフィー教団の導師が大きな役割を果たした。シャマニズムとスーフィズムは観念上異なるが、身体を動かし忘我の状態で不可視の存在に祈る点で儀礼的行為に共通性がある。カザフのバクス(シャマン)がスーフィズムのズィクルと称する儀礼を行うことは、こうした歴史的文脈を踏まえて理解すべきものだろう。
カザフを含む中央アジアのシャマンの主な活動は、病気治療であった。現在では、エムシの活動にシャマニズムの要素が含まれる。エムシはグループを組織して聖者廟などに参詣し、病気の治癒や開運を祈願する。聖者廟はしばしばスーフィー教団の導師の墓に由来し、泉や洞穴も聖者に関連付けられ参詣の対象になっている。エムシの活動は、アニミズム、シャマニズム、スーフィズムの歴史的重層性の上に展開されていると考えられる。
エムシは自分の祖先の系譜を強調することが多い。系譜の重視は一般にテュルク系遊牧民の社会の特徴であり、また歴史的にチンギス・ハンの子孫トレと預言者の子孫であるサイイドが社会的権威を有していたが、明確にシャマンの家系とされるものはない。子孫すべてではなく、特定の子孫に受け継がれた素質が病いや夢の啓示により明らかになるという点に、エムシの系譜および継承に関する観念の特徴がある。

2022年度活動報告(現在までの進捗状況)

健康上の理由で2022年9月から2023年1月まで断続的に病気休暇を取得し、たびたび研究を中断せざるを得なかった。また、基礎疾患があるために、新型コロナウイルス感染症の流行がやや落ち着きをみせた後も、国外渡航して調査を行うことができなかった。メールやソーシャルネットワークサービスなどを活用して現地と連絡を取りつつ研究を進めているが、実際に渡航して調査や研究交流を行う場合に比べ進捗に遅れが生じた。

2021年度活動報告(研究実績の概要)

カザフスタンで2019年までに収集した民族誌データをもとに、身体に関わる観念や行為に着目しながら、社会と宗教の関係を検討した。歴史的に草原地帯を中心に遊牧生活を送っていたカザフ人は、シャマニズム、祖先信仰、テングリ信仰などの諸要素を存続させながらイスラームを受容した人々である。現在、シャマニズムの要素は伝統医療の治療者の行為のなかに見られる。また祖先信仰は、死者(特に祖先)への崇敬というイスラームの規範に抵触しないかたちで、葬送や埋葬などの行為のなかに組み込まれている。
こうした点をふまえて、他者の身体へのケアという観点から葬送や埋葬をめぐる社会的制度について検討し、葬制と墓制の背後にある死生観について論文を執筆した。また、カザフ人の家族生活とイスラームのかかわりについて、結婚形態の変遷をとおして検討し論文にまとめた。人生儀礼とイスラームなどに関する事典項目の執筆も行った。10月にはカザフスタンで開催された国際会議にオンライン参加し、宗教関連の標本資料を含む博物館のカザフ資料コレクションについて口頭発表した。国立民族学博物館のフォーラム型情報ミュージアムの中央・北アジアデータベースの記述にも、研究成果の一部を反映させた。
また、2020年度に開催した国際ワークショップSocial and Religious Dynamics of the Central Eurasian Steppe: Anthropological and Historical
Approachesの成果とりまとめに向けて、ディスカッション部分の録音データの文字化など、学術雑誌に今後投稿するための準備作業をおこなった。

2021年度活動報告(現在までの進捗状況)

健康上の理由で2020年11月から2021年6月まで休職し、7月に復職したが、11月中旬に再び病気休暇に入って12月中旬に復職するなど、たびたび研究を中断せざるを得なかった。

2020年度活動報告(研究実績の概要)

