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ガダルカナル島の戦後 まだ続く太平洋戦争の災禍

2023年11月5日刊行
藤井真一(国立民族学博物館助教)

私が10年あまりにわたって民族誌調査を続けてきたソロモン諸島ガダルカナル島は、日米両軍が地上戦を繰り広げた場所として有名だ。1942年8月から43年2月にかけて行われた軍事衝突は、多くの死傷者を生み出した。戦後約80年がたち、戦争を直接に経験した存命者は少なくなってきたとはいえ、21世紀になってからも慰霊や遺骨収集のために多くの日本人がソロモン諸島を訪れている。ここでは、現地に残されたものからガダルカナル島の戦後について考えてみたい。

太平洋戦争がソロモン諸島に残したものはさまざまである。戦闘機や装軌車の残骸、野砲や銃身、薬莢(やっきょう)などもガダルカナル島には数多く残されている。これらの一部が集められ、野外博物館に陳列されることで、現金収入を生み出す観光資源になっていることもある。一方、98年に勃発した「民族紛争」と呼ばれる内戦では、不発弾などから取り出した火薬や太平洋戦争で使われた銃身を再利用した事例もあったという。

焚き火で食事の準備をする=2019年9月、ガダルカナル島北岸部で筆者撮影
焚き火で食事の準備をする
=2019年9月、ガダルカナル島北岸部で筆者撮影

2022年の秋、ソロモン諸島ガダルカナル島に残された不発弾に関する英文の記事をSNS上で見かけた。その中に、不発弾の暴発で亡くなった現地人男性のエピソードがあった。記事を読み進めていくと、ガダルカナル島ではありふれた名前であるその男性が、11年から調査地で付き合ってきた私の友人だと判明した。

ソロモン諸島の村落部では、金属製のやかんや鍋を焚(た)き火にかけて料理をするのが一般的である。私の友人は、食事準備の焚き火のせいで地中の不発弾が暴発したために亡くなったようだ。すぐそばにいた次男は病院搬送後に死亡、少し離れていた妻も飛んできた鉄片を浴びて脚に障害を負ったらしい。

日米両軍がソロモン諸島に残した不発弾は数千発。毎年20人以上が死傷しているといわれている。もはや私たちは毎年8月を除いて「戦後」をあまり意識しなくなってきているように思われる。しかし、自分たちがもともと暮らしていた場所を戦場にされたガダルカナル島の人びとにとって、太平洋戦争は終わった出来事ではないのである。

首都近郊の不発弾処理施設がある「ヘルズ・ポイント」の看板=20年3月、ガダルカナル島北岸部で筆者撮影
首都近郊の不発弾処理施設がある「ヘルズ・ポイント」の看板
=20年3月、ガダルカナル島北岸部で筆者撮影