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魅惑のモンゴル都市世界 興隆するヒップホップ

2022年4月2日刊行
島村一平(国立民族学博物館准教授)

突然だが、モンゴルの首都といえば、何を思い浮かべるだろうか。名前はウランバートル。でもその先の情報は? 大草原? 遊牧民? あるいはモンゴル相撲? 都市のイメージが出てこないという方も少なくないのではないだろうか。そのウランバートルが面白い。人口160万人。人口規模は、すでに京都や神戸を超えている。この都市で働く医師や弁護士、教師の6~7割が女性だ。ウランバートルは女性が活躍する都市だといってよい。またこの町の女性たちはファッションに敏感である。欧米人並みに足の長い女性がストリートを闊歩(かっぽ)する姿もあまり知られていない。

かつてウランバートルにあった「黄の宮殿」
かつてウランバートルにあった「黄の宮殿」=1927年、O.マーメン撮影 ©The Oscar Mamen family/The Museum of Cultural History, University of Oslo

筆者は昨年、『ヒップホップ・モンゴリア―韻がつむぐ人類学』(青土社)を上梓(じょうし)した。首都ウランバートルでヒップホップ文化が興隆する様とその背景となる貧富の格差や都市の環境問題、政治腐敗にあらがう若者たちの姿を描き出した作品だ。モンゴルのヒップホップの魅力はメッセージ性の強さだけではない。高い韻踏みの技術や洗練された音楽性も兼ね備えているのである。モンゴルを代表する都市文化のひとつだといっていい。

この作品を読んだある読者が、「わたしのモンゴルイメージは『スーホの白い馬』で止まっていた」とSNS(ネット交流サービス)でつぶやいていた。そう、我々はそろそろモンゴルに対するイメージを更新する時期に来ているのではないだろうか。実はモンゴル国で遊牧民が人口に占める割合は、もはや10%に満たない。

ウランバートルはその過去も非常に興趣をそそる。都市の起源は、なんと大活仏(転生ラマ)の移動式寺院だったというのである。ゲル型の寺院群で構成されたこの宮殿寺院は、1639年の成立以来、移動を繰り返した。しかし時を経るにつれ規模が大きくなり、現在のウランバートルの地に定着した。1778年のことである。19世紀以降、このゲル群で構成された町を訪れた欧米人は「ウルガ」と呼んだ。宮殿を意味するモンゴル語「ウルグー」がなまったものである。

20世紀初頭、モンゴルはこの大活仏ジェブツンダンバ8世を皇帝に推戴し、清朝より独立する。当時のウルガの中心部には、「黄の宮殿」と呼ばれる寺院宮殿があった。その一つの楼閣が金箔(きんぱく)で覆われた「黄金宮」であったことを当時のロシア人学者ポズネーエフは、書き残している。

実は、国立民族学博物館では、現在、日本・モンゴル外交関係樹立50周年記念特別展「邂逅(かいこう)する写真たち―モンゴルの100年前と今」が開催されている。その名のとおり、100年前の写真と現在の写真たちが特別展会場で出会うというものである。きっと、魅惑のモンゴル都市世界に出会えるはずだ。