本研究は、カザフスタンにおける伝統医療とイスラームの展開を人類学調査に基づいて分析し、宗教・社会・身体の関係を考察することを目的としている。
2020年度は、新型コロナウイルス感染症の拡大により現地調査を行うことができなかったが、2019年度までに収集したデータを整理して以下の成果発表を行った。
8月には、カザフスタンの東洋学研究所が主催する国際会議にオンライン参加し、病気治療を目的の一つとする聖者廟参詣について発表した。9月には、国際ワークショップSocial and Religious Dynamics of the Central Eurasian Steppe: Anthropological and Historical Approachesを、国立民族学博物館で開催した。このワークショップでは、カザフスタンの東洋学研究所のM. Abusseitova教授が、中央ユーラシア草原地帯における宗教動態を歴史的に概観し、遊牧民と近隣諸民族の交渉のなかで多様な宗教が信仰され、イスラーム化以降もシャマニズムや死者崇敬などの要素がみられることなどを指摘した。次に、ベルギーのルーヴァン・カトリック大学のA-M. Vuillemenot教授が、中央アジアにおけるカザフのシャマニズムについて、インド北部のチベット系住民であるラダッキのシャマニズムとも比較しながら研究発表した。最後に、科研代表者がこれまで行ってきた調査をもとに、カザフスタンにおける伝統医療と治療者の活動について、特に子どもの病いに焦点を絞って発表した。発表後、京都大学の山田孝子名誉教授と国立民族学博物館の池谷和信教授からコメントを受けて議論し、伝統医療を中心としながらより広く社会・宗教動態を解明していくための示唆が得られた。

2020年度活動報告(現在までの進捗状況)

病気治療を目的の一つとする聖者廟参詣について日本語と英語でそれぞれ書籍掲載論文にまとめたほか、カザフスタンで新型コロナウイルス感染症が拡大する状況下での生活についても日本語の書籍掲載論文のなかでとりあげて検討した。また、予定していた国際ワークショップを、対面とオンラインを併用して実施することができた(人間文化研究機構北東アジア地域研究プロジェクトと共催)。このワークショップには、国外から発表者2名がオンライン参加し、国内からは発表者とコメンテーターを含む25名がオンラインおよび対面で参加して、人類学と歴史学の両面から中央ユーラシア草原地帯における社会・宗教動態に関する議論を深めることができた。今後、ワークショップの内容を論文として投稿する必要があるが、本年度に関しては昨年度までの遅れを取り戻しておおむね順調に進展したと考えている。

2019年度活動報告

2019年7月から8月にかけてカザフスタンに渡航し、伝統医療とイスラームに関するフィールドデータを追加収集した。パヴロダル州バヤナウル地区では、特に20世紀における聖者廟の成立過程と変遷、病気治療などの目的での参詣に関する資料を収集することができた。また、オスケメン市とパヴロダル市で開催された国際会議で口頭発表を行い、カザフスタン、ロシア、ベルギーなどから集まった歴史学、人類学、民族学を専門とする研究者の意見を聞いて議論した。
その上で、最終年度の成果発表に向けてカザフスタンの事例をより広い文脈で位置づけるため、中央アジアのムスリムの伝統医療に関する文献に加えて、関連性の深いシベリアのシャマニズムに関する文献を収集して読解することに力を入れた。その結果、現代中央アジアのムスリムの治療者の活動は、現代シベリアにおけるシャマンの活動と重なり合う部分が少なからずあること、ソ連時代末に広がった「生体エネルギー(生物エネルギー)」という観念に基づいて、旧ソ連各地域の伝統医療が新たに解釈されるようになっていることが明らかとなった。
これまでの研究成果の一部は、「カザフスタンにおける伝統医療とエムシ(治療者)の活動」として書籍掲載論文にまとめ、出版が確定した。また、伝統医療が行われているコミュニティ自体の動態を論文「中央アジア草原地帯におけるコミュニティの再編と維持―カザフのアウルに着目して」にまとめた。なお、最終年度の国際ワークショップ「中央ユーラシア草原地帯における社会・宗教動態:人類学と歴史学からのアプローチ」に向けて、国内外との打ち合わせも行いながら準備を進めた。

2018年度活動報告

本研究は、中央アジア(特にカザフスタン)における伝統医療とイスラームの展開を人類学調査に基づいて分析し、宗教・社会・身体の関係を考察することを目的としている。3年目にあたる2018年度は、健康上の理由から国外調査を行うことができなかったが、2年目までに収集した現地調査データの分析に重点をおき、口頭発表と原稿執筆を行った。
カザフの伝統医療は、牧畜を基盤とする生活に根差し、シャマニズムと深い関連をもち、イスラームの影響を受けながら形成されており、ロシアから導入された医学的知識をも取り込みながら展開してきた。現地調査データからは、1)日常的治療実践としての油脂や薬草などの利用状況、2)治療者となる過程、3)病因と診断・治療方法の多様性、4)邪視の認識とその治療の特徴、5)特定の乳幼児の病気に関する認識とその治療の特徴、6)ロシア語の病名との対応関係の認識などが、具体的に明らかとなった。
これまでの研究成果の一部は、「社会再編のなかのイスラーム―地域における生き方の模索」として刊行することができた。このほか、3本の論文を執筆した。ひとつは「カザフスタンにおける伝統医療と治療者(エムシ)の活動」で、現在、コメントを受けて改稿中である。2つ目の論文は、聖者廟参詣と伝統医療のかかわりについて分析したもので、論集の一部として科研(研究成果公開促進費)に応募した。3つ目の論文は「中央アジア草原地帯におけるコミュニティの再編と維持」で、出版助成に申請予定である。また、日本との比較も視野に入れた口頭発表も行った

