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高丘親王

高丘親王(高岳親王とも表記される。真如親王とも言われる)という名前をご存知だろうか。高丘親王(799〜865?)は、平安京を開いた桓武天皇の孫にあたる人である。薬子の変(810年)により皇太子の地位を廃されたあと、仏門に入り、空海の弟子となった。60歳を過ぎてから仏法を求めて入唐するが、唐では仏教が衰退状態にあったため、天竺(インド)に向けて旅立ったという。その後の消息は不明だが、16年後、留学僧により、羅越国(マレー半島の南端の国)で虎に襲われて亡くなったと伝えられた。

戦前の教科書には、南進の英雄として高丘親王が取り上げられていたというが、覚えている人は少ないであろう。1970年には、高丘親王が開いたとされる高野山の親王院が、マレーシアのジョホール・バルにある日本人墓地に親王の供養塔を建立した。この供養塔への訪問をきっかけに、私の高丘親王への興味と探究は深まっていったのである。高丘親王については、杉本直治郎著『真如親王伝研究―高丘親王伝考』や佐伯有清著『高丘親王入唐記―廃太子と虎害伝説の真相』に詳しく書かれており、また、司馬遼太郎も『空海の風景』のなかで、親王について言及しているので、ご興味のある方はお読みいただきたい。

865年、66歳の高丘親王は従者三人だけを伴って、天竺に向けて広州の港を出発したが、羅越国までの経緯や亡くなった場所は不明である。ここでぜひ読んでいただきたいのが、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』という小説である。フィクションではあるが、高丘親王が今日のベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、雲南を旅して、スマトラ島から羅越国に向かうというストーリーが展開されていて、なかなか面白い。同タイトルの漫画本も出版されている。

東南アジア古代史を紐解くと、当時、広州を発つ船は、小説に出てくるルートではなく、海路シンガポール付近まで直接向かった可能性が高い。その場合、高丘親王は東南アジア各地には立ち寄らず、最初に着いた島で虎に襲われてしまったことになる。これではあまりにロマンがなく、ただただ無念な話である。だからこそ、澁澤は小説で、ベトナムやカンボジアに上陸し、タイからマレー半島を陸路横断し、アンダマン海を船で渡るルートを採用したのではないだろうか。いずれにせよ、66歳の高丘親王が、命懸けで天竺に向かった求法(ぐほう)への熱い思いは、現代の人々の想像を超えるものであったに違いない。

信田敏宏(国立民族学博物館教授)



関連写真

マレーシア、ジョホール・バルの日本人墓地にある高丘親王の供養塔
(信田敏宏、マレーシア、ジョホール州、2013年)


マレーシア、クダ州、メルボック川からジェライ山を臨む
(信田敏宏、マレーシア、クダ州、2023年)

ジェライ山を目印に西方から帆船でやってきた古代の交易者たちは、このメルボック川を上り、マレー半島を陸路で横断し、東海岸へ抜けるルートをたどっていたという。ジェライ山の周囲には、仏教やヒンドゥー教の古代遺跡が遺っている。