2017年度活動報告

本研究は、中央アジアにおける伝統医療とイスラームの展開を人類学調査に基づいて分析し、宗教・社会・身体の関係を考察することを目的としている。2年目にあたる2017年度は、中央アジアの伝統医療とイスラームに関する文献を広く渉猟した上で、カザフスタンを中心に、近接するクルグズスタン北部とモンゴル西部でも短期間の現地調査を行った。
まず、文献調査では、中央アジアで伝統医療がイスラームと関連付けられながら行われてきたが、シャマニズムなどと共通する側面を持つがゆえに正統なイスラーム実践ではないと批判され、地域社会の人びとの議論の場となっていることが明らかとなった。
次に、現地調査では、従来の文献で伝統医療がイスラームとの関連においてのみとらえられる傾向にあったことを批判的にふまえて、治療者・患者・家族のあいだのコミュニケーションに着目するという新たな観点から中央アジアの伝統医療を捉えることを試みた。その結果、カザフ社会の伝統医療の現場では、生体エネルギーなどの新たな観念を取り込みながら、治療者と患者のあいだで身体をとおした共感を基盤として治療が行われていること、患者どうしが頻繁に情報交換を試みていること、患者と家族のあいだにはしばしば伝統医療の是非をめぐって意見の相違がみられることなどがわかった。地域社会の内部に議論と亀裂を生みながら、身体をとおした共感を基盤としてコミュニケーションを共有することが模索されているといえる。
現代において、人が他者と関わりながら、身体をどのようなものとして捉えて治療行為を行っていくのかを考察していく上で、以上の中央アジアの事例は意義深い。今年度までの調査研究の結果の一部は、日本文化人類学会、ヨーロッパ中央アジア学会・アメリカ中央ユーラシア学会合同研究大会などで発表している。

2016年度活動報告

本研究は、中央アジアにおける伝統医療とイスラームの展開を人類学調査に基づいて分析し、宗教・社会・身体の関係を考察することを目的としている。初年度にあたる2016年度は、カザフスタンで23日間、モンゴルのカザフ社会で15日間の現地調査を行った。主に民間治療者協会や治療者から聞き取りを行い、治療を参与観察した結果、次のことが明らかとなった。
1)社会主義体制から移行する前後(1990年頃)から伝統医療を再評価する機運が高まり、民間医療センターや民間医療者協会が設立された。2)治療者の素質が祖先から継承されるという観念が、ある程度まで地域社会に共有されている。3)治療者となる経緯は、祖先の霊によって治療者になることを要求されるなどシャマニズムと類似した事例がみられるが、夢で聖者から啓示を受けるというイスラームの聖者崇敬に関連した事例も多い。4)病因のひとつとして邪視の観念があり、特殊な治療法が存在する。5)診断と治療の過程では、治療者と患者のコミュニケーションが重視される。治療法は、儀礼による霊的な浄化、家畜の油脂などを用いたマッサージ、ステップに生える植物を利用した薬草治療などが主に行われ、治療者によってそれぞれ専門とする治療法がある。6)モスクのイマム(集団礼拝の指導者)は、治療がイスラームに則していないと批判するが、治療者は敬虔なムスリムであることを強調し、礼拝を行うなどイスラームの規範に則ることで治療の力も得られると考えている。
以上のように、現地調査に基づき、現代のカザフ社会における伝統医療の基礎的なデータを収集することができた。これらのデータは、人が他者と関わりながら身体をどのようなものとして捉えて治療行為を行ってきたのかを考察していく上で意義をもっている。文献調査の結果と照らし合わせながら、宗教・社会・身体の関係について今後さらに分析を進める。